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Component separation(腹壁瘢痕ヘルニア)

第2章最終回です。

「前回の手術創に沿って皮膚切開!」


 リューはメスの刃を消毒した皮膚に突き立て、切開をする。細かな血管からの出血を、鑷子(せっし)で挟んだ火箸を使って止血していく。

 一層ずつ、腹を切開していく。そして最も内側の膜である「腹膜(ふくまく)」に到達する。その直下で蠢く小腸が透けて見えた。


「腸管と腹壁が癒着している可能性が高いから慎重に・・・メッツェン!」


 その腹膜を鑷子(せっし)で薄く摘み上げ、外科用鋏で小さく切り込みを入れる。するとその奥にある空間である「腹腔」に到達した。


「全体的にベッタリというわけではないが、やはりところどころ癒着している」


 腹壁の層構造は、空気に触れる外側から内側に向かって、大雑把に「皮膚」「皮下脂肪」「筋肉」「腹膜前脂肪」「腹膜」と分かれる。腹膜のさらに内側には腸管や肝臓など臓器があり、これらの臓器が込められた空間を「腹腔」と呼ぶ。

 手術や炎症などの既往症があると、その影響で腸管などが腹膜に癒着することがあるのだ。


「このままでは縫合の障害になる。腸を破らないよう、慎重に・・・」


 メッツェンバウム剪刀を用いて、腸管と腹膜の癒着を切り離していく。他の外科医たちはまたもや、その手捌きに見惚れていた。


「ミクリッツ鉗子(かんし)!」


 ある程度癒着を剥がした後、大きな鉗子で腹筋の層を掴む。


「ここからですが、皮下脂肪と筋膜の間を『腹直筋(ふくちょくきん)(いわゆる腹筋)』の外側まで左右共に剥がします。そして、腹部側面を支持する3層の筋肉のうち、最も外側を覆う『外腹斜筋(がいふくしゃきん)』の腱膜と『腹直筋』の付着部位を切開して、外腹斜筋と内腹斜筋の間を剥離し、離れた腹直筋を再び寄せ合わせるための余裕を作ります」


 リューはこの後の行程について説明する。


「このまま腹直筋同士を縫い閉じるのではダメなのか?」


 ナスールが疑問を投じる。彼は離れてしまった腹直筋同士をそのまま縫い合わせれば、手術は終わりではないのかと考えていた。だがリューは首を横に振る。


「この患者はこの腹壁瘢痕ヘルニアを抱えたまま15年を生きてきました。その長期間離れ離れだった腹直筋を一気に寄せて縫うと、当然ながらその分腹腔内の容積が小さくなります。すると腹腔内の圧が上がり、臓器や血管が締め付けられ、臓器障害や血圧の低下、呼吸障害を生じる可能性があります」


 「腹部コンパートメント症候群」、何らかの理由で腹腔内の圧が上がり、血流低下や腎機能障害、さらには横隔膜が押し上げられることによる呼吸不全などを引き起こす病態のことだ。主に大量の腹腔内出血が原因となることが多いが、無理な腹壁瘢痕ヘルニアの修復もこの病態の原因となり得る。

 この世界では人工呼吸器や透析装置などない。呼吸不全や腎不全が起こりうる様な危険性は断固として回避しなければならない。


「故に、ヘルニアを治しても今までと腹腔内の容積が変わらない様に、この『Component separation法』を用います」


 まずは患者の左側から、外腹斜筋腱膜と腹直筋の付着箇所を、メッツェンバウム剪刀で切っていく。筋肉は血流豊富な組織であるため、火箸を使って念入りに止血していく。そして腹壁の伸び具合を確認しながら、外腹斜筋と内腹斜筋の間を剥がしていく。

 助手を務めるハッサンはコッヘル鉗子で掴んだ皮膚を外側へ引き上げ、リューが操作する術野を確保する。


「左側は終了、次は患者右側の剥離をします。・・・父さん、場所を入れ変わってもらえる?」

「・・・あ、ああ」


 リューとハッサンは執刀医と助手の位置を入れ替わる。患者の左側へ立ったリューは、患者右側の腹壁に手を加えていく。そうして、両側の操作を終えたところで、改めて腹直筋同士を寄せ合わせ、余裕があるかどうか、腹腔内臓器に締め付けが来ないか、念入りに確認する。


