第6話 痛くない夜/Night without pain
十一月十一日 午後九時二十八分
会議終了後から夕方までの間、松永と相澤はそれまで受け持っていた任務の引き継ぎをしていた。
帰宅した二人は今、自宅で一緒に過ごしている。
二人は同じ官舎の同じ部屋で暮らしているが、部屋で顔を合わせる事は滅多にない。
相澤裕典はキッチンにいた。何か探し物をしている。松永はリビングで横になり、テレビを観ていた。
キッチンにいる相澤に、横になったまま顔を向けた松永が相澤の名前を呼んだ。
相澤は面倒くさそうに目を細めながら、なんですかと松永に問うと、松永は間の抜けた声を返した。
◇ ◇ ◇
「裕くーん!ごはんはー?」
「ごはんなんて無いですよ」
俺も相澤も、身支度を整えるだけにこの部屋へ戻って来る生活を何年もしている。
俺が最後にここで寝たのはいつだったか。確か、七月だ。エアコンを入れないまま泥のように眠ってしまい、熱中症になりかけていた所をこのゴリラに助けられた。
相澤は、水回りの掃除だけはきちんと行っている。その代わりに俺は、煎餅と酒を必ず買って帰るようにしていた。
「煎餅は?」
「食っちゃいましたよ」
「なんだよ、少しは残しとけよ」
頬を膨らませている相澤は、空腹で機嫌が悪くなっていた。
「しょうがねえな、金やるからメシ買ってきて」
「はい」
足取り軽く買い物へ出掛ける相澤の足音を聞きながら、優衣香の事を考える。
今日は、明朝八時まで自由だ。それなら優衣香の家に行きたいが、昨日の会議が終わった後に葉書を送っていたとしても、まだ優衣香の家に届いていない。
電話をすれば良いだけの話だが、俺は優衣香へ電話をするのが怖くて、出来ない。優衣香の部屋で過ごす時の優衣香しか知らない俺は、電話をしても、電話の向こうの優衣香が何をしているのか分からないから怖い。男がいるんじゃないかとか、そんな不安があって怖い。
――電話、してみようかな。
ベッドで抱きしめて、初めて知った優衣香の肌身の柔らかさと温もり。別れ際のあのキス。
もう、これまでの関係ではなくなったのだから、電話をしても良いのではないか。
でも怖い。
なかなか勇気が出ず、電話が出来ない。
何度もスマートフォンの画面を見るが、勇気が出ない。
覚悟を決めてスマートフォンの電話帳をタップした。
笹倉優衣香の文字を見つけ、受話器のマークをタップする。
呼出音が一回、二回、三回……。
「もしもし! 敬ちゃん!?」
四回目の呼出音が鳴った時、優衣香は電話に出た。
優衣香の焦った声が頭に響く。
「もしもし。優衣ちゃ――」
「もしもし! どうしたの? 何があったの?」
優衣香がここまで焦るのは何故なのか考えたら、俺がこの十三年で電話をしたのは一度きりだった。しかもそれは親父が殉職したことを告げる電話だった。
ああ、それじゃ優衣香は焦るに決まってる。
俺はそれがおかしくて笑ってしまった。
「ふふっ、優衣ちゃんごめんね、ふふっ」
「えっ! なに? なに!?」
「違うよ、何も起きてないよ。ただ、優衣ちゃんの声が聴きたくなっただけだよ。ごめんね」
電話の向こうの優衣香は、安堵する息遣いをしている。それは別れ際に耳元で聴いたあの吐息と同じに聴こえた。
聴き慣れない電話口の優衣香の声をもっと聴きたい。
「今日はね、久しぶりに家にいて、今、相澤が外出してるから、優衣ちゃんに電話しようと思ったんだよ」
そうなのねと言う優衣香の優しい声で、俺の心は温もりに包まれた。会いたい。声を聴いているけど、目の前にいないのは寂しい。
「優衣ちゃんに会いたい」
電話口の優衣香も、私も会いたいと言ってくれた。
次からは葉書ではなく、電話しても良いかと優衣香に言うと、それが普通じゃないかなと至極真っ当な事を言ってきた。
「ふふっ、そうだよね」
それから優衣香は、俺をいたわる言葉を続け、俺は相づちを打ちながら、優衣香の優しい声を聴いていた。
「ああそうだ、優衣ちゃん、今日俺ね、髭剃ったよ」
別れ際のあの激しいキスのせいで、優衣香の顔は、髭が当たった部分が赤くなっていた。多分、胸元の肌も赤くなっているのだろう。
「だからもう痛くないよ」
まだヒリヒリするよと優衣香は笑いながら話した。
そろそろ相澤が帰って来るだろう。優衣香の声を聴いていたいが仕方ない。でも、ほんの少しだけでも、優衣香と同じ時間を過ごせた事が嬉しい。
「あの……優衣ちゃん」
「優衣ちゃん、好きだよ……大好き」
電話を切る際に、優衣香から大好きの言葉をもらって、電話を終えた。
優衣香が初めて俺に好きと言ってくれた。それが嬉しくて嬉しくて、頬が緩んでいるのが分かる。そんな自分が恥ずかしい。でも良かった。勇気を出して電話して本当に良か――
「電話、笹倉さんですか」
男の声に驚いて振り向くと、ゴリラの相澤がそこにいた。
「……どこから聞いてた?」
手ぶらで佇むゴリラは、呆れた表情で目を細めて俺を見ている。
「電話切るちょっと前くらいじゃないですかね」
「…………」
「松永さんの甘えた声を初めて聞きました」
――このまま地球が滅亡すれば良いのに。
「……メシは?」
「これから買いに行きます」
「なんでだよ」
「外に出たら寒くて帰ってきたんです」
ゴリラでも十一月の夜に半袖短パンは寒かったのか。当たり前か。
「いいよ、食いに行こうぜ」
その言葉にゴリラは目線を外し、首を傾げた。そしてまた俺を見た。
「大好きな優衣ちゃんに会いたいなら行けばいいんじゃないですか。髭も剃ったから痛くないし」
――本当に、このまま地球が滅亡すればいいのに。




