公開手術(脂肪腫)
新たなヒロイン登場
「・・・メス!」
「はい!」
カナンはリューが差し出した右手に、しっかりとメスを握らせる。リューはいきなり切開するのではなく、切っ先で突いて痛みに反応するかどうかを確かめた。
「・・・大丈夫だよ!」
リューは患者の顔へ視線を向ける。それに気づいたシャナは、患者が無反応であることを伝えた。
リューはニコッと笑い、メスで皮膚に切開を加える。表皮から真皮、皮下脂肪にまで達する6cm程度の創を開けた。
「・・・ヒッ!」
外科手術を見慣れていない内科医や医学生たちは短い悲鳴をあげる。リューは続けて、創の中に人差し指を突っ込んで、腫瘍とそれ以外の組織の境界線を探った。
「簡単に剥がれそうだ、良性の腫瘍で間違いないと思う」
リューはそのまま指で腫瘍の周りを剥がしていく。かなり強めかつ大胆に、指をグリグリと動かしているにもかかわらず、患者は全く反応しない。助手として創縁の鉤引きをするハッサン、麻酔科医を務めるシャナ、そして手術室看護師であるカナンにとっては、すでに11例目の全身麻酔症例であるため、特に驚きなどはない。
「・・・!!」
しかし、アブアールは違う。彼は目の前で繰り広げられている“奇跡”に絶句していた。創の中へ無遠慮に指や器具を突っ込まれているにも関わらず、全く起きようとしない患者も然り、17歳の少年が執刀していることも常識はずれの光景であった。
(これは・・・奇跡かな)
アブアールだけでなく、この場にいる者全てが、目の前の現実を信じられなかった。まさしく、この世界の医学の歴史が変わった瞬間だった。
「脂肪腫は大体、指や外科用鋏を使った大雑把な剥離操作で取り出せます。まぁ・・・こんなものでしょうか」
リューは腫瘍を押し出すように、周囲の皮膚を両手で圧迫する。創の中から被膜に覆われた黄色い脂肪の塊が顔を覗かせる。
くっ付いているスジを適宜、メッツェンバウム剪刀で切りながら、腫瘍を筋肉から引っ張り剥がしていく。そして・・・
スポーン!!
「ゔあぃっ!!」
リューは独特な断末魔と共に、勢いよく飛び出して一度宙を舞った腫瘍を見事キャッチする。他の手術メンバーもギョッとしていた。彼は腫瘍を機材台の上へ乗せ、生理食塩水で創の中を良く洗い、火箸で出血を止めていく。
「出血も無いし、問題ないとは思いますが・・・今日1日だけは血抜きのために一切れの布を入れておきましょう」
脂肪腫があった場所は大きな空洞になってしまう。そこに後から血液が溜まったりすると、感染の原因となってしまうことがある。
故に現代では、ペンローズドレーンと呼ばれるシリコーンラバー製の管を置いておくことが多いが、この世界には創内や体内に留置できる様な“柔らかい素材”がない。よって代わりに、短冊状に切った細長いガーゼを創の縁に入れ込んだ。
「では閉創を・・・針糸!」
「はい!」
カナンは持針器を渡す。その先端には綿糸を通した湾曲針をすでに掴ませてある。リューは鑷子と持針器で針を器用に扱いながら、手際よく創を閉じていく。その手技はまるで経験を積んだ外科医の様であった。
さらに道具の使い方や糸の結び方に至るまで、アブアールやハッサンがそれぞれ師から学んだものとは明らかに違う。アブアールは只々目を奪われるばかりであった。
「手術終了! みなさん・・・お疲れ様でした」
創を閉じ、その上にガーゼと包帯を巻いて手術は終わった。患者はまだすやすやと眠っている。
「・・・ハァ〜」
カナンはホッとして胸を撫で下ろす。ハッサンとリューは手袋と手拭いを外し、お互いに笑顔を見せた。
観衆はシーンと静まり返っている。アブアールは口元を覆う手拭いを脱ぎ去り、高らかに声を張り上げた。
「諸君! これはまやかしではない! 無痛手術は現実だ!」
「!!」
上の空になっていた観衆はその言葉で一斉に我を取り戻す。
「今日この日は、この由緒正しきイスファダード国立医学学校の歴史に置いて、いや・・・この世界の医学の歴史において、間違いなく未来永劫記憶される日となる! この奇跡を見せてくれた彼らに盛大な拍手を!!」
