冥境の章2
3
「・・・・けのっ、あけの!」
「は、はいっ。」
少女はビクッと大きく身体を震わせて我に帰った。いったい何度呼ばれたのだろうか。斜向かいに座っている四十路の女が眉をひそめている。
「どうしたんだね、ぼうっとして。気分でも悪いのかい?」
「いいえ・・・・ただ昨日よく眠れなくて。」
苛々して、眠れなかった。
「失礼いたしました。」
丁寧に礼を施せば、女は感心するように目を眇めた。
「・・・これが、今度の絹地だよ。頼むね。」
女は白と紅の反物を置いた。十の頃から、あけのは仕立てを生計の一部としてきた。
昨日、泊めてもらい、そのまま仕事の話を受けている。此処は眼前の女--藤の前という元白拍子--が宿主をつとめる白拍子宿であり、あけのの上得意先だ。白拍子とは平安時代末から始まった水干、緋袴・立烏帽子という男装の舞妓である。宿は彼女たちを注文に応じて宴の席に派遣する、いわば窓口だ。
「はい、どなたの?」
「なぎ、おいでだね?」
女宿主が声を投げる。あけのの死角の縁に、いつからか座っていたらしい少女が室に入ってきた。
「なぎ・・・・あなたが・・・・。」
宿で下働きをしつつ、舞や今様名等を修めていた少女。年齢はあけのと同じで、頬のぷっくりとした可愛らしい型の顔立ちだ。
「その・・・・おめでとう。」
ぎこちなくいったあけのに、なぎもどこかしらぎこちなく笑った。
「おまえさんはどうかね?」
寸法を採り終え、なぎが退室し、ふと女宿主が言った。
「え?」
「白拍子になる気はやはり起こらないかね?」
仕立てを引き受けるようになってより、女は繰り返しあけのを勧誘して止まない。その都度あけのは謝絶しているのだが、どうにも諦め切れぬらしかった。
「申し訳ありませんが。」
あけのの返答は今日も変わることはない。
「そう・・・・。」
女は溜め息をついた。
「惜しいねぇ。」
華奢な、だが一本芯の通った姿。その年齢にしては落ち着きのある、柔らかい印象の美貌。
「あんたなら、すぐ名指しのお呼びがかかるだろうよ。」
なおも口説きを止めぬ女に、あけのは角を立てぬように穏やかに笑って首を横に振る。 見知る白拍子たちは皆いい人だ。けれど、彼女たちの多くは心を削って生きているか、あえて鈍化させた心で生きている。お偉い公家や有力武家の宴に侍る・・・・とはいえ、その雅な薄皮を一枚剥げば、白拍子も闇で行き過ぎる男の袖をひく浮かれ女と、たいした違いはない。手を荒らすことのない物質的には豊かな生活が出来るかも知れぬ。だが、その代償が心を傷めることであるのなら、そのさしひきは果たして加といえるものか。
「惜しいねぇ。」
未練がましく女はまた呟いた。
下町の小娘に装わせても、すぐ剥がれる、凜とした真物の気品をたたえた眼差しを有する少女。市井に身を潜めている、そんな第一印象を今も拭いきれない。女は貴人の落とし種やも知れぬ--その方が自然だ、などと想像える。
「--お前、生国はいずれ?」
反物を持参の布に包み、帰り支度に入っていたあけのは不意の、また思いがけない質問に驚いたように目を瞠った。
「いやね、知り合ってじき三年というのに、親御さんのこととか、そういう話はしたこともなかったと思ってね」
女は言い訳のように付け足した。
「いえないことなら、別にいいんだけど。」
「何ですか、それは。」
女宿主の、まるで自分が大仰な闇の過去を背負っていると他人に聞こえそうな言詞にあけのは苦笑する。
「陸奥です。陸奥の平泉。三つまでしかいなかったから、ほとんど憶えていませんが。」
思わぬ地名に女は眉を跳ね上げた。
「陸奥?」
京人の女からいえば東国でさえ地の果てのような感覚であり、その更に奥の陸奥など〃みち〃の〃おく〃--道のないところ--で、そら恐ろしくすらある。陸奥平泉といえば、現在は奥州藤原氏が源頼朝に滅せられ鎌倉の支配下に下ったとはいえ、それまで政治的にも半ば独立の国として、独自の文化を築き栄華を誇っていた、ので道がないわけがないのだが。市井の無学な女の感覚はこんなものだ。野蛮なる蝦夷の住処と、可憐な風情の少女が結びつかない女は、納得を求めて言を継いだ。
