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外科学教室

 一行はアブアールが用意した馬車に乗り、首都を囲う3重の城壁のうち、中間に位置する「第2の城壁」の中へと入っていく。そこは首都の中心により近いエリアであり、貴族や傍系の王族、政府高官、豪商が暮らし、官公庁舎が立ち並ぶ場所だ。ゆえに建造物は豪邸ばかりである。

 日中に門が開放されるのはこのエリアまでであり、夜間になると防犯上の理由から全ての城門は閉じられ、行き来が出来なくなる。


 そして最も内側の城壁から向こう側は、皇帝の一族が暮らすエリアだ。その城門は屈強な兵士たちによって日夜警護されており、許可なき者は当然立ち入ることはできない。

 壁越しに見えるこの砂漠の大国の贅を尽くした「宮廷」と、大陸の東西南北から美女を集めた「後宮」、その2つは市民たちにとって噂が噂を呼ぶ語り草になっている。


「・・・ここです」


 馬車はある邸宅の前で止まる。石造りの塀で囲まれ、鉄柵の門の向こう側には手入れされた庭が見えた。

 門の前には屋敷の主が雇っている門番が立っている。


「医学学校教授のアブアールだ。サルミーン殿はご在宅か?」


 アブアールは馬車を降り、門番に素性を伝える。腫瘍の診察で度々訪れているため、門番も彼の顔を把握していた。

 門番は屋敷の使用人を介して、主に客人の訪問を伝える。その後、屋敷の中から現れた使用人が、主の伝言を伝えにきた。


「・・・サルミーン様より、アブアール様を丁重にお出迎えするようにとのお言葉を頂きました。どうぞコチラへ・・・」


 門番は屋敷の中へ入るように促す。アブアールは馬車の中に向かって目配せした。


「行こう、リュー」

「・・・うん!」


 ハッサンとリューは馬車を降りる。そして2人はアブアールの後ろを歩きながら、屋敷の中へ入って行った。


「私たちはこのまま待っていよう」

「は、はい」


 シャナとカナンは馬車の窓から、2人の後ろ姿を眺めていた。



 この屋敷の主にして患者のサルミーン・ファラック=アヴドゥルファーミーは、政府中枢の軍務機関に勤める貴族出身の武官であった。その経済力を誇示する様に、屋敷の内装は豪華絢爛であり、多数の使用人や奴隷が勤めている。

