冥境の章4
6
揺れている、と思ったら、本当に揺れていた。
かけられいた小袖をのけて、半身を起こしたあけのは、黒く揺れる波を見つめ、降るような星々を見上げた。
どこ、と思う。
平泉から都まで、幼き日に旅した後は、あけのは京洛から出たことがない。
自宅周辺のごく狭い地域で暮らしてきた。その中では、嗅いだことのないにおい。海、というものの上、だろうか。もしかして。
「すまないな。」
男が船の舳先に座っていた。逆の方向からは、櫓を漕ぐ音がする。
「…あの、」
声を出した瞬間、咳き込んだ。
「喉が乾いたのだろう。右手にある水筒に水が入っている。お腹が空いているのなら、干飯があるが。」
とりあえず水を含む。ぬるかったが、悪い水ではないようで、遠慮なく飲んだ。お腹が空いている感じはなかったから、水筒の栓を戻すと居住まいを正した。膝の下の板が落ち着かないが、耐えられないほどではない。
「ごちそうさまでした。」
礼を述べれば、絶句に近い沈黙が戻ってきた。
「いや、すまない----そう来るとは思わなくて。」
「お水をいただいたので、」
「うん。でも、あんたは攫われたのだから、ここは怒るか怯えるところじゃないのかな?」
「ご用事は、私ではないですよね?」
「---ああ、あんたの家族・・・、都の鬼市で、黎と呼ばれている術者にどうしても依頼したいことがあってね。」
夜闇に相応しく、穏やかに喋る。
「それで、私を攫ったのですか?」
「お願いしたのだけれど、断られてしまってね。でも、もう彼以外に助けてくれるあてがないんだ。」
「怒るだけ、だと思うんですけれど。」
蜘蛛の時の形相を思い出して、溜息をつく。
好き、という気持ちには応えてくれないけれど、家族として心底大事にされているのはよく分かっている。
「分かっている。でも、某にはもう時間がなくてね。」
はりのない声。だるそうに、船べりにもたれている。やせた体だが、腹部が不自然にふくらんでいる。
----病だ。
納得したあけのは、男がじっと見つめている昏い波間に視線を飛ばす。
「見えるかい? 今日は日がいい----言い方がおかしいな、まさにその日だからね。月命日では、勘のいい者にしか見えないそうだが、」
カラス天狗と修業をしていたと噂される父は、もしかすると見鬼の才があったのかも知れないし、遡れば鬼退治で名を馳せた祖先もいるが、あけのに霊視の才はない。かけらの才があれば、黎の助けになれただろうに、と思うこともあって、小さなころは闇に眼を凝らしてみたり、聞きかじりの呪文を唱えてもみたが、母の血筋が強かったらしい。実は昨日の物の怪が、怪異との初遭遇である。黎の商売相手を初めて目の当たりにして、これは吃驚恐ろしい大変だ、とつくづく思ったわけだが、まさかこんなすぐに二度目の怪異と邂逅するとは。
蒼い、船だ。大きな帆と、無数の櫓を備え、小屋というのか屋形が乗っている。京洛の川を、人や荷を積んで行き来する舟とは比べ物にならない大きさだ。
所謂、御座船なのだが、あけのの生活圏にはないものだ。
しかし、現実の、ではないことは分かった。音も気配もしないし、そも、あいまい、だ。ぼんやりしている。
もしかすると、才のある人ならば、ずっとはっきりとみえるのかも知れないが、あけのの目には、たそがれの遠くの人影のようにしか捉えられない。
男は黙って、思いつめた顔で船を凝視している。
舟が見えて終わりでは、ない、らしい。
海面に指を伸ばしてみた。濡れた指先を口にあててみる。
「本当に、しお、辛い。」
「----海は初めてか?」
「山生まれの京育ちで。ここはどこの海ですか?」
「屋島だ。」
「屋島!?」
何も見えないのだが、思わずまわりを見渡してしまった。
「----まあ、ここが、かの屋島…、」
「琵琶法師のかたりものを聞いたか?」
「それもありますね。」
ほぼ記憶はないし、その語り物語に出てくる姿でしか思い浮かばないのだが、この海を父も渡ったのかと思うとやはり感慨深い。