「父者と母者は陸奥の出身ではないんであろう?」
「ええ、そうですね。父は京生まれで、母は武蔵の・・・・。」
「やはりねぇ。」
陸奥のような、地の果ての果てに、こんな麗しいものがポンと生れるものか。偏見が〃立証〃出来て、女は大きく頷いた。
思い出せる朧げな風景は、それでも柔らかな色彩と暖かいぬくもりをあけのの心に忍び入らせる。
生を受けた地。父母の眠る土地、そして・・・・黎と、出会った地。
‐---わたしを殺した地・・・。
あけのは白拍子宿を後にして、家路を辿る。 空気が蜜柑色に染まっている。
東よりひたひたと押し寄せる紫の波。ぼやけていく影の輪郭。
あけのは道端の木の下に佇む一組の男女に気づいて、歩を止めた。
誰そ彼は(誰だろう彼は)が語源という黄昏の刻、人の見分けにくい刻だが、よく見知ったものなら、顔が見えなくとも判別る。
「麻生さん。」
人の恋路を邪魔する奴は・・・・というが、あけのは男を呼んだ。そういう気分だった。女は知らない。香がきつく匂う。浮かれ女という感じでもないが、素人娘では絶対ない。
「あけの・・・・」
はっきりと動揺の窺える、後ろめたい声だ。
「言いつけますよ?」
あけのは男を睨みつけた。
こういう場合、当の男より女の方が察しと行動が早い。
「どなたにかしら?」
とろりと厚みのある声音。麻生より年上かも知れない。・・・・後家? 人妻ということもあり得る。
思いきり恨みがましげに、なじるように言う。
「義兄が可哀想です!」
「--あに?」
女は一瞬ぽかんとし、しかし一呼吸で察すると、男の臑を蹴飛ばして、気色のよくなさそうな一瞥を残して足早に立ち去っていく。
「・・・・あけのぉっ。」
麻生が唸った。
「あのなあっ。」
「私、黎には幸せでいて欲しい。麻生さんが黎に対して不実なことは厭です。黎を適当なつまみぐいにするなら許しませんから。だから、黎の恋路を邪魔しないように皆に言っておきます。」
ざっと麻生は全身から血の気を引かせた。
麻生の親交のある女をあけのが把握している筈はない。つまり、皆というのはまわり一般のことだ。
そんな噂、冗談ではない!
淡々として口調に凄みがある(と思える)。目は据わっている(ように見える)。女の執念岩をも通すと俗に言われる・・・・これは、
「あのな、あけの。昨夜のアレはだな、あいつの冗談だってばな・・・・。冗談を仕掛けたのは俺だから、俺も悪いが。謝る、この通りっ。」
必死な形相で言葉を重ねる麻生を、彼女は見詰めた。
「麻生さん・・・・、」
「ん?」
「冗談って、本当ですか?」
「・・・・しっかり、本気に見えた訳か?」
頷かれて、麻生は額を押さえて唸った。
「やめてくれ。恐ろしい。」
心底、うんざりと麻生は言い返す。
「俺は女の子がいいの。手、出すなら、黎なんぞより、あけのちゃんがいいってこと。」
「私は駄目ですっ。」
ぴょんと後ろに飛び下がった少女に悪戯心が誘われる。
「・・・・黎のものになりたいから?」
はっきり指摘されて、少女は真っ赤になった。くすくす、麻生は笑う。まったく、どちらも可愛いものだ。
ぽそぽそとあけのが応える。
「・・・・昨日、胸がいがいがして眠れなかったんです。十一、二歳でお荷物を抱えたせいで、黎は随分犠牲になってきたと思うの。だから、まだ独り身だし。黎にいい人ができたら、絶対祝福しようと決めてたのに。・・・・悔しかったの、厭だったの! 相手が男の人だからとかそういうことじゃなくて、黎が自分他の人のものになってしまうのが、・・・私、」
乾いていた声に、激情が訪れ、ゆっくり濡れていく。
束ねていない髪が流れて、うつむいたあけのの顔を隠す。
降りてくる紫闇の帳。一吹きの風が髪が舞い上げ、きつく見開いた瞳と濡れた頬を一瞬麻生の目に顕した。
黎の言い分も分かる。
