冥境の章3
差別的な用語と、性行為を匂わせる表現が出てきます。歴史ものの特性として理解していただいたうえで、お読みください。
5
二カ月ぶりの帰京だった。仕事先--旅先で手に入れた背の絹を意識して、屋で待つ少女の笑顔を思い浮かべた。疲労で重くなった、引きずる寸前の足が少し軽くなった気がした。
夕食の支度に出たところか、笊を抱えたあけのが見えた。早めようとした足は、ぴたり、と縫い留められた。
商人、だろうか。身なりが良く、護衛と従者も連れてねいる。親し気に笑っているところからすると、通りすがりというわけてはない。
「おや、黎さん? お帰り」
気配が読めなかった---のではなく、ただ気を取られすぎていただけだ。同じ界隈に住む女だ。
「どうしたんだい、そんなところに突っ立って。」
と、視線を黎のうしろに投げて、ああ、と訳知り顔になった。
「最近、よく見るね。ほら、あけのちゃんが衣装を収めたり、手伝いに行っている白拍子宿のお客さんらしいよ。裏方しているあけのちゃんを見初めた…、」
「見初めた!?」
「んじゃないかね? 若狭の方に船をつけている商家の息子らしいよ。」
女は話を続けたそうだったが、彼女の子供が大きな声で呼んだのと、商人を見送ったあけのが黎に気づいて駆け寄ってきたので、そこで終わった。
「お帰りなさい! すぐ、夕餉にするから、」
---この言葉を、だれかに言うようになるのか。
奪われるのか。
瞬間、かっと仮定の対象へ怒りを燃やした自分の心の熱さに、黎は狼狽した。今まで曖昧にぼかし続けてきた、これから先、と直面したのだ。
一緒に暮らし始めて十二年。育てる者と育てられる者として暮らしてきた。だが、もはやその関係で暮らし続けることの、限界を知った。
「---もし、」
のろのろと黎は言った。嬉しそうに、旅装を解く手伝いをしていたあけのが怪訝そうに見上げる。
「おまえが、あの男と一緒になりたいというのなら、」
普通のやつに望まれて、普通の平穏な生活を営むのなら。思考した瞬間、黎は胸を抉られたような強い痛みを感じた。
「一緒!? あの男って、」
吃驚したように目を瞠って、ああ、と困ったように笑った。
「そんなんじゃないし。」
「悪くない、と思う。」
「黎?」
「蔑ろにされないよう、ちゃんと手はうってやる。鬼市には貸しがいっぱいだ。元締め殿は顔が広い。あの男の家が頭が上がらないような後ろ盾を付けて、」
「待って待って。何!?」
あけのは、黎の瞳を覗き込む。
「そんなの、ぜんぜんいらないからっていうか、」
常にない焦燥に駆られた瞳に、少女は一瞬で、覚悟を決めたようだった。
いっそ潔く。一歩を踏み出してみせた。
「私は、あなたの傍にずっといたい。」
真摯な一途な想いが透けた恋の瞳。自分に奪われたがっている。少女の甘い体臭。目眩がした。
胸の上を擦るように撫ぜていた女の手を、邪険に払って青年は身を起こした。
身支度を整え、銭を床に置く。男が欲求を散らすために訪れる場所であり、女は浮かれ女、青年は客だった。
空気の濁った室内から、外に出た青年は頬に触れていく夜風のなかに、吐息を溶かす。
身体の熱の吹きだまりは失せはしたが・・・・心がひどく虚ろだ。身体に溜まる熱の為に求める行為・・・・心はない。求めようとも思わない。
心が欲しいのは--面影を振り払う。
あのとき--今でもまだ、抱き締めてしまえば、容易くこの手の中に果実はもげただろう。
けれど。
自分が手にいれてはいけないもの、という自覚--保護者としての良識と分別・・・・否、引け目、だ。
流したままの髪を束ねようと、手首に巻いた紐を解こうとした彼は、頭上にさした影に、身を緊張させた。油断なく目を上げた青年は、旋回しながら高度を下げてくる鵲に、知れた気配を感じ取り、腕を差し伸べた。翼を畳んだ鵲の告げた報せは、青年の顔をみるみる引きつらせ、色を無くした。
辺りを見渡し、井戸端へ寄った青年は、ためらうことなく、井戸の中に頭から飛び込んだ。
水面に波紋が広がっていく。前兆に麻生は数歩後ろに下がった。
直後、河水が天をつく勢いで噴き上がった。起立した水の柱は、先から崩れ、どうどうと盛大な音と水しぶきを撒き散らす。その水柱の内部に浮かんだ人影が、水滴の一粒も纏わず、踏みだしてきた。月明かりにも、焦燥した表情が窺える。
「どういうことだ?」
詰め寄る青年に、麻生は細大漏らさず我が目で見たままについて報告した。
「すまん、おれが近くにいながら、みすみすと、かっさわられるようなまねをされて・・・・!」
歯がみする友人の肩を叩いて、黎は夜空色の川面を見遣る。
「いい度胸だ。」
背筋の冷たくなるような凄絶な笑みが、黎の口元に刻まれた。
「よりによって、水を使ってくるとは。やってくれる。」
怒髪、天を衝く。と、怒りを表すタイプではない。所謂、微笑みが怖いタイプだ。麻生は、放たれる冷気に、思わずこの仕掛け人に同情したくなった。
麻生も黎も、あけのに用があったとは思っていない。あけのは、呼び水にされたに過ぎないだろう。最愛の少女を巻き込んだだけでも黎を煽るのに、挑戦的にも彼に向かって「水」の術を行使した。黎の十八番が(少し語弊があるが)何だか知らないでの、偶然とは--相手を知らずして、用があるとも思えないし、それでは自殺行為だ--解釈できない。
