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私は逃げたい  作者: 兎のうさぎ
番外編
108/110

大切なもの7

 

 3年前のノアじゃだめか?

 そう聞かれて、ダメだと即答できない。

 だって両方ノアだもん。


 恋を自覚するまでのノアは確かに怖かった。でも私を傷つけないようにはしてくれてた。

 そしてさっき恋を自覚したノアは、その目が私と婚約したばかりのノアに似ている。


 きっとこのままでいても、このノアは3年後のノアと同じように私を愛してくれる。

 そしてそんなノアを、私はまた好きになるし愛するんだろう。

 そう確信が持てた。



 でも。……でも!

 私達が結婚まで積み上げた記憶を、私だけが持ってるのは寂しい。


 婚約まで逃げ回ったことや、婚約したばかりのノアの嬉しそうな顔。私が窓から飛び降りてすごく心配そうにしてた顔も、全部思い出せる。

 2人だけの思い出も沢山あるのだ。

 2人だけの秘密だって。


 それらを伝えることは簡単だけど、同じ気持ちは2度は味わえない。


 だから。



「私も、今のノアを愛せるよ。……でも、積み上げてきた思い出があるから」

「……そっか」


 やっぱり、3年後のノアが恋しい。

 ごめんね、ノア。



「まぁ記憶を思い出すだけで、今の僕の意思や記憶が無くなるわけじゃないし、さっさとやろうか」


 ノアはぱっと声色を変えて、立ち上がる。つられてグレン様も立ち上がり、グレン様はノアにマフラーを持ってくるように伝えた。


 私は座ったまま、少し沈んだ気持ちになる。


 なんだかノアを振ったような気持ちになって、気分が落ち込むなぁ…。


「元気出せ、エミリアちゃん。あいつの記憶が戻ったらいっぱい愛を伝えてやれ」

「……そうですね」


 グレン様に励まされ、両頬を少し強めに手で挟む。


 …うん。ノアの記憶が戻ったら、愛を伝える。

 戻らなかったら、今のノアを愛す!

 それでいい!それでいいんだ!


