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私は逃げたい  作者: 兎のうさぎ
番外編
96/110

大切なもの

 

「うーん…難しい…」


 ノアの部屋のソファに座って、目の前のテーブルに教科書とノートを広げている。教科書の問題を悩みに悩むものの、答えは出ない。


 ノアが帰ってきたら教えてもらおう、うん、そうしよう。



 学校が終わって夕飯までのこの時間、ノアはいつもグレン様の部屋で仕事をしている。


 ノアが自分の部屋で仕事をすると、当然邪魔者の私は部屋から出る。ノアは1人で仕事してる訳でもないし、私がいると捗らないだろうから。

 でもノアは私が目の届かないところに行くのが嫌で、結局ノアがグレン様の部屋に仕事をしに行くことになった。

 私一人がノアの部屋にいる分には安心できるらしい。なんだそれ。



 ということでこの時間は部屋で1人時間。普段は自習したり、本を読んだり、たまにミルムやユフィーリアを部屋に招いてお茶している。


 至って平和な時間だった。

 この時までは。




 どんどん、と粗めに部屋がノックされ警戒するものの、扉の向こうから聞こえてきた声は急いだようなグレン様の声だった。


「エミリアちゃんいるか!?ごめん、ちょっと開けるからな!」


 グレン様なら何も問題はない(多分)なので、ソファに座ったままグレン様が入ってくるのを待った。


 部屋に入ってきたグレン様は、背中にぐったりしたノアを背負っていた。


「えっ、え?ノア?」

「説明するから、一旦ベッドに寝かせるな」


 一瞬で頭が真っ白になったけど、グレン様の様子がそんな緊迫した様子じゃなかったから、私も少し心を落ち着けた。



 ノアがグレン様におぶられていた。意識がないように見えた。

 でも怪我とかはしてるように見えなかった。ただ意識がないだけ?

 倒れたのだろうか。なんかの病気?それとも過労?


 沢山の不安が募ってくる中、寝室からグレン様が戻ってきた。

 そして私の前のソファに座って、ふぅ、と一息つく。


「命に別状はないと思う。意識を失ってるだけ……だと思う」

「な、何が…あったんですか?」

「……それが…」




 グレン様はノアの意識がなくなった理由を教えてくれた。

 いや、理由は正確には、分からない、だった。

 ノアが手紙を開いた瞬間、何かの術が発動してノアの意識が無くなったんだそうだ。


「な……え?そんな危険な魔法があるんですか?」

「いや、ない。……そんなことが出来るのは、魔術だけだ」

「!!」


 魔術。神により禁止にされた禁術。

 それが今ここで、ノアを襲った。


 ぶるりと身震いする。

 だって魔術って、異世界から人を呼べるほどのものだ。私達の想像のつかない何かをノアにかけたっておかしくない。


 大丈夫?本当に意識を失ってるだけ?

 魂取られてたり、しない?


「とりあえず、エミリアちゃんはノアゼットのことを見ててくれないか。俺は学園長を呼んでくる。何の魔術かは分からないが、学園長なら知ってるかもしれないから」

「はい……。お願いします……」


 小さくグレン様に返事をすると、グレン様がはははっ、と笑う。


「大丈夫だ。ノアゼットのエミリアちゃんへの執着、知ってるだろ?魔術だろうとそう簡単にノアゼットをエミリアちゃんから離すことは出来ないさ」


 自信ありげにグレン様は私に向けて笑いかけてくれて、私もその言葉に少しほっとした。


 そうだよ、ノアがそう簡単に私を置いていくわけない。

 うん、私がノアを信じないと。


 グレン様にお礼を告げると、グレン様は片手を上げてひらりと振ると、部屋から出ていった。




 寝室に入り、静かに眠るノアの傍に椅子を置いて腰掛ける。


「……寝顔もイケメンだね…。ノアの寝顔は久しぶりに見るかも」


 結婚してから一緒に寝てるけど、私の方が寝るのは早いし、起きるのはノアの方が早い。

 最後にノアの寝顔を見たのはいつだっただろう。私が毒で倒れた時かな?