 そしてアブアールとハッサン、リューは、客間へと案内された。鮮やかな柄の絨毯の上に応接用のテーブルとソファが置いてある。


「これはどうも、アブアール先生!」

「サルミーン殿、突然の来訪となり申し訳ありません」

「気にせずとも良いのです・・・要件はこの右肩の瘤のことでしょう」


 サルミーンは右肩を摩る。ゆったりとした服の上からは一見すると分かりにくいが、右肩は確かに不自然に盛り上がっている様に見える。


「・・・はい、ですがその前に、この2人を紹介させては頂けませんか?」


 アブアールはハッサンとリューをサルミーンに紹介する。


「此方はハッサン、かつて我が外科学教室に所属していた優秀な男です。そしてその息子リュージーン、彼の助手です」


 ハッサンとリューは名前を呼ばれたタイミングで、それぞれ会釈した。


「実は彼らより、新しい外科手術法を貴方に提供出来ないかと申し出があり、ここまで連れてきた次第です」

「新しい手術法・・・? それは一体?」

「・・・『無痛手術』です」


 完全なる麻酔による痛みのない手術、アブアールはその存在を明かす。


「・・・何と!? 痛みのない手術が可能なのですか?」

「はい、非公開ではありますが・・・すでに10例の無痛手術を成功させています。そして次の手術は、無痛手術を内外に知らせるため、公開手術とする予定になっています」


 アブアールはサルミーンの手術を公開実験の場にしようと考えていた。その承諾を被験患者となるサルミーンに求める。


「・・・手術はアブアール先生が?」

「・・・あ、いや」


 アブアールは言葉に迷い、目線を左右させる。すると背後に立っていたリューが助け船を出す。


「麻酔と執刀は私とハッサンが行いますが、ご安心ください。・・・アブアール先生は共に手術に入り、我々の手術に何か間違いや手違いかないかを見てくださいます」

「・・・なるほど、ならば安心だ」


 アブアールも手術に参加すると聞いて、サルミーンは安心した様だ。


「この瘤とおさらばできるならば、それも痛みもなく取れるならば願ってもないこと・・・。アブアール先生、どうかよろしくお願いします」


 サルミーンは改めて腫瘍の摘出手術を願う。かくして、11例目のエーテル麻酔手術が決まった。



 その後、リューとハッサンは腫瘍の診察を願い出る。サルミーンは了承し、上着を脱いで見せた。彼の右肩には10センチメートルをゆうに超える大きな瘤があった。


(これほど大きな腫瘍なら、日常生活にも支障あるだろうな)


 本人いわく、肩の瘤に悩んでいるのはすでに年単位の話であり、医学学校にも度々相談していた様だが、大きさ故に外科医たちはなかなか手術に踏み切れなかった様だ。

 ハッサンが見守る中、リューは瘤の触診を行う。


「リュー、どう判断する?」

「可動性はよく、柔らかい腫瘍で年単位の経過・・・良性腫瘍を強く疑う。おそらく『脂肪腫』ではないかな?」

「脂肪腫か・・・黄色い脂肪が局所的に増殖する腫瘍、だったか」


 リューの診断はこの世界の医学書にも記載されている病名だった。


「取れそうか?」

「脂肪腫は周囲との境界明瞭な良性腫瘍だから、取るのはさほど難しくないよ。手術自体は半刻(1時間)もかからないと思う」

「そうか」


 ハッサンはリューの診断に対して特に異論は述べない。それどころか、アブアールの目には彼の診断と判断を全面的に信頼している様に見える。


(・・・ハッサン先生の倅だ、優秀なのは違いないとは思うが)


 アブアールはそんな先輩の姿を見て、途轍もない不安を抱く。ハッサンはかつて国立医学学校の准教授を勤め、そして何より、本来ならば先代の教授の後釜となる筈だった男だ。

 その外科医学の知識は深く、後輩たちへの指導も厳しかった。同じく名医だった先代の教授から唯一、認められていた医師だった。


(我々は皆、貴方に嫉妬し、そして憧れた・・・。先代教授があんな形で首都を追われ、教室そのものが存続の危機に陥った時、貴方が皆を引っ張ってくれると思っていた・・・のに!)


 アブアールは過去の苦い記憶を思い返す。そして同時に、ハッサンに対して忘れていた憤りが蘇ってしまった。



 手術の日取りが正式に決まる。サルミーンの屋敷を後にした一行は、再び馬車に乗って医学学校へと戻る。馬車の中で、アブアールはハッサンを鋭い目で睨んでいた。


(まさか・・・麻酔や手術まで息子にやらせる訳はないだろうな)


 彼は今のハッサンを見て、一種の失望を感じていた。首都にいた頃と比べ、まるで牙が抜かれている様に見えたからだ。


「我々『外科学教室』は・・・あの15年前の一件以降、未だ日陰者としての立場に甘んじている。もし失敗したら・・・その時は貴方の血をもって償ってもらいますよ」

「分かっている、心配するな」


 アブアールはプレッシャーをかける。もしこの公開手術を失敗すれば、ハッサンとリューが回復不可能なバッシングに晒されるのは当然だが、外科学教室の権威もついに地に落ちてしまう。

 これはアブアールにとっても、15年前から続く外科学教室の不遇を払拭するための博打だった。しかし、彼の脅迫じみた発破に対しても、ハッサンは飄々とした様子で答えていた。


