大切なもの3
「えっ、ノアゼット様が記憶喪失?!」
グレン様が出発した後、授業が終わったミルムを部屋に招いて事情を説明した。
グレン様からは、信用における人には話していいと言われていたから。ミルムには言っておくべきだと思った。
「しかもエミリアに魔法打って剣を向けた!?信じられないわ…」
「どうやら16歳の頃のノアらしくて…私のことは名前くらいしか知らないんだ…」
私がそう言うと、ミルムが驚きから納得した表情に変わった。
「エミリアに、っていうのはやっぱり信じ難いけど、その時はまだエミリアの事を好きではなかったのね」
「そう…だね。ノアが私のことを気になったのは、私がロットの恋愛相談を受けてる時だって言ってたから…」
「え、そうなの」
ミルムがぎょっとした顔をする。あれ、言ってなかったっけ。
ロットからの恋愛相談についてはミルムは知っている。だけどそれがノアの気を引いたものだと言うのは言い忘れていたかもしれない。
あれは2年生になってからだったから、1年生の時の記憶のノアではまだ起きてない出来事だ。
「とりあえず明日からノアは風邪ひいててお休みの予定。私は授業が終わったらノアの部屋に行くけど、1時間くらいで帰るつもり」
「なるほどね…。行き帰りはどうするの?1人で行くつもり?」
「うん」
え、何かまずいかな?
私が首を傾げると、ミルムは眉をしかめて何やら考え込んでいる様子。
「それは良くないと思うわ…。行きは私と一緒にいくとして、帰りは誰か信頼できる人に頼みましょう」
ミルムが1人で頷いている。そこまでする必要あるかなぁ。
でも私はノアと出会う前とは違って、神の祝福もあるし、強姦の危険性もある。勿論強姦なんて、ノアの魔道具に阻まれるだろうけど、心配ではある。
ミルムの言う通り、誰かに頼んだ方がいいのかもしれない。
「今日はどうするの?この後はノアゼット様のところ行くの?」
「うん、5時くらいに顔出します、って言っておいたから、もうすぐ行くつもり」
今は4時半くらい。次の鐘が鳴ったら行こうと思っている。
行っても多分話とかしないだろうし、ノアもしたくないだろう。本を読むか勉強するかだなぁ。
私が持っていくノートとかをバックに詰めてると、ミルムが私のことをじっと見ていた。
「…あなた、大丈夫なの?」
「なにが?」
「随分平気そうに見えるけど…」
ミルムが心配そうな顔をしている。私の心の心配をしてくれているんだろう。
まったく、優しい友人だ。
「大丈夫、だと思う。私が悲しい顔ばかりしてたら、ノアが思い出した時に自分を責めそうだから」
ただでさえ私を怯えさせただけでも落ち込みそうなのに。
それに、ノアは帰ってくるって信じてる。だから、大丈夫。
「…そう。辛くなる前に言うのよ」
「うん、ありがとう、ミルム」
5時の鐘が鳴ったので、私は貴族寮に向かった。貴族用男性寮に1人で足を踏み入れるのは初めてだ。
ちょっと身構えていると、寮の入口に男の人が立っていて、声をかけられた。
「こんにちは、エミリア様。グレン様に、寮内でのエミリア様の護衛を任されました。ノアゼット様のお部屋までご案内します」
にこりと微笑んだ彼はグレン様に頼まれていたらしく、事情を知ってるような雰囲気だった。
少し警戒心を残しながら素直に着いていくことにする。ノアの部屋へ行く道から逸れたらすぐにわかるし。
と思ったものの、あっさりノアの部屋に案内されて、疑ってごめんなさいと心の中で謝っておいた。
「隣の部屋で控えてますので、帰る時もお声がけ下さい」
「ありがとうございます。…1時間ほどで帰ると思います」
彼にお礼を言って、ノアの部屋をノックする。
ノアの部屋をこうやって訪ねるのも初めてだなぁ、なんて思いながら。
返事が返ってきたので部屋の中に入り、廊下を抜けてリビングに入った。
ノアはソファに座って本を読んでいて、私のことをちらりと確認すると、再び本に視線を戻す。