やにわにじっと海を見始めたあけのに、男は首を傾げ、
「所縁が、いや、」
「あなたは平家方の方だったのですか?」
戦後育ち、かつ係累と縁がなく育ったあけのには、気にすべき隔意はない。むしろ、京の市井育ちなので、平家のみやびを懐かしむ話を多く聞かされている。
まったくの他人事、昔の話。さらりとこんなことを言ってしまう。
「私は源氏方…なのかなあ。どっちも、とうに死んでますけれど父と顔も知らない叔父とかがここにいた、んでしょうね。」
「平家物語」に出てくる----が、身内の話というには、感覚が遠すぎる。だから、
「----そうか、」
ひやりと、低くなった声とその心境に思いは至れない。
往時に在った人にとって、時間は近すぎる。
「----あれを」
男が、手先で船を指し示した。
蒼く揺らめく様な船の、船端に人影が浮かぶ。色はよく分からないが、袿と袴を身にまとった貴族の女性ではなかろうか。彼女は静かに手を合わせている。
南無阿弥陀仏、と繰り返されるこえ。
え、とあけのは耳を押さえた。小さな囁き声のようなのに、波の音も風の音も飲み込んで陰々と、背筋をぞくりとさせるこえ。
この世のこえではない、と分かった。
「南無四方極楽世界教主、弥陀如来、本願あやまたず浄土へ導き給ひつつ、あかで別れの妹背のなからひ、必ず一つ蓮に迎え給え。」
すすり泣く。そして。
「だめっ、」
彼女は、船端を乗り越えた。
二、三歩。まるで海面を歩くようにし、音もなく、海底に吸い込まれた。
「…助け、ないと、」
慌てて振り向いたが、
「これはかつて、起きたこと。もはや取り返しはつかない。」
うっそりと、ただ目は爛々と、男は言う。
「あの人は----彼女はどなた?」
「かの物語を聞いたことがある、と言ったね? かの女は、越前の三位通盛卿の北の方、頭の刑部卿憲方様のご息女で小宰相の君と呼ばれていらっしゃった。」
「小宰相の君…、」
「背の君であられた平通盛様は、一の谷の戦場にて討ち死にされた。通盛様の側に仕えていた侍によってそれを知らされた北の方は、船より身を投げられ、後を追われた。」
「----そう、なのですね。」
これが、終わりではない。ぞくりぞくり、と背筋を冷たいものが這いあがる。不安げにあたりを見渡し、はっと目を瞠った。
海が----紅い!? 血を流し込んだような、どす黒い、くれない。
海面から、ふわりゆらり、と紅い鬼火が浮き上がる。
異界、そんな言葉が脳裏に浮かんだ。
大蜘蛛が、あの夜に現れたときのような。自分が迷い込んだのか、彼らが踏み出してくるのか。
船はいつの間にか見えなくなっていた。そのかわりに、彼女が沈んだその場所から、ゆ゛ら゛り゛と濁った音がしそうな動きで、人影が起き上がる。
足首を越える長い髪をざんぱらと流し、真っ赤とも真っ黒ともつかぬ女房装束はずぶ濡れて重そうで、さらには大鎧をいつの間にか上に纏っていて、これも女の細い身には余りある大きさだ。ずる、ずる、と海面を歩く----鬼女、あけのは口を押さえて悲鳴を堪えた。
「未だ、かの女は通盛様のもとに行けず、こうしてこの海に縫い留められ、あのような無残なお姿でさまよっていらっしゃいます。」
「どう、して?」
「どうして? 無念だからですよ。無残に命を刈り取られて、どうして許せるでしょう? 一の谷も、屋島も、勿論、壇ノ浦でも!」
ずるり、ずるり。まるで一歩が千歩のような重さを感じる動きだ。慄いてはいるが、恐慌ではない。あけのは、船べりを強く掴んで、さまを観察している。
鎧を付けた上半身も動きにくそうだが、袴で隠されて勿論足首は見えないが、まるで鎖で戒められているか、重いものをくくりつけられているような動きだ。
「----あのひとを、助けたいということ?」
一の谷でも、屋島でも、壇ノ浦でもなく、ここに導かれたということは。
