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田舎外科医の異世界道中 〜異世界本格医学冒険物語〜  作者: 僕突全卯
第1章 外科医の日常・エーテル麻酔篇
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はじめてのクランケ(外傷)

 豪商の娘が刃物で怪我をしたと、その館の使用人が昼過ぎに診療所へ駆け込んで来た。ハッサンはリューに留守番を命じてオアシス都市ラマーファの中心街へ向かった。そして2刻(4時間)が過ぎ、日が完全に落ちても、ハッサンは帰ってこない。


(・・・遅いな。歓待でも受けているのかな?)


 植物油を燃やしたランプの灯りが、部屋の中を朧げに照らす。リューはその灯りを頼りに、この世界の医学書を読んでいた。

 21世紀の地球より明らかに科学技術は劣っている世界だが、案外医学水準は高く、内臓の解剖図もある程度は正確だ。だが、脾臓について消化器官と記載されていたり、膵臓の機能についてまだ分かっていなかったり、まだまだ21世紀と比べると間違いも多い。

 だが、医学者として、この世界では権力も名声も持たないリューには、それを正す術などない。彼は日々もどかしさを感じていた。


「・・・ん?」


 窓の外から強い風の音が聞こえる。そこから首を外に出してみると、額に冷たい雨水が当たった。それはあっという間に勢いが強くなり、暴風雨となる。


「・・・久しぶりの雨だな、よっと」


 リューは窓の暖簾を下ろし、さらにそれをロープで固定して雨水が家の中へ入らないようにする。そして台所の水瓶を外へと持ち出した。乾燥地帯であるこの国では、淡水の雨水は貴重な生活用水だ。


「・・・よし!」


 軒先に水瓶を設置し、リューは目元にかかった雨水を袖で拭う。雨足が段々強くなり、そそくさと家の中へ戻る。そして雨と風はあっという間に暴風雨となった。


(・・・流石に、この天候だと街に泊りか?)


 すでに夜も更けている。今夜はもう帰ってこないのだろう。そう思ったリューはランプを持って寝室へ移動しようとした。だが、突如として玄関ドアを強くノックする音が聞こえて来た。


「御免! 誰がいるか!?」

「!?」


 急いで扉を開けると、そこにはズブ濡れのターバンを頭に巻いた若い男がいた。良いところの従者の様に見える。


「どうしました?」

「お前があの医者の倅か!?」

「そうですが・・・!?」


 男は非常に混乱している様だった。リューは男の問いかけに頷きながら、ふと視線を男の背後へ向ける。そこには彼と同じ格好をした男衆たちが、木の板の四隅を抱えている。担架の代わりにしているのだろう。木の板の上には雨に濡れないように布で包まれた怪我人が乗っていた。


「・・・父さん!?」


 そしてその怪我人は、養父ハッサンだった。リューは朦朧としている彼のもとへ駆け寄り、声をかけた。


「一体何が!?」

「すまない、実は・・・」


 豪商の館から遣わされた従者の男は事態の経緯について説明する。

 刃物で腕を切ってしまった娘の傷を縫合したハッサンは、彼女の父である主人の好意で夕食の歓待を受けた。その後、馬車で家まで送るつもりだったが、まさかの暴風雨で引き返すことになった。その途中、小川を超える小さな橋の上で馬車が転落し、中に乗っていたハッサンが重症を負ったという。


「すぐに処置室へ!」


 リューはハッサンの体を離れの処置室へ運ぶように指示する。生まれ変わった彼にとって、初めての患者(クランケ)が最悪の形でやってきた瞬間だった。



 屈強な男たちの手でハッサンは処置台の上に乗せられる。彼の体を包んでいた布を剥がすと、左の下腿ふくらはぎに深々とガラスや木の破片が刺さっていた。出血も多い。


「・・・リュー、すまない」


 ハッサンはリューに謝る。彼は自分がもう助からないと思っている様だ。抗生物質や予防接種もない世界、汚染された外傷は21世紀の世界よりも高い頻度で感染症や破傷風を起こす。ハッサンはそのことをよく知っている。


「バカ言うなよ、父さん。・・・絶対に助けるから!」

「・・・そうか。・・・私はお前の患者だ。思うようにやってみなさい」


 ハッサンは穏やかに笑う。そしてリューはこの男の命を救うため、豪商の従者たちに指示を飛ばしながら行動を開始した。


 外傷の治療を行うに当たって最も気をつけるべきは、肉眼的にわかりやすい怪我に飛びついてはいけないことだ。すなわちこの場合は左下腿の治療を真っ先に始めてはいけないのである。

 まず第一に評価すべきは生理学的な異常、すなわちA:気道、B:呼吸、C:循環、D:神経系といった生命維持に関わる機能の異常がないかの評価である。これを「Primary Survey」という。「ABCDアプローチ」という呼び方が馴染みがあるかもしれない。


(声が出ているから気道(A)は問題ない、胸の動きも肋骨多発骨折(フレイルチェスト)や、緊張性気胸は否定的、呼吸(B)はひとまずクリア、脈は若干早めだが毛細血管再充(CRT)満時間は問題なく、足背動脈(足の甲にある動脈)まで触れる。循環(C)はとりあえずクリア・・・)


 リューは左のふくらはぎをロープで括って出血を止めると、養父の状態を評価する。続けてリューはハッサンに今日の日付、今いる場所、両手が動かせるかどうかを確かめる。そして瞳孔の左右不同が無いことを確認した。


中枢神経(D)はクリア・・・)