「手引きの者は?」
「あぁ、向こうに拘束してある。」
麻生は顎をしゃくって、暗示で身体の自由を奪ってある老婆を示した。
「あのバーサンだよ。一言もないが、あけのに話しかけていたから、口はきける筈だ。」
「老人は頑固なものと相場が決まっているが・・・・わたしは、現在敬老精神を発揮できる自信はまったく、ない。」
ふたりは大股に老婆に近づく。
麻生は一目したときには河原乞食と判断したが、その老婆を間近によく見てみれば、着物は色あせているが、もとは高価な代物に違いなく、皺の埋めた小さな顔も上品といって良い作りと雰囲気をもっていた。零落の身なのやも知れぬ。
「--どういうことか、説明してもらおう。」
胸倉も掴まず、まず静かな言詞で問う。激高しているのは確かなのだが、それでも前言通り、敬老精神をかなぐり捨てて、腕力に訴えることや問答無用で心をねじあける真似に直行しないのは、彼の生まれの良さの滲むところだ。
とはいえ、老婆がだんまりを続けるのなら、廃人となるのも厭わず、心を力で開くこともためらわないだろうことは、分かっている。
老婆は緩やかに黎に視点を定めていく。焦点が、完全に合ったとき、皺に埋もれた瞳が突如、極限まで見開かれた。
「・・・主上・・・?」
茫然とした声が、そんな言葉を紡ぎ落とす。 麻生がぴくり、と片眉を跳ね上げて、黎の横顔を盗み見るように窺った。
晴天の霹靂というような、ある意味の呆然をもって、黎は老婆の顔を見つめた。
やがて、黎は鼻から口にかけて覆わせた左手を、顔を拭うように下に動かした。息を吐く。
「何だって?」
あきれたような笑いを含んだ声だ。
「いきなり、面白いことを口走るものだ。婆さん、ここは鴨の河原だぞ?」
「あ・・・・あ、ぁ?」
大きく胸を上下させ、老婆は我に返った。だが驚愕は冷めやらず、喰い入るように青年の面を眺め続ける。
身罷られたときよりは、やや年上で、繊細さや優美さはないが…。
輝かしき、香匂いたつ、いまは夢であったように朧な栄華の日々が、老婆の心の内にて次々と浮かんでは消える。
「まこと、よく・・・。」
服装や背景の落差は激しいが、二十年という時間の移ろいのなか儚くなっていた肖像を俄に鮮明に取り戻させた。。
「知り合いに似てるのか?」
麻生が問いただしてみた。
「知り合いなどと、畏れがましきこと。ほんの数度、お見上げさせていただく僥倖に預かったに過ぎぬ。」
「随分、仰々しく言い回すものだな。」
「こなた、恐れ多くも、よう、そのように似せたお顔を頂いたものじゃな。地下の身には、余る栄誉と覚えよ。」
「かどわかしの現行犯が何をいうのやら、」
いきなり高圧的に物申す老婆に、黎は鼻の頭に皺を寄せた。
「お止めなされ。そのお顔に、そのような表情をさせるなど、不敬きわまる。」
黎は呆気にとられ、麻生は噴きだした。
「・・・誰に似てようと、俺は俺の顔をしているだけなんだ。恐れ多いも不敬も栄誉も知ったことか。」
「・・ゃに似るのは、当たり前だしな。」
ぼそっと呟いた麻生の腹に、瞬間的に肘を埋める。腹を抱えた麻生を冷たく睨んで、その冷ややかさを湛えたままの瞳を老婆に返した。
「立場を分かっておいでか? どういうつもりで、あけのを・・・・!? 誰の差し金で動いている!?」
「・・・・黎、殿か?」
老婆が、名乗った覚えのない青年の名を、確認するように口にした。
「あぁ?」
「おぉ!」
老婆の顔が歓喜に輝いた。
「お力を貸して下さいませ。どうか、わたくしの姫様を、あの無限地獄よりお救い下さいませ。どうか・・・どうか!」
手を合わせ、縋らんばかりに身を寄せてきて懇願する。
「姫様をあの苦しみより解き放てるお力のあるのは、日の本に黎殿おひとりとか。お願いでございます、お救い下され。」
「わたしを紹介、いや、」
涙ながらの老婆の依頼(と一応言っておく)を聞き終え、黎は苦い顔で老婆に確かめる。
「わたしを引っ張りだす悪知恵をくれたのは、襤褸をひっかけた、乞食坊主だったと?」
「お姿は、見窄らしいものでしたが、どことなく品のある、世捨ての高僧のようなお方と、お見受けしました。」
「高僧!?」
頬が引きつっている。
「あの、死に損ない。今度、わたしの前に現れたら、寿命を縮める手助けしてやる。」
地を這うような声で、呪詛のように唸るのを、無理だなと麻生は内心断定して肩をすくめて聞き流す。
黎を、純粋に怒り狂わせられる--つまり頭の上がらない人だ。
「まあ、良かったじゃないか。」
天を仰いだまま麻生が言った。
「つまり、あけのの身の安全は保障されたわけで?」
「そういう問題ではない!」
「でも、一番大切なことだろう?」
黎の手に、麻生が遠隔の術媒体に使われた椀を投げて寄越した。
「心聴いてみれば? 伝言を有しているかも知れんぞ?」
黎が顰め面で、探るよう送った軽い念に、心得たよう、ぱんと椀が霧消した。
わははははは!
刹那。響いたのは、実に底抜けに明るい笑い声、それだけ。
「・・・いや、予想のつかない人だこと・・・、」
唖然と、感じ入ったように麻生は呟き、白く拳をかためた友人を見て、天の配剤の妙を、ため息で讃えた。
これくらいでなければ、黎の養育者なんて、外的にも内面的にも厄介なことに手をつけまい、と。