「ええ、北の方様をお助けしたい。それが我らのただ一つの願い。」
「あのおばあさんも?」
「彼女は、北の方の乳母であった。後を追いたいと悲しみに暮れる北の方の側に付いて、もし命を絶たれるのなら自分も千尋の底まで供をするからとどうか一人で逝かれないでくださいと、訴えて、何とか思いとどまらせようとしていたが一瞬寝入った隙に、あのように身を投げてしまった。悔いは深い。」
かの女は、何かを探しているように、うつ向いたまま、歩くあるく。
「後を追おうとして留められ、出家のうえ後世を弔っていたが、これを知り、どうあっても成仏させて差し上げなくては死んでも死に切れぬ、と…まあ、このまま乳母殿が身罷った場合、あの後ろを歩きそうだし。乳母どのの息子から頼まれて、あちこちの術者につなぎをとること数年。漸く辿りついたのが、黎どのだ。」
「あなたも乳母どののお身内なのですか?」
「----某は、殿の、三位様の侍をしておった。源氏の部将七騎に殿囲まれて、討たれる寸前まで御傍におり、共に果てるところを、必ず北の方に最期を伝えよと申し渡されて生き延びた。某が、」
瞳に浮かぶのは強い後悔だ。
「北の方様に、殿の最期をお伝えしなかったら、北の方様はどこかで殿が生きているかも知れない、ひょっこり戻って来られるかもしれないという望みをもたれて、ご自害などされなかったのではないだろうか。そんなことを考える。供の侍の中で、某を殿が逃がしたのは----某の妻が身重であると知っていたからだ。北の方様と同じに。」
ぎょっとして、あけのは北の方の姿を見遣った。
「お子!?」
「殿は三十まで子がなかったのに、漸く、と大変喜んでおられた。討ち死にされることはいつもお考えだったから、この世の忘れ形見になる、ともおっしゃっていた。」
「お腹に、お子がいて、それをお分かりになっていて、入水!?」
「そうとも。」
男は、目をぎょろりと剥き出しにした。
「源氏が、あの源九郎義経が、殿を殺して、ひいては北の方様とお子を殺したのだ!」
夢語り
「今ならまだ間に合いまする。ここより出でて、山づたえにお逃れ下さいっ。」
「おい、何なんだ、これ・・・・。」
薄暗い持仏堂。仏壇の陰の、他より大きめの床板を一枚剥がすと、地下に続く隠し階段が口を開けた。
「もともとあったものですが、まかせて下さい。出先は変えました。出先を張られている心配はございませぬ。さあ!」
そう勧められた赤糸縅の鎧をつけた男は、僅かに目を細め、そして微笑った。
「何処へ、何のために逃れよ、と申すのだ?」
男は三十年余りの生涯を振り返る。
褓も取れぬ赤子のときから、居場所の定まらぬ生涯であった。居場所を捜し続ける業を背負っていたのやも知れぬ。
親の敵を討つため、武将として生きんがため後にした鞍馬山。
そうして辿りついた平泉を出たのは、挙兵した兄の片翼とならんがため。
平家を討ち滅ぼすために出陣した鎌倉。
いつも生きたい場所があった。
兄に追われて落ちた京。そして七年ぶりに戻ってきた平泉。兄の追捕を逃れられる唯一の地、戻って来るしかなかった状況だったが--生きてもいいと覚える最後の場所だった。
・・・・平泉を落ちて、何をせよという? 物心ついたときには抱いていた平家への執着。ずっと、それがあっての自分の生の展望だった。平家を自らの手で海に葬ると、導べのない茫洋に途方にくれた自分がいた。
秀衡がくれた平泉のために生きてみてくれないか、という最後の導べも、現在失うものとなった。
矢唸り、怒号、・・・・断末魔の悲鳴、切れ切れに届く、迫る戦の音。
戦から戦に駆けることが、たまらなく楽しかった頃もあった。平家を討つという確固たる生きる目的の過程に、ためらうことなく己がすべてをかたむけていられた、あの充実感。
もはや、遠い。
血はたぎらぬ。
頭を垂れるべきような、そんな想いが心に寄せる。
「もう・・・・いいよ。」
男の覚悟を定めた静謐さに、法師姿の家臣は絶句した。