アブアールに煽られ、数百名の観衆は一斉に拍手を送る。その大喝采は公開手術室の外まで響き渡っていた。
「おめでとう、ハッサン先生の倅・・・いや、リュージーン先生。私は確かに、この目で奇跡を見た!」
アブアールはリューの前に立ち、革手袋を取って握手を求めた。彼はリューに対する認識を、“先輩医師の息子”から“1人前の外科医”へ改めていた。
「・・・光栄です! 私こそ、ご協力に感謝します」
リューはアブアールの右手をしっかりと握り返す。
アブアールは続けてハッサンへ視線を向ける。彼はかつての先輩医師へある疑問をぶつけた。
「ハッサン先生・・・彼がエーテル麻酔の発明者であることを、意図的にはぐらかしていましたね?」
「言っても信じなかっただろう?」
15年ぶりに再会して以降、ハッサンはアブアールがリューの実力と知識を図り損ねていることに気づいていた。
エーテル全身麻酔はリューが主導して生み出したものだが、公開手術の前にその事実を強調しても、不信感を買うだけだろうと判断し、敢えて何も言わなかったのだ。
手術終了から半刻ほど経過して、ようやく患者は目覚めた。サルミーンが重い瞼を開くと、石造の天井が見える。
「・・・? 手術はまだ始まっていないのか?」
「いえ、もう終わりましたよ」
「・・・は?」
横からリューの声が聞こえる。サルミーンは左手を右肩へ伸ばす。包帯に覆われているが、そこにあったはずの忌々しい瘤は消えていた。
「・・・な、無い! 本当に取ったのか!?」
「はい、もちろん。創は縫って閉じてあります。今は感覚が鈍っていますが、いずれ痛みが出てきますから、その時は痛み止めを内服してください」
サルミーンはリューの説明が頭に入っていない。彼は信じられないものを見る目で、何度も右肩を確認する。
「本当に痛くなかった・・・。素晴らしい・・・!」
サルミーンはエーテル麻酔の効果に感激している。そしてハッサンやアブアール、リューといった手術メンバーと、次々に握手をしていた。
アブアールを含め、手術に参加したメンバーはお互いに喜びを分かち合う。観衆もその多くがリューの功績を讃えていた。
「・・・フン」
しかし、全員が奇跡を祝福していたわけではない。内科学教室の教授であるイブンは、一際険しい目つきで彼らを見つめると、部下たちを引き連れ、そそくさと公開手術室を後にした。
また、見学に訪れていた医学生の中には、同い年に見える少年が執刀していたことを快く思っていない者たちがいた。
「・・・誰だ、あいつ?」
貴族出身の男子学生たちは、教授と握手を交わし、賞賛を浴びるリューに嫉妬心を抱く。
この医学学校の入学資格は、主に貴族や裕福な平民の子女が通う中等教育機関を卒業した、18歳以上の者に限られる。ゆえにリューはこの場にいる誰よりも若い。
プライドの高い学生たちは、年下で平民出身で、正規の医学教育も受けていない彼が、誉高き医学学校教授に取り立てられる姿が気に入らない。
「あんな簡単な手術・・・俺にだってできるさ」
「全身麻酔をあんな田舎者の平民が考えただって・・・? 絶対嘘だ・・・」
彼らは口々にリューへの不平不満を口にする。突然現れた若き天才外科医の存在は、医学学校の中に嫉妬と悪意の渦を作りつつあった。それは学生だけでなく、アブアールの下で働く外科医たちの一部にも伝播していく。
一方で、彗星の如く現れ、奇跡の無痛手術を実現させた一団に強い興味を抱く者もいた。アイーシャ・オシリス=イドリースィーは、マスクを脱いだリューの素顔を脳裏に焼き付ける。
(すごい・・・!)
彼女はこの国立医学学校の医学科1年生であり、その代で2人しかいない女学生の1人である。数ある貴族の中でも特に地位の高い一族の出身でありながら、周囲の反対を押し切って医学学校に入学した志の高い学生だ。
そんな彼女の前に、完全なる全身麻酔という奇跡を携え、17歳の少年外科医が現れた。目の前の光景全てが、彼女の今までの常識を払拭してしまった。
(・・・リュージーン! 彼のことが、もっと知りたい!)




