第45話 最初の日/The First Day
一月二十一日 午前一時三分
気怠くて、目を閉じたらそのまま深い眠りに落ちてしまいそうになるのを何とか耐えて、俺の腕の中にいる優衣香にプロポーズをしようと思った。
でも、プロポーズはもっと、想い出に残るような事をしたいとも思う。
どうしようか。ずっと一緒にいたいと思ってるし、優衣香だって、こんな俺でも良いと言ってくれた。でも優衣香は――。
「ねえ、敬ちゃん」
優衣香は俺の鎖骨をなぞりながら、見上げて笑顔で言った。「私、敬ちゃんの子供のお母さんになりたい」と。
その言葉に驚いた俺は飛び起きてしまった。
「えっ……あの、優衣ちゃん、それって……」
「うーん、プロポーズ?」
優衣香は続けた。一人で生きていけるだけの術はあり、このまま一人で生きていくつもりだったが、俺が前回半年ぶりに会いに来た後からのこの二ヶ月の間に、「敬志の人生に責任を持ちたい」と思ったという。
「自分一人で生きていけるから、結婚しても良いと思った」
――優衣香は男に縋らなくても生きていける女。
子供の頃の武闘派の優衣香は、大人になってからは愛情深くて優しい女性になったと思っていた。元々体力があって体を動かす事が好きな女性なだけで、女性らしい可愛い人だと思っていた。
違った。優衣香は強い。
「ふふっ……嬉しい。でも優衣ちゃん……」
「なに?」
「俺も今、プロポーズしようと思ってたのに先に言われちゃった」
「えっ……」
優衣香を強く抱きしめて、改めて俺からプロポーズさせて欲しいと言った。腕の中の優衣香は笑っていた。
その時だった。
優衣香と永遠に一緒にいられると思ったのに、現実に引き戻された。
――俺は警察官で、“音楽隊で楽器を拭く係”だ。
ナイトテーブルに置いたスマートフォンが鳴った。仕事用とプライベート用の両方が同時に鳴っている。
仕事用は須藤からで、プライベート用は相澤だった。
俺は仕事用のスマートフォンを取った。
優衣香に背を向け、電話に出ると須藤の第一声は緊急事態を告げる言葉だった。
「お前は目薬使う?」
――捜査員が行方不明、と。
「はい」
――誰だ。誰がいなくなったんだ。
「あの洗剤ってあんまり落ちないよ」
――ついでに誰かが大怪我した、と。
「そうですね」
――誰よ、怪我したの。
「クレンザーとオリーブオイル買って来てよ」
――行方不明は野川里奈、本城昇太が大怪我、か。
「そこの脇の引き出しの二段目にありますよ」
――九十分で戻ります。
電話を終えた俺は優衣香に振り向いた。電話の須藤の声は聞こえていたのだろう。少しだけ首を傾げている。
「優衣ちゃん、ごめん帰る。送って欲しい」
「えっ、うん……」
おそらく、俺の目つきが変わったからだろう、優衣香は怯えた目をした。
優衣香に車で送ってもらう事は本来はしない。だが、俺は話さなければならない事がある。
服を着て慌ただしく支度する優衣香の姿に、俺は申し訳無いと思った。
◇
優衣香が車を出している間に、相澤へ連絡をした。
俺が電話に出なかったから相澤はメッセージを送ってきたが、そこには本城の容体が箇条書きされていた。もちろん暗号としての単語の羅列だった。
――敦志さんと同じ場所です、か。
顔に切創を負ったのか。
「もしもし」
「あ、お疲れ様です、あの、のど飴はいります?」
――葉梨が情報を得た、と。
「うん、ありがとう」
――何の情報よ。
「耳栓は持ってます。タオルケットはありますか?」
――裏で手を引いたのは山野花緒里だと言うのか。
「クレンザーは?」
「無いです。大きい絆創膏より包帯が良いですよ」
――追ってるが、本城昇太とは別件だと?