「見るべきものは見つ。平知盛はそう言って、死んだそうだ。おれは、・・・・するべきことはした、んだ。」
「殿・・・・、」
「今までよく仕えてくれた。礼を言う。おれの最後の頼みだ。室と姫を逃してくれ。」
「わたしは参りませぬ。」
三歳ばかりの童女の手をひいている女が、きっぱりと己が意志を口にした。
「わたしには殿の傍以外に生きる場所はありませぬ。生きようとも思いませぬ!」
風に吹き散らされそうなおとなしやかな風情のくせに、芯は葦のようにしなやかに勁い女だった。兄が選んで勝手に送りつけてきた花嫁。兄との関係がこじれだしたころで、鬱陶しく、京に在った頃は、ずっとほったらかしていたのに、平泉までついてきた唯ひとりの女になった。親も生国も捨てて、自分だけを見つめる、そのひたむきな眼差しがいつしか彼を魅了した。
「室・・・・、」
ありがとう。抱き締められて耳元に囁かれた言詞に、女は子の手を取っていない左手を夫の背にまわして、満ち足りた笑みを浮かべて、瞼を下ろした。
重い音をたてて持仏堂の扉が閉じられた。内から閂を下ろし、男は安置されている仏像に手をあわせている妻子のもとに戻る。
平泉に入る直前に生まれた娘は三つ。真っすぐに切り下げた前髪の下の大きな瞳が、きょとんと父が抜き放った懐刀の、蒼いばかりに冴える刃を見つめている。
「すぐ父も母も参る。おとなしく待っているんだぞ?」
母である女は白い顔で、硬く作った震える拳を口の前におしあてて、始まる地獄絵を耐えようとしている。男は覚悟を定めて、娘の喉の血管脇に刃をあてた。細い首をかききろうとした、まさに瀬戸際の瞬間、
「馬鹿か!」
いる筈のない第四者の声が堂に響き渡った。ぎょっとして声の方を見返った夫妻は、堂の隅に置かれている水瓶のなかから縁を乗り越えて、床に身を立たせた少年を認めて呆然となる。少年ひとり入るには不足ない大きさの瓶ではあるが・・・・。
少年の背後になった瓶の内で、水が揺れる音がする。ということは、水が満たしてあるということだ。だが、少年は水滴の一粒もまとわせていないのだ。
「きみ、は・・・・そのなかにいつからいたんだ?」
知らない顔であり、戦の最中であった。何者か!と警戒を漲らせて誰何すべきだったが、突飛すぎる登場は戸惑った口調で、まずそう尋ねさせる。
「いま来たところだ。」
状況にあわない返答に男は首を捻る。彼らが来てから、忍び入られて気づかぬ訳はない。いま、という言葉の使える範囲を違えているのか? 彼は問いを変えてみる。
「我らがくる前か?」
「いま、だって言っているだろう!? あんたがいたから、俺はここへ来たんだ。」
「しかし、それは不可能だと思うが。」
ふと天井を見上げて、水瓶に視線を降ろす男に少年が釘をさす。
「烏天狗じゃないんたから、そんな軽業できるか。とにかく、そんなことは、どうでもいい!」
ちっともどうでもよくない、と男は思ったが、とにかく現実として目の前に立つに至っている少年は、己が要件へと会話を展開していく。
「おまえ、死ぬのか?」
直截な物言い。おまえ呼ばわりながら、不思議と荒さや口汚いと感じさせない。細い線の、少女めく美貌・・・・服装こそ、そのあたりの野山の小僧と変わらないが、身をやつした年若い公達のような印象のある少年だった。
「おまえが自害したいのは勝手だ。だが子供を伴おうとするのは身勝手だ。その子の命はその子のもので、おまえの命の、生の、付属じゃない!」
少年はまくし立てる。
「大人の都合や理由に子供を巻き込むな。・・・・・絶対の安心の塊が、裏切るな!。」
激しい口調に、実感を纏うせつなさが滲んで、胸をつかれた。
男は娘を顧みる。目の前にかざされている己の命を奪う為の短剣に、無防備に向き合っている。武士の子だ。武具のふんだんにある環境だから、幼い好奇心が事故を起こさぬよう、刃は危ないものだという認識はたたきこんである。刃を向けているのが、身も知らぬ誰かなら脅えもしよう。だが、刃は父親の手にある、という時点で、この刃は娘にとって警戒の対象外なのだ。