「1時間くらいお邪魔しますね」
私はそう言って、向かいのソファの彼から1番遠い位置に座り、教科書とノートを取り出した。
思えば昨日は勉強の途中だったのだ。今日は続きからやろう。
ノアと過ごす放課後は、お話してることもあったし、お互い無言で何かをしていることもあった。
今のように、私が勉強してノアが本を読む。そんな時も何度もあった。
ノアの本を捲る音と、私のペンを走らせる音。それしか聞こえなくても、なんの問題もなかったし、居心地は良かった。
でも今は、私は平気でもノアは気になるらしく、ノアが本を読むペースがめちゃくちゃ遅いのが分かる。
ページを捲る音があまりしないから。
気にしたら負けだ。私は背景の一部として扱ってください。
「そこ、違うよ」
「え?……あ、本当だ」
不意に声が聞こえて、私は手元をよく見た。すると確かに計算式は間違えていて、新しく書き直す。
「あの、これの解き方とか教えてくれたりします…?」
ノアが私の問題を指摘してくれたから、恐る恐る聞いてみた。昨日解けなくて後でノアに聞こうと思ってた問題だ。
ノアは少し嫌そうな顔をしたけど、私の手元の問題を見て、ペンを持ってくれた。
「これはこうして……ここからこうすれば…」
「おぉ、なるほど!ありがとうございます、さすがですね」
分かりやすいしめちゃくちゃ納得した。流石学園での勉強を全て終えてるだけある。
3年前でもめちゃくちゃ頭がいいんだなぁ。教え方も上手だし。
「君は神の愛し子で侯爵夫人なのに、まだ勉強をするの?」
ノアに教えてもらった解き方を反復して書いていると、ノアにそう聞かれた。
うーんまぁたしかに、私が勉強しなくても問題は無いけど…。
「折角学園に入ったんですし、出来ることはやろうと思っています。それに彼の隣に堂々と立ちたいので」
「神の愛し子なのに?」
「そう扱われるのはあまり好きじゃないので」
苦笑いを返した。
神の愛し子としてノアの隣に立ちたい訳じゃない。そんなの関係なしに、私個人としてノアの隣に堂々と立ちたいのだ。
どうあっても神の祝福はついてくるけど、それに見劣りしないくらい立派になりたい。ノアの支えになりたい。
それに学園に入れてくれたローリアさんへの恩もある。折角入れてもらったんだから、頑張れるところは頑張るべきだ。せめてもの報いだと思う。
「君は僕のどこを好きになったの?」
ノートから顔を上げてノアを見ると、彼は本を閉じていて私のことをじっと見ていた。
探るような視線だ。
「どこかと言われると答えられません。気がついたらもう好きだったので」
ノアが私の事を好きになってくれた時と同じだ。気がついたらもう好きになっていた。自分が利用されてもいいと思えてしまうくらい好きになってしまってた。
それまでのノアの行動のひとつひとつが、積み重なったんだと思う。私を喜ばせようとしてくれたこと、楽しませようとしてくれたこと、守ろうとしてくれたこと。
ノアの気持ちが私に届いて、恋を芽吹かせた。
彼の柔らかい愛情の篭った笑顔が、恋しい。
6時を知らせる鐘が鳴り、私はそろそろお暇しようとノート達を片付ける。
ノアは本を読んでる体勢のまま変わらず、横目で私のしてることを確認しているくらい。
「今日はこのくらいで帰ります。お邪魔しました」
「……うん、気をつけて」
辛うじて返事してくれた言葉が、仕方なくだろうけど心配の言葉だったことに私は少し心が明るくなった気がした。
やばい、単純かもしれない、私。
リビングのドアに手をかけて、私は振り返る。
「あ、聞きたいことがあったんですけど」
「なに?」
「ノアゼット様の好きな食べ物ってなんですか?」
「…は?」
私の質問に、ノアは口が開いたまま固まった。
そんなに意外な質問だっただろうか。至って普通の質問なんだけどな。
「好きなお菓子でもいいですよ」