 リューは従者たちの手を借りて、ハッサンの体を頭からつま先まで調べていく。さらに肛門に指を入れ(直腸診)、尿道損傷の有無まで調べた。


「・・・フゥ」


 リューは小さなため息をつく。全身に打撲跡はあるがひとまず、問題なのは左ふくらはぎの外傷だけの様だ。


「すみません、湯と火鉢は準備できましたか?」

「あ、ああ! 言われた通り、布とブラシと、ハッサン先生の道具を洗って湯で沸かした! もう1つ、別の鍋で湯だけ沸かしてる。あとこれが火鉢だ」


 従者は2つの鍋と1つの火鉢を持ってきた。鍋には先ほど貯めたばかりの雨水を沸かしており、余熱でまだ湯気が立っている。一方は外科道具や布の煮沸消毒のため、もう一方は処置に使う洗浄水にするためのものだ。

 そして火鉢の中には着火した炭があった。火鉢の中には数本の鉄釘が焚べられ、熱せられている。


「・・・よし、ありがとうございます!」


 リューは口元と頭を手拭いで覆い、蒸留酒で術野を消毒する。手は革製の手袋をはめて、さらに手袋ごと蒸留酒で消毒する。


(滅菌ゴム手袋じゃないが、素手で触るよりなんぼかマシだ・・・)


 リューは手袋の着け心地を確かめる。次に彼は、ハッサンの頭側に立つ従者の1人に、鎮静効果のある花の蜜を染み込ませたスポンジを、養父の鼻の近くへ持っていくように指示する。


「父さん・・・麻酔だよ」

「あ、ああ・・・」


 ハッサンの目が少し虚になる。鎮静・鎮痛効果があるとされる薬草(地球でいうところのケシなどの植物)の樹液・蜜を染み込ませたスポンジを、患者に嗅がせて麻酔とするのだ。だが実際の鎮痛・鎮静効果は、現実の世界の全身麻酔とはほど遠い。せいぜい傾眠状態にするのが精一杯だった。


(・・・タイムアウト)


 リューは心の中でつぶやく。そして鍋の中にある白い布を処置用のシーツとして養父のふくらはぎに被せた。そして刺さったガラスや木片を鑷子(ピンセット)で取り除く。すると傷の中から血が吹くように流れ出てくる。処置台の周りでは、ハッサンが体を動かさないように、従者の男たちが彼の体を押さえていた。


「・・・火箸だ」


 火鉢に焚べていた鉄製の釘を鑷子(ピンセット)で掴み、布で出血をぬぐいながら出血箇所を探す。そして血が吹き出す箇所を見つけ、そこに向かって火箸を当てた。


「グアァ!!」


 ハッサンは思わず身をすくませるが、従者たちが何とか抑え込む。出血の勢いは弱まったが止めるには至らない。リューは続けて綿糸で出血部分を結ぶ。すると出血は綺麗に収まった。そして他の傷も同様に止血していく。


「父さん、ここからまた痛いよ・・・」


 リューは煮沸したブラシを手に取ると、沸かして消毒した雨水を傷口に流しながら、傷の中をブラシで洗い始めた。


「ウゲッ・・・!」

「鬼かお前!」


 その光景があまりにも痛々しく、従者の男たちはたまらず目を背けてしまう。だが、リューは一切手を緩めない。


「ここで感染源を傷の中に残すと、最悪足を切断することになるかもしれない」


 汚染された傷の処置で大事なのは、ブラシや外科用の鋏で汚染された組織をしっかり排除すること(デブリードマン)である。ここで憂いを残せば、後々より重症な創部感染を引き起こしかねない。


(・・・よし、とりあえずこれで良いか)


 傷を洗い、入り込んだ砂や泥は全て掻き出し、汚染された組織はすべて切り取った。細やかな出血を再び火箸で止め、あとは傷を閉じるだけだが、ここでも注意が必要だ。


(この世界には前の世界で一般的だった湾曲針(曲がった縫合用の針)はない。だけどまっすぐな針では縫いにくい・・・)


 リューはハッサンの外科道具である縫合針を火鉢にかざす。そして熱せられて柔らかくなった針を無理やり曲げていく。そして針に糸をつけ、傷口を縫い閉じていく。だが、完全に閉じ切るのではなく、煮沸消毒した布を傷の縁に入れ、傷が完全に閉じないようにした。


(この世界にはプラスチックやゴムはない。取り敢えず、布をドレーンの代わりにするしかないか・・・)


 汚染された傷を完全に閉じてしまうと、洗浄液や後から溜まった血液・滲出液が溜まり、感染のもととなって傷の治りを悪くしてしまう。よって普通はプラスチック製のドレーン(管)を入れておくのが定石だが、それはこの世界の外科学にはまだない知識であった。


「・・・よし、縫合終了。みなさん、ご協力ありがとうございます」


 リューは傷の縫合を終える。その縫い方もハッサンが教えたものとはまるで違った。だが彼は最後まで何も言わず、息子の処置に身を任せた。そして処置を終えたリューは皮手袋を脱ぎ、処置に強力してくれた豪商の従者たちに頭を下げる。


「ハッサン先生は大丈夫なのか・・・!?」


 従者の1人は不安そうだ。処置をしたとは言え、傷は余りにも痛々しい。


(この世界には抗菌薬も破傷風トキソイドもない・・・細菌感染や破傷風は起こらない様に祈るしなかい)


 そして不安を抱えていたのはリューも一緒だった。この世界の医療技術は前世の記憶とは隔絶している。ペニシリンも予防接種の知識も発明されていない時代だ。正直、あとは運に賭けるしかない。


 リューは従者たちを一晩この家に泊めることにした。そして翌朝、暴風雨は嘘のように過ぎ去り、空は快晴だった。


 従者たちを見送った後、リューはハッサンの傷の処置に全力を尽くした。煮沸消毒した水で連日傷を洗い、感染の予防に努めた。

 そして彼の不安とは裏腹に傷の経過はよく、手術から2週間後、見事完治したのである。

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