「そうか」
――本城昇太が目的じゃないのか。
ヘッドライトが近づく。優衣香が俺の横に車を寄せた。
「キャビネットの右側の上の棚にあるよ。じゃ、よろしく」
相澤に午前二時二十分までに戻る事を伝えて電話を切った。
◇
捜査員用のマンションまで送ってもらうわけにはいかない。優衣香にはマンションに一番近い警察署まで送ってもらう事にした。そこから走れば五分だ。
夜中だからあと四十分程で到着するが、優衣香は急いでいる雰囲気だった。
「優衣ちゃん、道交法遵守で」
「でも……」
「捕まると遅くなる」
「……うん」
優衣香にとっては初めての事だ。だが、本来はこんな事を優衣香にさせてはならない。
俺の恋人だから、こんな事をさせられている。
真夜中に男を送って行く為に車を出すなんて、そんな都合のいい女みたいな扱いは、『普通の人』からはされないだろう。
この仕事をしている限り、優衣香を幸せにする事は出来ないと思う。
優衣香は朝行って夜帰って来る『普通の人』と暮らすのが幸せに決まってる。
――何度目だ、これを考えるのは。
優衣香が誰かと結婚すれば、俺はこんなに悩まなくて済むのに。優衣香を諦める事が出来るのに。
――でも優衣香は俺と結婚すると言った。
警察官になりたかったけど、警察官になるんじゃなかった。
――今すぐ、所属を明らかに出来るおまわりさんに戻りたい。
あの日、優衣香のマンションを出てからも同じ事を考えた。そして、今も同じ事を考えている。
本当に優衣香は俺で良いのか。
でも、優衣香は俺の人生に責任を持ちたいと言った。
――俺は優衣香の人生に責任持てないのに。
◇
一般人の優衣香には、深夜の警察署は静まり返っていると思うだろう。
だが、俺には分かる。ここに来るまでの間にも、同業だから分かる変化があった。非常招集――。
――優衣ちゃんは何も知らずにいてね。
「ここでいいの?」
「うん、ありがとう」
デニムにダウンジャケットを着た優衣香は不安そうな顔をして助手席の俺を眺めていた。
多分、半年は戻って来れない。それ以上かも知れない。
俺は優衣香がそれに気づくような事を伝えたい。だが、本当はしてはいけない。
音楽隊で楽器を拭く係の俺は、何も言えない。でも――。
「優衣ちゃん、あのバーに行っても、俺に連絡しなくていいから。じゃあまた、葉書を送るね」
何かを察した優衣香は目を見開いて俺を見たが、俺は目を合わせず、車を降りた。
「敬ちゃん!」
ドアを閉じようとした瞬間、優衣香の声がした。屈んで優衣香を見ると、助手席のシートに手を付いて俺を見上げている優衣香は笑顔でこう言った。
「いってらっしゃい。待ってるからね」
俺は少しだけ口元を緩めて、頷いた。それからドアを閉じて背を向けて走り出した。
――帰る時の「またね」じゃなかった。
先の角を曲がれば優衣香の車は見えなくなる。
その前に振り向くと、優衣香は車の脇で笑顔で俺を見ていた。
――優衣ちゃんの笑顔が大好きです。
二十二年の時を経て、やっと優衣香に想いが伝わった。
捜査員用のマンションまではあと少し。
またしばらく優衣香と会えないけど、俺の心は弾んでいた。
―第一部・終 ―
あとがき
公開するといつも読んで下さるあなたのおかげで書き続ける事が出来ました。ありがとうございました。
この「ファーレンハイト」は、私が初めて書いたオリジナル作品でした。
書いている間は本当に楽しくて、複数の小説投稿サイトで公開して、そこで読んで下さる方がいて、それが嬉しくて。
そんな日々を過ごしていました。
今回、この「ファーレンハイト第一部」は最終話となりましたが、続きを書いているところです。
加藤奈緒と葉梨将由の出会う二年前からファーレンハイト本編が始まるまでの物語「ブランカ/Blanca」は連載中です。良かったらご覧ください。
「ファーレンハイト・番外編」はファーレンハイトの登場人物の短編集です。
それではまた、お会いしましょう。
またあなたにお会いしたいです。
2023年4月25日 風森愛
❏❏❏❏❏
第二部は別のシリーズとして公開しました。
https://ncode.syosetu.com/n4688ig/
2023年6月6日 風森愛