「だが、手術に入る面子は此方で用意した者で固めさせてもらうぞ」


 あくまでもこの手術の主導者は自分たちだ。ハッサンはそう言わんばかりに、後輩の教授へ釘を刺し返したのである。


: : :


 その後、無痛手術の公開実証は医学学校内で大々的に公表された。それは医学学校で学ぶ医学生や外科医たちだけでなく、内科医や歯科医、そして薬師たちの関心を一斉に集めた。


 そしてついに、手術の日がやってくる。場所は解剖実習室としても使われる講義場だ。人1人乗せられる台を取り囲むように、見物の者たちが大勢集まっていた。

 その中には、内科学教室の教授であるイブン・スイート=アヴィセンナの姿まであった。


「イブン様、無痛の手術・・・そんなまやかしが本当に可能だと思いますか?」

「・・・」


 そばに控えていた彼の部下は、イブンに小声で問いかける。イブンは無言のまま、手術台を見つめていた。

 手術台の周囲には術衣に身を包んだハッサンとリュー、アブアール、シャナ、そしてカナンの姿があった。リューの指示で全員が手拭いで頭と口を覆い、シャナ以外は高濃度アルコールで消毒した革手袋をつけている。


(すごい人だかり・・・本当にこんなところで手術をするの?)


 カナンは不安そうな目で周囲を見渡す。数多の視線がオペチームの面々に注がれていた。彼女の心臓はこれまでにない高鳴りを奏でていた。

 彼女は手術機材が置かれた台の前に立っている。台は清潔な白布で覆われ、その上にリューが考案した種々の機材が並んでいた。それらも同じく煮沸とアルコールで消毒されている。


「見たことのない器械もあるぞ」

「女が2人もいるのか?」


 最前列に並ぶ外科医たちは、見たことのない手術道具に興味を抱く。そして手術の場に女性が2人もいることに違和感を抱いていた。


「アブアール先生、その格好は何ですか?」


 医学生の1人がアブアールに声をかける。彼らは革手袋を装着した両手が何にも触れないように胸の前へ手を上げている。医療ドラマではお馴染みのポーズだが、この世界の医師たちには奇妙に映っていた。


蒸留酒(アラック)に浸した手袋を、何にも触れさせないようにこうしている。ハッサン医師とリュージーン医師の指示だ」


 アブアールはリューの指示を忠実に守っていた。そして彼は、機材台の上に置かれているシャーレ皿に注がれたアルコールを見つめていた。


蒸留酒(アラック)で傷を洗うと術後の化膿が抑えられるというのはよく言われることだが・・・この蒸留酒(アラック)はかなり透明だ)


 細菌感染の概念がない世界だが、アブアールもアルコール消毒が有用であることは経験として知っている。よって手術の場に蒸留酒を用意することは時折あったが、目の前に注がれているそれは、市場に出回っている蒸留酒よりもかなり澄んで見える。


(もしやこれは、さらなる蒸留を重ねて酒を濃くしているのか? これもハッサン先生のアイデアか・・・? ・・・いや)