惚れた女とひとつ屋根の下で、被保護者と保護者の関係を続けることが苦行なのも、よく分かる。だがこの子が何もかも失って、黎を、黎だけを己が世界のただ一つの支柱に生きて来た子だということを、失念していた。
迷い子の瞳をしている。
「・・・・本末転倒だ。」
少女には聞こえないよう、麻生は口の中に呟いた。
恋は盲目、というが、これは少し一般的な意味とは異なるが、当てはまろう。
「阿呆が・・・・抜けてる。」
--無明荒野に、放り出したかった訳ではないんだろうが。
4
川の水に浸した手拭をきつく絞り、麻生は土手の中腹に腰を下ろしているあけのにそれを差し出した。
「目のとこ、冷やせ。腫れてる。」
あけのは差し出されるままに受け取り、言われるままに目元へ手拭を運ぶ。
臥待月が出てやや立つ。黄昏の刻限から、つい先程までの時を過ごしたという感覚がない。気がついたら、月夜になっていた。
水面に写った自分の顔は、ささやかな月明かりにも、無残なほど涙の彩りを受けていた。
「腫れが引いたら、送っていくから。」
泣きつかれたのか、どこか惚けた風の少女に男は話しかける。
「すみません、何だか長々と。ご迷惑だったでしょう?・・・・もう正気ですから、独りでも帰れます。」
「お知り合いになってから、十数年の間柄で今更遠慮はいりませんって。じき亥の刻になるんだぜ。妙齢の娘を一人で歩かせられるか」
「でも、」
「いい女しか連れないオレが連れ歩きたいって言ってるんだ? 誇らしく思ってくれていいぞ?」
と、片目を瞑る麻生に、あけのはくすくすと唇から笑いを零した。
「さすがにお上手ですね。」
「・・・さすがって何だよ? 」
「さらりと、そんな台詞言えるって生まれつき? それとも日頃の鍛練の賜物なんでしょうか?」
「・・・鍛練・・・。」
女出入りが激しいのは隠すところではないが、その情事を武芸の語で、真面目な顔で表現した少女に、麻生は微苦笑した。しかし、恋は戦。それからすれば、戦歴ともいえないことはないから、遠く外れたものではない。
「まあ、何だな・・・オレはその点については虚言は吐かんよ。美意識も高いし--妥協しない美意識が虚言を許さん。」
自慢になるのか、あけのにはよく分からないことを、麻生は自慢げにきっぱり言った。
「・・・ありがとうございます。お願いします。」
「よろしい。」
芝居がかった物言いに笑いが開く。
溶け始めている桜の蕾。先咲いた花の花弁が、微風に乗って川面に舞っていくのを、麻生の目が追う。
肌に馴染む柔らかい風。絶え間無い、耳に心地よい水音。朧がかった月。女と男。息遣いは互いのみ。一身長離れて座すあけのは、上向いて目の上に手拭をおいている。華奢な頤から、しなやかな首の線、ほっそりとした、だがもう童女のものではありえない肢体・・・・これが、あけのでなかったら、とうに--どうして口説かずにいようか。雰囲気も実におあつらえだ。だが--相手があけのである、という基本線で、しょうもない絵空事のと、笑い散ってしまう。
遠い日に置いてきた顔も覚えていない妹がいる。大きくなった、綺麗になった、と目を細めて、我ながら微笑ましい嬉しさで評する自分は、置いてきた年頃のときに自分の前に現れたあけのに、その妹への想いを引き継いでしまった、のかも知れない。
親子のように兄妹のように、家族を営んできた黎が、結局、親にも兄にもなれなかったのに比して、たまに顔を合わせる程度の自分が兄の心境とは皮肉というべきか。
思いだしすように、時折花弁が風に翻り翻り闇の中へと流れいく。
遠く遠く散っていく闇に白い花のかけらに、遠い記憶が誘われていた--。
「父親になったんでって?」
夜更け過ぎの訪問者の第一声である。戸を開いた戸主は一瞬固まって、己より一つ年長の少年を見返し・・・バチリとその鼻先で戸を叩き閉めた。
「短気だなぁ。」
自らの手で戸を開き直して、訪問者の少年は戸の内に足を踏み入れた。戸主の冷ややかな視線も何処を吹く風に、土間に草履を脱ぎ捨て、板敷に上がる。
「・・・さて、お姫さまは・・・っと、よく寝てるなあ。」
室の隅で、童女が身をややくの字にして、心地良げな寝息をたてている。