「ノアもこんな気持ちだったのかな…」


 私が毒で倒れた時、こんな気持ちになったのかな。

 本当に起きてくれるのかな、このまま死んじゃったりしないかなって。

 しかも本来起きる時間に起きなかったから、ノアの不安はこんなもんじゃないだろう。



 私は眠ってるノアの手を握る。

 握り返してくれない事が、寂しい。


 そう思った時、ノアの体がぴくりと動いた。


「……ん…」

「ノア?」


 ぱぁっ、と心が明るくなる。

 そしてノアの目がゆっくり開き、その目が私を捉えた瞬間。



「きゃっ!!」


 ばちばちばち、と激しい音が鳴る。

 咄嗟にノアの手を離してしまったし、椅子からも転げ落ちた。

 でもそんなこと気にならないくらい、目の前の事態が飲み込めない。



 私を包む透明の球体に、魔法を放つノアがいた。


「結界か…。しかも中々性能が高い。君が作ったようには見えないね」

「……え?」

「魔法がダメなら……」


 ノアは冷たい声でそう言うと、私がいる方とは逆のベッド脇にかかっていた剣を素早くとって、抜くと同時に私に向かってきた。


「ひぃぃっ!!」


 でもその剣は、魔法が弾かれた結界と同じくらいの距離で弾き返され、ノアからしっかり舌打ちの音が聞こえた。


「物理もダメか。相当優秀な魔道具を付けてるんだね。そこまでして僕に何か出来るようには見えないけど…」


 何を言ってるのか理解できない。

 言葉の理解も出来なければ、ノアが私に向ける冷たい瞳の理由も分からない。


「ノア…?」


 私が恐る恐る声をかけると、ノアがすごく嫌そうな顔をして私に剣の先を向ける。


「君に愛称を許した覚えはないよ。吐き気がするからやめてくれる?」

「………っ」



 ぽろり、涙がこぼれた。


 大好きな人に、吐き気がするから名前を呼ぶなと言われた。

 つい今朝まで私に愛を囁いてくれてた人に。


「なん、なんで…?私だよ、エミリアだよ……?」


 私が名前を言っても彼の表情は変わらず、むしろその顔を余計に顰めさせた。


「エミリア?……あぁ、エミリア・ライドか。平民が僕になんの用?どうやら捕まえることは出来ないみたいだし、聞くだけ聞いてあげるよ」


 変わらず私に剣を向けたまま、彼は言った。


 なんで…?なんでエミリア・ライドっていうの…?

 私もう、ライドじゃないのに…。



「エミリアちゃん、入るぞー」


 寝室のドアがノックされ、私はちらりとドアを見た。

 そしてドアを開けたグレン様が、寝室の悲惨な惨状と、結界に包まれてる私、そして私に剣を向けるノアを見て目を丸くする。


「な……何してんだ?」

「グレン、この女が僕の寝室に忍び込んできた。高度な魔道具を持ってるようで拘束が出来ないんだ、協力してくれ」

「………は?」


 グレン様はぽかん、と口を開けるも、すぐに調子を取り戻して私とノアの間に立つ。

 そして私を背に庇ってくれた。


「とりあえずその剣は収めろ。この子の素性は俺が保証する」

「は?なんでグレンが…」

「いいから。それにお前じゃエミリアちゃんの魔道具を壊すことは出来ないぞ」


 グレン様がはっきりそう言うと、ノアは納得いかない顔をしてその剣を鞘に収めた。


 グレン様は私の方に向き直り、私に手を差し出してくれる。


「大丈夫か、エミリアちゃん」

「だ、大丈夫…なんでしょうか…」

「学園長はもう少ししたら来てくれるそうだ。ゆっくりでいいから、何があったのか話せるか?」


 グレン様の手を取ってゆっくり起き上がると、グレン様は優しく私に問いかけてくれる。その間も、グレン様の後ろに見えるノアからの冷たい視線が私を貫く。


 疑うような視線。警戒している顔。


「……ノアが……」


 キッ、とその目が鋭くなる。思わず震え上がる。


「……ノアゼット様が、私とのことを覚えてないんです…」


 ゆっくり出した言葉に、再び涙がぽろぽろ落ちる。

 グレン様がハンカチを差し出してくれて、それで私は目元を覆う。



 ノアが私とのことを覚えてない。私のことは知ってるのに、私への気持ちとかそういうのが全部ない。


 あんなに怖いノアの顔、初めて見た。ノアから仄暗い感情を向けられた時だって、あんなに殺気に溢れてる顔ではなかった。

 あの時とは違う怖さを感じる。体が芯から震える。



「…なるほどな。おい、ノアゼット」

「……なに」


 グレン様は私の背中をさすってくれながら、ノアのことを呼ぶ。

 ノアから不機嫌そうな声が聞こえた。


「お前今、いくつだ?」

「……は?」

「歳はいくつか聞いてるんだ」


 グレン様の言葉にノアは渋々といったかんじで、16と答えた。


 …え、16?

 ノアは今、19歳のはず…。


 ノアの言葉に驚いてハンカチから顔を出すと、グレン様が頷いていた。


「なるほどな」


 何がなるほどなんだろうか。


「エミリアちゃん、安心しろ。あいつはどうやら記憶が無いらしいが、エミリアちゃんとの事だけを忘れたわけじゃない。多分、3年分無くなってる」

「……さんねん、ぶん…」


 私との思い出だけ無くなったわけではないの?