男は剣の柄を、きつく握りしめた。
「死なせたい訳じゃない。だけど、おいていくのは、余りに不安だ。こんな幼子が、どうやって独りで生きていける? たとえ、生き延びられたとしても、身寄りも身代もない幼子の、まして女の行末など知れる。親として、この子が不憫になると分かっていて・・・・ただ生きながらえるのが正しいとは思えぬ。」
堂の外が騒がしい。主の静かな最後を守るため扉番をつとめる法師が、この深奥まで攻め入ってきた寄せ手の兵と、怒鳴りあっているのが聞こえる。
「だったら、子供を育もうという気持ちはない訳か?」
少年の言詞に、男はおもしろそうにその顔を見やった。
「きみはおれを殺したくてこんなところに現れたんじゃないのか?」
はっ、と一瞬見開いた瞳。図星であったことを伝える。
「・・・・少し待てばいい、ことだ。」
その子が、独り立ちするまで。
「・・・・おもしろいな、きみは。」
男は心よげに笑んだ。片膝をたてる姿勢から、す、と立ち上がり仏壇に歩み寄る。ちろちろ、燃える蝋燭を台ごと手に取り、小さな壷を小わきに抱えた。
男は壷の中身を、ざっ、と床と壁にぶちまけた。
「油・・・・?」
「おれは此処から逝く。」
空になった壷を床に転がして、男は言った。
「おれはこれでいいんだ。」
「その子は!?」
「おれは、これでいいと思う。」
その、男の眼差しに少年は声を呑む。誘いかけるような、挑戦するような・・・・哀願しているかのような。
少年は、ゆっくりと童女に視線を移す。座している母親の右側面によりかかるように立つ童女は、真っすぐに彼を見つめていた。瞳が出会う。澄んだ物おじしない瞳は、慈しまれ、優しく守られている子供の証しだ。
やがて傍に膝をついた少年に、童女は手を伸ばしてきた。頬に柔らかく暖かい手の感触・・・・少年の腕が、童女を抱き取っていた。
「俺は、それは良くないと思う。・・・・俺が、もらう。」
その宣言に、男は深く少年に頭を垂れた。
「・・・・不安じゃない訳か?」
少年は、刺をこめて言ってみる。
「自分を殺しにきた奴に、娘を預けて信頼できる訳か?」
「きみが平家のだれぞの子息か、木曽の者かは知らんが、自分の憎しみ、復讐心をおれに露にするより、まずこの幼い子の心配をしてくれた。」
多分、自分が経験した傷みなのだろう。それを経験させたくないと・・・・。
「憎いおれの子供なのに。」
「おまえのしたことは、この子が負うものじゃない。」
当たり前の言詞だが、当たり前に吐ける者は少ない。
男は、憎い清盛の一族すべてを追い詰め滅ぼした。
彼は手の蝋燭台を床に落とした。火は撒かれた油に引火し、床から壁へと炎がなめていく。
母親が娘を抱き締めて今際のきわの言詞を語っている。乾いた木材は火のまわりが早い。煙が充満しはじめていた。
もう一度強く抱いて、女は娘を少年の手に預けた。少年は隠し道へ向かう。この子を連れていては、来た方法では去れない。去れないこともないが、体力と免疫のない幼子にどんな衝撃を与えるかも知れないと思うと、とてもやる気にならぬ。
「--名を、教えては下さいませぬか?」
女の声が背をたたき、隠し階段を数段下った処で彼は足を止めた。女として子供を手放した、けれど母であることは変われない彼女の縋るような眼差しを、少年は見返す。名を知る。それだけのことでも、せめて見知らぬ人ではないと安堵できるのだろう。今際の願いに応えぬつれなさは、もてなかった。
「・・・・ときひと。」
男がこの名を知っていたかは知らない。確かめもせず、少年は隠れ道を童女を胸に抱えて走りだした。
童女は、少年の首にしっかりしがみつき、泣かなかった。
文治五年閏四月三十日。奥州平泉にて、源九郎義経、藤原泰衡の差し向けた軍に館を襲われ、自害。