 一般的な蒸留酒のアルコール度数は40%台だ。しかし、最も殺菌作用が高いとされるアルコール濃度は70%台と言われている。だがそれはこの世界にはまだ無い知識である。


 観衆の注目を集める中、患者が手術室に現れる。サルミーンは従者を引き連れながら、手術台へと向かっていく。


「こう大勢に見られると・・・私も緊張してしまうな」


 公開手術とは聞いていたが、予想を遥かに上回る視線に晒され、サルミーンも妙な緊張感に囚われていた。


「麻酔がかかれば眠ってしまいますから大丈夫ですよ」


 その中でリューだけは、一切の緊張を感じていない様に見えた。サルミーンは彼に促されながら手術台の上に腰掛け、横になる。

 ハッサンは詰めかけている観衆に向かって、手術開始の宣言をする。


「・・・ではこれより、我が息子リュージーンが考案した全身麻酔『エーテル麻酔』をご覧にいれます! なお、麻酔導入は薬師であるシャナ殿に行っていただく」

「はーい! よろしくお願いします!」


 シャナは元気な声で返事をする。観衆はハッサンの言葉を聞いてざわついていた。彼は明確に、無痛手術の考案者がリューであることを宣言したのである。


「・・・!?」


 特に驚いていたのはアブアールだった。同時に、彼は心のどこかで抱いていた疑念が事実だったことを思い知る。


「ではサルミーン殿、口の上に布を被せます」


 患者の頭側に立つシャナは、その顔を覗き込みながら、針金を用いた布製のマスクをサルミーンの口に被せ、その上に希釈したエーテルをポタポタと垂らしていく。


「甘い匂いがしますが、そのまま深呼吸を続けてくださいね」

「う、うむ」


 サルミーンは彼女の指示に従う。すると次第に目が虚になってくる。考案者として紹介されたリューは、数多の視線を注ぐ観衆に向かって、麻酔の説明を始める。


「この液体は、硫酸とアルコールを反応させると生じる『甘い硫酸』と呼ばれるものです。過去、複数の錬金術師が著書の中で記載していましたが、正式な名称をあてられることもなく、脚光を浴びることもありませんでした。しかし、サルビルという錬金術師は、この物質に陶酔・鎮痛作用があることを指摘しております。我々はこの物質に“エーテル”という名前をつけました」


 リューが説明を行う側らで、シャナはエーテルを布マスクに滴下し続ける。その用量は過去10例の手術から導き出したものである。


「エーテルは肺から取り込むことで麻酔効果を発揮します。気化したエーテルを効率よく吸入させる方法として、この『開放点滴法』を考案しました。エーテル麻酔は、痛覚が麻痺する第1期へ、次に意識を失いながらも興奮状態に陥る第2期へと徐々に深くなっていきます」


 リューの言うとおり、サルミーンは興奮し始め、辻褄の合わないうわ言を言い始めた。そして口の中からは唾液が流れ出てくる。


「これがエーテル麻酔の第2期、本人はもう覚えていないが、興奮し始める。まだ麻酔の深さが足りないことを示します。また、エーテルはその副作用として、唾液や気道分泌物の産生を促進します。この副作用は窒息の恐れを強めるため、患者には手術前に唾液を抑えるような生薬を内服して貰っております」


 シャナはこまめに唾液を拭いつつ、小瓶を振るって慎重にエーテルを追加していく。


「興奮が収まってきた・・・。これが第3期、脳は呼吸と脈拍を司る箇所以外は深い眠りに入り、筋肉は緩み、眼球は真ん中に固定されます」


 リューの説明に従い、シャナは患者のまぶたを開く。サルミーンの目は真っ直ぐ真ん中に固定され、外からの刺激に全く反応していない様だった。


「これ以上麻酔が深くなると、瞳孔が開き、呼吸も麻痺してしまう第4期に入ってしまう。今が一番適切な麻酔深度だと考えられます」


 ついに麻酔がかかる。シャナは頸動脈に指を触れながら、口元に耳を寄せ、呼吸と脈拍に異常がないことを確認する。


「では術野を消毒します。もともと、蒸留酒(アラック)には創部の化膿を抑制する効果があることが経験的に知られていますが、我々はさらなる蒸留を重ねた高濃度アルコールを用いています」


 リューは高濃度アルコールを浸したガーゼで患者の右肩周囲を消毒する。2〜3回重ねて消毒した後、穴が空いた白シーツを上に被せた。


「右肩部腫瘍摘出術を開始します。父さん、アブアール先生、シャナさん、カナン・・・よろしくお願いします」


 リューは改めて、手術の参加メンバーに頭を下げる。その言動は、自らが執刀医であることを改めて宣言するものだった。

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