「三つ、四つ・・・ってとこか? 幼いながら、くっきりとした目鼻立ちをしているな。将来有望かなっ。おっ、柔いな。」
「やめろ。目を覚ます。」
童女の頬をつつく手を、黎は後ろからとらえた。そのまま彼をその場から引き剥がし、室の反対側の壁際に至らせる。壁に背を預けた少年を見下ろし、
「何をしに来た? 麻生。」
変声期までもう少しの、少しかすれ気味の声はやや尖った響きである。
「言ったろ。父親になったお前の顔を拝みに来たんだ。ついでにお子の顔もな。」
麻生は黎を見上げ、にやにや笑いを顔いっぱいに広げた。
「お前って器用だよなあ。ひとりで子供作っちまうんだから。」
ぴくん、と黎の眉が跳ねた。切れ長の双眸に蒼い影が差す。少女めいた柔和な顔立ちの癖に、やたら剣呑物騒な奴だ、という認識を麻生は既にしっかり得ている。
「戯言しか言えない舌なら抜いてやろうか?」
「分かってます。土産だよな・・・・平泉の。」
言詞を遮る形で、さらりと言われた言詞に、黎は大きく目を瞠った。
「いったい、どういう成り行きになれば、こんな土産を持ち帰ることになるんだ?」
「お前・・・。」
剣呑な眼差しが麻生を射抜くばかりに、ぎりぎりと注がれる。
どうして知っている!?と。
今回の陸奥行きは彼にも--誰にも告げていった覚えはない。
更にその陸奥行きの理由を知ってさえいるような・・・ゆえに不思議そうな口調なのか!? 昨年、互いの仕事が交差したことで知り合い、年齢が近いこととねぐらが京洛にあるということで、麻生が時々押しかけてきて縁が続いている。他人と深く関わることを可能な限り排除してきた黎にとって、とりあえず現在形で唯一知己と呼べる相手ではある。こういう仕事柄にしては陰のない--否、ふっきった勁さやまた裏表のない気性、そして背中を預けて戦った記憶は、現在をつきあっていくのはやぶさかではない人物と判断していた。
だが身の上を語ったことはない。誰にも語ったことはない。復讐するべき時以外、その身上を明かす気はなかった。それを軽く口の端に乗せられ、警戒心にぎらぎらした瞳に麻生は困ったように天井を仰ぐ。
「悪かった。」
「何故、謝る?」
「おれが悪いから。」
返答になっていないような返答であるが、これはつまり次のような意味に立脚する。系統でない一匹狼的な術師は、この生き方に追い込まれる某かの傷の過去を背負っていることが多い。知っても、それで迷惑を被るならともかく、問わぬのが礼儀というものだ。
しばらく沈黙した後、溜息をついて---確かめることにした。
「・・・尋ねるが。その、俺のことはまさか同業の内では公然の秘密と化していたのか? 俺は語ったことは勿論、匂わせるようなことすら言ったことはない・・・のだが。」
「お前のアレ、かなり特殊だぜ? あの剣な。一目すれば、分かる奴には瞭然、記憶にも新しい。年の頃も合うとなればな。でも、まあ、分かる奴は礼儀も心得ているから。」
表に漏洩していく心配はない。
「・・・・自分を誉めるなよ。」
黎は表情を緩めた。前髪が溜め息で吹き上がる。
「あの娘、どうするんだ?」
麻生が横目に、顎をしゃくった。
「幼すぎる。手がかかるぞ。」
「経験があるのか?」
子育ての。
「一般論だっ。」
「そうか・・・お前なら、もうひとりふたりいてもちっとも俺は驚かないが。」
「阿呆、なんでそんなヘマを・・・・違うっ。」
麻生は黎を睨んで唸った。
「話をずらすな。真面目に考えてやってるんだぞ。この仕事、結構ガキの外見って、損だろ。能力は負けないどころか勝っていても、重厚な年寄の外見に負けて、仕事が得られなかったりする。まだまだ厳しい暮らしのガキの身で、人一人養うのはきついんじゃないのか? それに京洛は年寄と系統の連中の縄張り意識が煩いから、地方での仕事が主だろ、お前も。一カ月、二カ月、ざらに屋を空ける。その間、どうする? 一人にはしておけないだろう? 連れ歩く気か? 旅空に耐えるには脆い身体だ。」