「よし・・・腹腔内を少し洗って、腹直筋を閉じよう」


 綿糸を通した湾曲針を持針器(じしんき)で掴み、15年間開きっぱなしだった腹筋を縫い合わせていく。呪われた傷と言われる原因となった小腸は、腹筋の向こう側へとしっかり収められた。

 あとは表皮を閉じるだけだが、リューはここで少し手を止める。


(これだけ大きな剥離範囲を要する手術、本当なら血液や浸出液を排泄するため、皮膚の下にドレナージチューブを置いておきたいところだが・・・)


 この国にはゴムやシリコーンの様に、柔らかく尚且つある程度の強靭さを持ち、体の中に安全に留置できる様な素材はない。だが現代医療において、安全に使用できる「チューブ類」の存在は必須である。

 この点だけは、医学学校に来て数ヶ月経っても、まだ有用な解決策が見つけられていなかった。


(仕方ないから、またガーゼを入れておくか)


 メインの創から離れたところに、メスで1cmほどの小さな穴を開け、そこに細長くカットした清潔なガーゼを入れ、皮下脂肪の層へと通す。それをメインの創の両側から2本入れて、簡易的なドレナージとした。


「・・・よし、皮膚を閉じます。まずは長年のヘルニアで菲薄化し、ボロボロになっている皮膚は切除します」


 術後の創の見栄えが少しでも良くなる様に、長年ヘルニアを抱えて伸び切った皮膚を鋏で切除していく。そして創の中を生理食塩水で念入りに洗浄した後、正常な皮膚同士を引き寄せて縫い合わせていく。

 そして最後の縫合を終えた瞬間、リューは天井を見上げて大きなため息をついた。


「・・・手術終了、・・・みなさん、お疲れ様でした」


 手術時間は実に1刻半(3時間)に及んだ。参加した外科医たちも、疲労からか次々とため息をついている。


「・・・少々、疲れました」


 リューは手袋を外し、口と頭を覆っていた手拭いを取り去る。そして手術室の外で待っているであろうアイーシャに手術終了を伝えるため、扉を開けた。


「・・・あれ?」


 そこには、彼女の姿はなかった。


: : :


 手術から4日が経った。元皇妃シェエラザードの経過はよく、創感染の兆しもない。あとは抜糸を待つだけの状況となっている。

 執刀医を務めたリューは、他の医師たちと共に彼女の病室へ回診に訪れていた。


「調子はどうでしょうか」


 リューが尋ねる。シェエラザードはニコリと笑った。


「万事順調だ・・・と言いたいところだが、やはり創は痛いな。あまり動けんのだ」


 手術の創は大きく、痛みのため腹筋に上手く力が入れられない。そのため、看護師の助けを得なければ、手洗い場や浴場への移動はまだ難しい状況だった。


「・・・それはともかく、少しリュージーン君と話がしたい。他の者たちは、申し訳ないが外して貰えるか?」

「・・・はっ!」


 シェエラザードはリュー1人との対話を希望した。彼女の希望を聞いたアブアールは、ハッサンを含む他の外科医たちを連れて病室を後にする。そして病室には2人だけが残った。