「今のあいつは、16の時のあいつってことだ」

「グレン、何言ってるんだ」

「ノアゼット、お前にも説明が必要だよな」



 私はグレン様に連れられて、隣の部屋のリビングのソファに座る。

 私の隣にグレン様、そしてグレン様の前にノアが座った。そして変わらずノアは私に警戒の目を向けている。


 そこでグレン様は、ノアの現状を話してくれた。




「……は?記憶喪失?」


 ノアが懐疑的な顔をグレン様に向ける。

 グレン様はその証拠とばかりに、ノアの教科書やらノートやら、仕事の書類やらを持ち出してノアの前に広げる。


「……本当に、3年分の記憶がないのか………」


 ノアは数々の書類を見て、どうやらおかしいのは自分だと気付いたらしい。


「グレンがそんな手の込んだ仕掛けを作るわけないしね…。それにこれは間違いなく僕の字だ」

「信じられないだろうけど、事実だよ。お前からしたら3年後の世界だ、ここは」


 そうか、ノアからしたら3年後の未来に来てるような感じなのか…。

 そして3年前のノアの心に、私はいなかった。それだけ。


「じゃあ、その女は?エミリア・ライドでしょ、平民の。なんで僕の部屋にいたわけ?」


 ノアに鋭い目を向けられて身がすくむ。

 その目にもう殺意は無いけど疑う気持ちはあるようで、私の一挙一動を観察してるようにも見える。


「エミリアちゃんは、お前の妻だよ」

「…………は?」

「お前の妻だ。エミリア・ライオニアだ」


 眉を顰めてそんなわけない、って顔をするノアに、グレン様はニヤリと笑って畳み掛ける。


「ついでに言うと、お前が約1年も片思いして婚約を迫って、強引に罠に嵌めて婚約させたんだ」

「……ごめんグレン、それ誰の話?」

「ノアゼット・ライオニアの話だよ、17歳の」


 グレン様が面白そうにそう言うと、ノアは頭を抱えた。

 そんなに信じられないのだろうか、未来の自分が。


 そう思った私に、グレン様が顔を向けた。


「あいつは女が寄ってくるタイプだから、自分からっていうのが信じられないんだろ。しかも女を毛嫌いしてたから余計にな」

「…なるほど…」

「ははは!さっき散々エミリアちゃんを怖がらせたんだ、未来の自分を想像して苦しめ!」


 けらけらとグレン様が笑う。

 さっきの私への仕打ちに、グレン様も怒ってくれてたらしい。ありがたい…。


「失礼するわよ」


 未だグレン様が笑っていてノアが頭を抱えている中、ドアのノック音と共にローリアさんが入ってきた。


 ローリアさんは、私たちの席順を見て首を傾げる。


「これはどういうこと?」





「…3年分の記憶が無い?」

「ここにいるノアゼットは、心は16歳だ」


 ローリアさんもソファに座り、私達の話はようやく進み出す。


「記憶を無くす魔術…ちょっと違うけど、記憶を奪う魔術なら聞いたことがあるわ」

「待ってください、僕は禁術を使われたのですか?」

「あら、説明されてなかったの?」

「悪い、忘れてたわ」


 私も忘れてた…。ごめん、ノア。


「ノアゼット、お前は手紙を開けた途端に術が発動して意識を失った。それで目覚めたらその状態だ」

「…なるほど。それで何故学園長が?禁術に詳しいようですが……」

「……ちょっと面倒臭いわね、これ」


 ぽつりと言ったローリアさんの声はしっかり聞こえた。

 面倒くさいって言った…。可哀想に、ノア…。


 ノアは私と婚約してから私のことを調べ、そしてローリアさんと私の関係も調べただろうから、私に興味無い段階ではローリアさんのことも何も知らないのだろう。


「私のことは後で目の前のお友達に聞いてちょうだい。それよりも、よ。記憶が奪われたものであるなら、自然に戻ることは無いわ」

「そんな…!」


 自然には戻らない?よくある記憶喪失ものみたいに、いつもの日常から思い出したりすることはないってこと?


「でも私の知ってることはこれくらいよ。どうやったら戻るのか、まで分からないわ」


 ごめんなさいね、とローリアさんが言う。ぶんぶんと首を振って、謝らないでくださいと答えた。


 ローリアさんは何も悪くない。全てはこの術をかけた人が悪いんだから。


「とはいえ、禁術のことはエミリアちゃんの時にあらかた探したからなぁ…。俺もこんな禁術聞いた事ないし…」

「そうね。でも人に尋ねるのは不味いものね。何せ神に禁じられた術ですもの」


 うーん、と唸る2人。

 そっか、神に禁じられてるから、それを話題に出すこともよろしくないのか。それに禁術のことを調べてるって、神に対する謀反だと捉えられかねない。


 神様か…。ん?神様?


「あっ、神様に聞いてみるのはどうですか?」

「神に?」

「古い知識があるって前言ってたんです。聞いたら教えてくれるかも」

「さすがエミリアちゃん、次元が違うな」


 困ったことがあったら助けてくれるって言ってたし、神様に頼った方がいいのでは!

 私の言葉にグレン様もローリアさんも納得して頷く。


 ただ1人、不思議な顔をしたノアが声を出した。


「待って、神と話をしたの?」

「え、あ、はい…」

「…そういえば、神の祝福が感じられる……。1人の人間に?」


 ノアが考え始めてしまった。

 そうだった、今のノアはそんなこと知らないし、当時の私に神の祝福はなかったから。


「それについては俺が後で説明してやる。とりあえず今日は遅いから、明日、花の街の教会に行こう。それでいいか、エミリアちゃん」

「はい、大丈夫です」

「それと、ひとまず今日は自分の部屋で寝られるか?送っていくから」

「……はい」


 今のノアと一緒にいても辛いだけだ。

 私もノアも。


 寂しい気持ちを必死に押しとどめて、私は頷いた。



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