長口舌の親身な顔に、くすりと黎が笑いを零した。
「あんたには関わりのないことだろうに。
その言いように、麻生はむっと眉を寄せたが、見返した黎の顔に厭味はない。
「まったく・・・・かなわない。」
吐息に混ぜて、独白のように言った。とどめ、だった。知己から友人に、この言詞で、麻生は黎の内における位置を昇格させた。黎の人間不信の壁を、見事によじ登り越えた。
「・・・・ほとんど勢いで、俺がもらうって言ってしまったんだが、」
眠る幼女へと向けられた眼差しは酷く柔らかい。もともと子供を見るときの目だけは和むが、これほど優しく大切に見つめる目もできるのだ、と麻生はまじまじとその横顔を見た。
「俺が、連れて来たんだ。」
「覚悟はついてるって訳か。」
「覚悟? そんなものをつけた覚えはないよ。ただ、自然にそうしたいと思っただけだ。」
--そうして、黎はあけのと暮らし始めた。でき得る限り京近辺に仕事を絞り、仕事で地方に下る時は信頼のおける近所の家に預けられるよう、わずらわしさ避けるように半年ごとに替わっていた住処を固定し、その人選の為に近所付き合いをもこなすようになった。
救われたのは、どちらだったのだろう。
手拭を手に取って、川べりへ降りていく少女の後ろ姿を目で追いながら、麻生は思う。
あけのは黎に命を育まれた。
黎は--裏切られた悲哀をぶつけられる人はなく、そう追い込んだ憎しみにすがることで、この世に生きてきた、一つ年下の少年。彼は、あけののために生きていこうとしたことで、この世に正の執着をすることを知った。自分がなければ、護れない命の重さは、彼に自分の生を顧みさせた。
麻生は他人の気配を感じて、視線を横に流した。河原の石のなかを、覚束無い足取りで歩いてくる者がいる。
河原者の老婆と見取って、麻生は張りつめさせた気を解いた。
老婆は、あけのの傍らで足を止め、手にしている椀をさしだして、何事が訴えた。
足と腰が痛いゆえ曲げて水を汲むのが辛い、汲んで下さらぬか、との頼みだろうか。少女は快く椀を受け取った。
椀を持った手を手首まで水に浸したあけのは、瞬間、老婆の口からこぼれた詞に、はっと目を上げようとした。しかし水中から手首を、ぐいと掴む指の感触に、意識はそちらに向かう。同時に老婆の手に肩をおされ、前につんのめるように体勢を崩した。
あけのは、自分が水に抱かれたのを感じた。
実際は踝までしかない筈の水深。だが、反射的に前方に突き出した左手が川底に触れることはなかった。
手首を掴んでいた指の感触が消失したが、下方に向けて引き込まれていくことは止まない。
自分の吐きだした泡の感触が頬をかすめた。
塩辛い、と口に含んだ水に覚える。
溺れている訳ではないと察して、何か、異能に巻き込まれようとしている、あけのは身を包むように立ち込める術の気配に理解した。
なす術も無く、御守りのようにひとつの名前を胸に呟き続けて、あけのは流されていく。
「あけの・・・・っ」
驚異的な瞬発力で麻生は川べりに寄ったが、既に川は浅い底を晒しているにすぎない。下流に視線を飛ばしてみたものの、流されたのではないことは明らかな目の前の事実だ。
「畜生っ。」
所在なく浮いていた朱塗りの椀を水面から取り上げ、獰猛に唸った。仮にも術師の目前で、やすやすと術を遂げられた。口惜しさ、誇りを傷つけられた怒りで目が眩みそうになる。
逃げようと、よたよた河原を行く老婆の足を、一言で縫い止めた麻生は、ひとつ深い息を吐くと、胸元から取り出した紙を空に投げ上げた。
鮮やかな墨で、梵字のかかれた三枚の紙は鵲に似た鳥の形に変化を遂げる。
式、もしくは式神と呼ばれ、変幻自在、形は一定しない。陰陽師や術師の使う彼らの離れた手足・目ともいうべきモノである。
頭上を飛び回る己が式に麻生は命じる。
「黎を捜せ。大至急、とっととだ!」
八つ当たり的に荒い言葉に、鳥の形だが、鳥目とは縁のない式神たちは、従い三方へ散っていった。
先程までは、清しく聞こえていた川音が、今は神経をささくれさす。麻生は、ぎりりと奥歯を鳴らした。