「マフラーは多分これだよね?」

「はい、そうです」


 ノアが持ってきたのはキャラメル色に黒の差し色が入ったマフラー。

 私が誕生日に贈ったもの。


「手紙は?どこに置いてあるか心当たりはあるか?」

「心当たりはあるけど、そこに手紙は無かったんだよね。大事な紙類はここにしまうんだけど」


 ノアがそう言いながら、机にある鍵付きの引き出しを開けた。

 そしてそこの中の紙を全部出すが、私のあげた手紙はない。


 グレン様はノアの机の引き出しを片っ端から開けて確認してる中、私とノアは鍵付きのところに入ってた紙類を確認している。


 そのうち、ノアが折りたたまれた紙を広げて、首を傾げる。


「これだけ何かわからなくて…」

「どれですか?」


 今のノアが分からない紙。なんの事だろうと思ってノアにその紙を渡してもらった。


 そこに書いてあったのは私の字で、いつしか私が伝えた私の名前。

 それが丁寧に折りたたまれて、鍵付きの引き出しに入っていた。


 それを見て、ピンと来た。



「……これ、かも」

「なにが?」

「これが、大切なものかもしれません」

「えっ?」


 ぽつりと言うと、ノアは首を傾げ、そしてグレン様も私の言葉を聞いて私の前のソファに座り直した。


「それはなんなんだ?」

「グレン様には見せられないですけど、これは私がノアにあげたもので、私の大切なものなんです」

「エミリアちゃんの大切なもの?」


 ノアには見られたけど、それはいい。だってノアだから。


「これは私の、名前です」

「名前…?」


 ノアがぽつりと呟く。



 私の日本語での名前。私の大切なもの。

 私が何よりも大切に胸にしまってたそれを、ノアが大切にしないわけが無い。



「これを……破ってみてもいいですか」

「エミリアちゃんに任せる」


 ちらりとノアに視線を移す。

 彼は神妙な面持ちをしていた。


「…君の本当の名前を知るのは、僕だけなんだね」

「はい」

「……そう。それなら早く、それを思い出さないといけないね」


 ノアはそう言って頷く。

 別れでもないのに、別れのような気がして少し悲しい気持ちになってしまう。


 でも、ここ数日のことを忘れるわけじゃない。なかった記憶を取り戻すだけだから。



 私は名前の書かれた紙を思い切り破った。



 途端に私の持っていた紙がしゅわっと溶けてサラサラな粒子になって手から落ちていき、それと同時にノアの意識が無くなった。

 意識の無くなったノアを、グレン様が支える。


「正解みたいだな」

「…そうですね」

「寝室に寝かせてくるよ」

「…お願いします」


 この空虚な気持ちはなんだろう。ノアが起きたら、これも何とかなるんだろうか。



「どうする?念の為俺も寝室にいた方がいいか?」


 グレン様が、3年前のノアが起きた時のことを気にしてそう提案してくれた。何かの手違いでまた記憶がなくなったりしてる可能性も無くはない。


「いえ、大丈夫です。私への攻撃は弾かれますし。……ただ、ドアを少しだけ開けておいて貰えませんか」

「分かった。何かあったらすぐ呼べよ」

「ありがとうございます」


 グレン様が寝室から出ていき、寝室のドアを少しだけ開けておいてくれた。

 寝室には私とノアの2人だけになった。


 術にかかった時のノアがすぐ目覚めたから、今回もすぐ起きるだろうと予想して、グレン様はリビングで待っててくれてる。

 もし何かがあったら直ぐに入ってきてくれるそうだ。頼もしい。



 静かに眠るノアを見つめる。


 暫く彼の優しい笑顔を見ていない。甘い声を聞いてない。

 確かに彼はいたけど、寂しくて仕方なかった。抱きしめてくれないし、抱きしめることもできなくて。


 もしも記憶が戻らなくても、私はノアを愛せるしノアも私を愛してくれるだろうけど、忘れられた寂しさが埋まることは無いだろう。


 忘れないで欲しい。

 思い出して、ノア。

 私との日々を。



 どれくらい時間が経ったのか。そう長くはないと思う時間ノアを見つめていると、ノアの瞼がぴくりと動いた。


 息を止めてノアの様子を伺う。今回は彼の手を握っていない。


 ノアはゆっくり目を開けて、視界を動かし、そして私を見た。

 ドキリとした。どんな反応をするのか、怖かった。



 私を視界に映したノアは、驚いたように目を丸くして飛び起きて、その勢いのまま私に向かってきた。


 そして私のことを、強く抱きしめてくれた。


「エミリア…っ、ごめん。忘れてごめん…!」

「……ノア?思い出した……?」

「思い出したよ、全部。エミリアを好きになった時から、今までのこと全部。エミのことも」


 ぶわっと目に涙が込み上げてきた。


 ノアが、私の名前を思い出した。私たちの思い出を、思い出してくれた。

 私の好きになったノアが、帰ってきてくれた!!


「うっ…わぁぁぁ」

「ごめんね、エミリア…。待っててくれてありがとう」


 優しい声。力強い抱擁。ずっとずっと欲しかったもの。


 ノア、おかえり。




 泣き疲れて落ち着くと、ようやく私とノアは寝室から出た。

 ソファにいたグレン様はもう知っていたようで、何も聞いてくることはなく、よっ、と片手をあげてノアに挨拶をした。


「グレン、今回は手間かけさせたね。感謝してる」

「大した手間じゃないさ。お前の記憶が戻ってよかったよ」

「僕も良かったよ、あのままじゃなくて」


 ノアはソファに座ると、その膝の上に私を横向きに座らせた。そしてそのまま私に抱きついている。

 普段なら恥ずかしくて拒否する私も、今はその状態でノアに抱きついている。


「相手の侯爵子息は?」

「もう捕まってる。ただ神から啓示があって、神が天罰を下すから人間は何もするなと言われている。今は牢屋に居るだけだな」

「なるほどね」


 ノアの腕の中で二人の会話を聞いて、そこで私は口を挟んだ。


「…そう言えば神様が言ってた。天罰を下すのはノアが起きてからにするって。きっとノアが1番仕返ししたくなるだろうからって」

「有難いね。僕にその機会を与えてくれるとは」


 ノアが少し声を低くしてそう呟く。相手に相当腹を立ててるらしい。


「向こうの国から賠償の話も出てる。詳しくは書類を後で渡すから、それ見て向こうの国に返事してくれ」

「分かった」

「じゃ、ノアゼットの様子も平気そうだし、俺は学園長やミルム嬢達に報告してくる」


 グレン様がそう言いながら、腰を持ち上げる。


「グレン、本当にありがとう」

「おう」


 グレン様は、ノアの部屋から出ていった。



 そして私とノアが2人になり、ノアが優しく私の頭を撫でてくれる。

 優しく暖かい手。私のことを優しい表情で、愛情の籠った目を向けている。


 ずっとずっと、恋しかった。


「エミリア、本当にごめんね。僕は酷いことを沢山したね」

「……うん。怖かった」

「…たくさん、怖がらせたね」


 ノアが私を強く抱き締める。私もノアを強く抱きしめる。

 

 確かに怖かった。ノアから敵意をぶつけられて冷たい目を向けられた。

 私のことを好きじゃないノアからの視線は、震えるくらいこわいものだった。


 でも、それ以上に怖かったのは。


「…ノアが、私を忘れたことが、1番怖かった…」



 私のことを忘れて知らない人のように振る舞われ。

 私に向けてくれた視線も、言葉も、何も無くて。

 簡単に触れることも出来なくなって。


 私と過ごした記憶を全部忘れて。

 それでも確かにノアは私を好きになってくれて、あのままでも私のことを愛してくれただろう。

 でもそのノアは、私が好きになったこのノアとは違う。



 私が好きになったのは、私のことが大好きで、私を沢山甘やかしてくれて、私のために色んなことをしようとしてくれる人。

 たまに黒い部分を見せるけど、それは私を愛するが故のことで、そこまで深く私を愛してくれる人。


 私の、大好きな人。


 そんな私の好きな人が、違う人になってしまうのが、怖かった。



「やっぱり、ノアは今のノアがいい…!忘れて欲しくない…!」

「うん。僕もエミリアとの事は覚えていたい」


 ノアが私の頭を優しく撫でる。


「もう、忘れないよ」

「うん、うん…っ!」


 もう忘れないで。




 あの後私は泣き疲れて眠ってしまい、起きた時には夕飯の時間だった。

 寝てる時もずっとノアが抱きしめてくれてたみたいで、起きた時にとても安心した。


 記憶を無くす前のように一緒に夕飯を食べ、グレン様が書類を届けに来てくれて、夜は書類を見てるノアに抱きしめられながら過ごした。



 ノアは今日が終わるまでずっと私を離さなくて、夜もしっかり愛してくれた。いつもより優しく、いつもより愛の言葉を多めに囁いてくれて、何度も抱きしめてくれた。



 そしてノアの腕の中で疲れ果てて眠り、起きてノアに抱きしめられていることにまた安心して涙が出た。

 普段の日常がこんなにも幸せなんだと、気付けなかった。

 当たり前じゃないんだ、日常は。


 起きてノアの魔力消費を眺めて。一緒に朝ごはんを食べて、支度をして。


 一緒に登校する。

 やっと日常が戻ってきた。


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