「……特にこれといったものはないよ」
「そうですか。じゃあお花は?好きな花ありますか?」
「……それも特に」
「そうですか……」
分かってはいたけど、やっぱり3年前のノアも好きな物はよく分からなかったか…。
今のノアの好きな物、一緒に見つけたんだもんね。それまで何も無かったんだなぁ。
「じゃあ嫌いなものありますか?嫌いな食べ物、お花とか…」
「無いけど、何かくれようとしてる?要らないよ」
「そんな、夫なら妻からの贈り物は受け取ってくれないと。」
拒否はさせない。それは散々ノアが私にしてきたことだ。
なるほど、ノアはこういう気持ちだったのか。なんか少し、狩人の気分だ。
「えぇ…。じゃあなんでもいいよ。でも言っておくけど、手作りは食べないからね」
「はい、勿論です。じゃあ、また明日」
ノアの部屋から出ると、来た時に案内してくれた人が部屋の前で待っていてくれた。
彼に護衛してもらって平民の女子寮まで送って貰う間、周りに人もいなかったので彼に聞いてみた。
「グレン様から、一通り聞いてますか?」
「はい」
「あの時のノアの好きな食べ物とかって、分かります?」
私が聞くと彼は一瞬ぽかんとして、そして微笑む。
「あのノアゼット様を振り向かせようとお考えですか?」
「やれるだけやってみようかと。元に戻る保証はどこにも無いですし」
何かの手違いで記憶が戻らなかったり、ノアに術をかけた人がグレン様と会う前に死んじゃったりしてたら絶望的だ。
もう一生ノアの記憶は戻らないかもしれないのだ。
そう考えたら、やれることはやるべきだと思った。
グレン様が、ノアは何度でも私に恋をすると断言してくれた。それが本当だと信じたい。
「流石エミリア様ですね。どうかノアゼット様のことをよろしくお願いします」
「いえ、こちらこそ」
平民用女子寮の入口まで送ってくれた彼は、今のノアのよく食べるものとかを教えてくれた。
好きな物はやっぱり分からないらしく、よく口にするものから推測するしかない。
よくお茶菓子で口にするのは、クッキーやスコーンなど、やっぱり食べ応えのあるもの。でもスコーンは喉が渇くから、その状況によってはあまり食べないこともあるらしい。
どんな状況かは分からないけど。
そして花は全くわからなかった。ノア自身花を買わないし、貰っても喜ばない。ただ花が嫌いと言うよりかは、女性から貰う花というのに嫌悪感を示しているそうだ。
うーん、まさしく、私のしようとしてることだね。
でもきっと何をあげても、女性から貰ったというのが彼にとってマイナスになるのだろう。なら花だって贈ってやる。
やる気を出した私は次の日、学園が終わるとすぐに花の街に出かけた。
と言っても1人ではなく、ミルムに相談したらユフィーリアがついてきてくれることになった。
ユフィーリアと2人で花の街に出かけ、ノアの視界に入ってもうるさくなさそうな花を1輪。それと、クッキーが3つ入ったセットを1つ。
それだけでいいのかユフィーリアに聞かれたけど、これでいいんだと答えた。
断りにくいように少しづつ、がいいんだってノアが言ってたから。
そして買ったものを早速その日の夕方に、ノアに渡した。
「妻からの贈り物なので、受け取ってください」
「……分かった」
部屋でノアに渡すと、ノアは目に見えて嫌そうな顔をした。少し見慣れてきたその顔を見ると、少し面白く感じてしまう。
ノアに嫌そうな顔をされること、なかったから。
多分渡した物がこんなに少なくなくても、妻からの贈り物だからと言えば受け取ってくれただろうけど、これでいいのだ。
「花はどこか邪魔にならないところにでも飾ってください。花瓶があると思うので」
「…分かったよ」
渋々、と言った感じだけど彼は頷いてくれた。多分ちゃんとその通りにしてくれるだろう。
「ありがとうございます。じゃあ今日も1時間、お邪魔しますね」
そんな日々が、3日ほど続いた。