「あの子は・・・アイーシャは何か言っていたか?」

「・・・!」


 シェエラザードの問いかけを受けて、リューは手術の直前に交わしたやりとりを思い出す。


「・・・ええ、手術を成功させる様に、と念押ししていましたよ。貴方のことを本当に慕われているのですね」


 その答えを聞いた瞬間、シェエラザードの表情が曇る。あの子は最後まで、自分の本当の望みをリューに告げることはなかった。


「手術の後、あの子に会ったか?」

「・・・いいえ」

「・・・! ・・・そうか」


 リューはまたもや、長らくアイーシャと顔を合わせていない。手術が終わった直後、手術の詳細を聞きたがるだろうと思い、リューはずっと彼女のことを待っていた。

 だが、彼の予想とは反して、アイーシャは彼の前に姿を見せなくなっていた。


「軽蔑するだろうな。私は・・・この創を治したいがために、あの子を生贄にした」

「!? どういうことですか?」

「・・・」


 シェエラザードは目元を右手で覆い、視線を逸らす。そしてリューに事の詳細を伝えた。




「ハァ・・・、ハァ・・・!」


 リューは学生たちが集う学舎へと走る。その最中、手術直前の光景を思い返していた。「失敗しないで」と言った彼女に対して、「もちろん」と答えた自分の声が耳に残る。アイーシャの表情には他に何か言いたげな様子があったのに、彼はそれを深く考えなかった。


「ここか・・・!」


 彼は医学科1年生の教室へ辿り着く。午前と午後の間の昼休み時間であり、生徒たちは教室の中で思い思いに寛いでいた。


「すみません! ・・・アイーシャさんは?」


 リューは教室の扉から大声を張り上げた。その瞬間、1年生たちの雑談が止まり、少し間を空けてざわめきが起こり出す。


(あれは・・・?)

(ほら、例の外科学教室の・・・17歳の助教だよ)

(何の用だ・・・?)


 1年生たちはリューのことを知っている。最少学年である自分たちよりも年下の天才助教は、彼らにとって好奇と羨望の対象だった。

 息を切らすリューの前に、1人の男子学生が歩み寄る。


「医学科1年、ワーレン・ラインハート=サラーと申します。あの、アイーシャについてなのですが・・・」

「・・・!」


 リューは胸の奥で嫌な予感を抑えきれずにいた。そして1年生の学年委員長を名乗るワーレンが告げたのは衝撃的な事実だった。


「アイーシャは4日前に退学しました。・・・ご存じないのですか?」

「・・・え」


 教室がざわつく中、リューは言葉を失った。あの、医学に底知れない関心を持っていた彼女が、医学の道を自ら閉ざして突然いなくなるなんて。しかも本人から直接聞かされていない。まるで夢でも見ているような気分だった。

 リューは何も答えられなかった。4日前の、彼女の少しだけ不可解な表情・・・それが何を意味していたのか今なら分かる。あのとき既に別れは確定していたのだ。


(彼女は『後宮』に入ったんだ、私の下野と引き換えに・・・。皇妃など、所詮は男たちの権力闘争の道具にすぎない。私には何も言えなかった・・・何もできなかった)


 頭の中でシェエラザードの言葉がリフレインする。手術が終わった後、手術室の前から消えたアイーシャに違和感を覚えた。ならなぜ、あの時彼女をすぐに探しに行かなかったのか。


(そしてアイーシャも、それを君に伝えられなかったんだろう。きっと、決意が揺らいでしまうから。そして何より・・・君に迷惑をかけてしまうから)


 シェエラザードは一か八か、アイーシャがリューに助けを求める可能性に賭けた。そしてリューが“俺に叶えられることなら”と、彼女に望みを聞いた時、思わず本当の望みを口に出しそうになっていた。

 しかし、アイーシャは言葉を飲み込んだ。彼の人生そのものに大きな傷をつけてしまうことを恐れた。彼はきっと、この先医学者として偉業を成し、この国の歴史に名を刻む。そんな男に、皇妃となる女を攫った罪人になれと迫ることはできない。


「・・・」


 失意のリューは、学舎から研究棟へ伸びる渡り廊下を進む。すでに太陽は西の地平線へ傾きつつあり、その眩い光は廊下の天井を支える柱と柱の間から照り付けてくる。

 ふと西の空へ視線を向けると、そこには高い城壁に囲まれた宮廷が見えた。彼女はもう、高い壁の向こう側にいる。後宮に入った女性に自由はない。


「・・・っ!」


 心にズキッとした痛みが走る。アイーシャの自己犠牲はリューの心に深い傷となって残ったのだった。

物語の最初の山場である第2章「国立医学学校編」が終わりました。

少しAIの手を借りてみたのですが、おそらくは慣れないと思う様になりませんね。結局は結構修正しました。

次回から第3章「波の国編」へ入ります。

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