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第42話 空いたグラス/Empty Glass

 一月十七日 午前二時四十分


「相澤さん」


 後ろからかけられた言葉に振り返った。

 マフラーで顔の半分を隠した野川里奈は、寒さのせいか頬が赤く染まっている。吐く息は白く夜空へ消えていった。


「寒い?」

「はい」

「あー、じゃ、こっちおいで」


 マンションまでもうあと十五分で着くけど、一時間は歩き続けているから野川は疲れたのかな。

 俺も加藤も慣れている事だけど、野川にとっては苦痛なんだろう。慣れないヒールにフレアースカートで寒そうだ。ショート丈のコートで、お洒落を優先させたから防寒対策になっていないし。


 野川と手を繋いだけど、意味は無い。どうしようか。肩を抱いても同じだろうし。

 ここは駅近くだけど人通りは全く無い。

 あと十五分だし、いいか。さすが寒そうにしていて可哀想だ。


 俺はコートを脱いで、野川のコートの上からウエスト部分に袖を結んだ。


「疲れたでしょ? おんぶするよ」

「ええっ!? でも……」

「いいから。背中に野川がいれば俺も寒くないし」

「ああ……」


 野川に背を向けてしゃがむと、野川が体を預けてきた。

 立ち上がり、歩き出す。


 ――軽いし、ちっちゃいな。


 野川は頭の置き場に悩んでいるようだった。


「あの、相澤さん」

「なに?」

「すみません、本当に。ご迷惑おかけして……」

「良いんだよ、疲れたんでしょ」

「はい……」


 野川は遠慮がちに俺のネックウォーマーへ顔を付けた。


「玲緒菜さんと加藤は普段からトレーニングしてるけど、野川までやる事はないからね。野川は辛かったら言えば良いんだよ」

「はい……」


 ◇ ◇ ◇


 午前二時四十五分


 バーの帰り道、食べ過ぎた俺はお腹が苦しかった。葉梨は足りなかったようで、望月から貰った煎餅を食べながら歩いている。


「葉梨って、柔道じゃないよね?」

「ええ、俺はグ――」


 進行方向先、百メートル先程にある交差点の角の暗がりから、若干上半身を前傾させた大きなリュックを背負った男が出てきた。葉梨も煎餅を頬張りながら見ていた。


「子泣き爺って、おんぶだっけ?」

「……うーん、抱っこ、かな」


 ぼんやりと浮かび上がるシルエットだけを見ていると妖怪にしか見えなかったが、街灯の灯りが微かにその男に届いた時、俺も葉梨も驚いた。


「おっと……またすっ転んだのか?」

「かも知れませんね」


 ◇ ◇ ◇


「相澤さん」

「なに?」


 さっきから、野川は俺に何かを言いたそうにしているが、言葉が続かない。


「どうしたの?」

「あの……」

「おんぶは嫌か、さすがに」

「ちっ……違います!」


 ここ数日、野川は俺の個人的な事を聞いてくるが肝心な事は言わない。

 野川の俺に対する気持ちは知ってる。

 まだ、俺に気持ちを伝えられるまでにはなっていないみたいだ。

 玲緒菜さんからはデートしておいでとも言われたけど、どうしてみんな、俺の気持ちを蔑ろにするのかな。


 ――奈緒ちゃん。


 奈緒ちゃんが俺を十六年も好きだったなんて思いもしなかった。

 勇気を出して俺に気持ちを伝えたのは自分の気持ちに区切を付けたかったからだと言った。

 奈緒ちゃんに言い寄ってるのは葉梨だと言う。

 奈緒ちゃんはもう葉梨が好きなんだろうな。

 だからって、最後にずっと好きだった俺に抱かれたいって、そんなのズルいよ。

 奈緒ちゃんが経験が無いなんて、奈緒ちゃんの初めての男が俺だなんて。

 痛くて顔を歪める奈緒ちゃんに止めようと言ったら、止めないでお願いって。

 俺の首に腕を回してしがみついて、裕くんが良いのって、痛みを我慢して俺の名前を呼んで。

 そんなに俺が良いなら、どうして最後だと言ったの。

 最後に願いが叶ったって奈緒ちゃんは言ってたけど、俺の気持ちはどうして無視するの。俺は奈緒ちゃんが――。


「相澤さん、あの……」

「なに?」

「私、相澤さんが好きです」


 ――このタイミングかよ。


「そっか。ありがとう。嬉しいよ」

「あの……」

「野川」

「はい!」


 ――始めたら、終わりがある。


「歳が離れ過ぎだよ。もう一度、よく考えて。それでも良いなら、また改めて言って欲しい」


 ◇ ◇ ◇


 同時刻


 捜査員用のマンションのリビングに松永玲緒菜は一人でいた。加藤奈緒は仮眠室で寝ているが、そろそろ起きる時間だ。

 松永玲緒菜は捜査員が上げた本部提出用の書類に目を通しているが、殆ど全ての書類に赤ペンで添削していた。

 添削が終わって天井を見上げて溜め息をついた時、仮眠室のドアが開き、洗面所のドアが開く音がした。

 その音を聞き、傍らのマグボトルのフタを開け、飲み物を少しだけ飲んだ。

 テーブルに広げた書類をまとめ、トレーに入れてから立ち上がり、キッチンへ向かった。


 グラスとミネラルウォーターを持って戻ると加藤奈緒がリビングのドアを開けた。


「おはよう」

「おはようございます」

「水、飲む?」

「はい、いただきます」


 二人とも着席し、松永玲緒菜はグラスにミネラルウォーターを注ぎ、加藤奈緒の前に置いた。


「奈緒ちゃん、裕くんと……」

「……はい。しました」

「そっか。奈緒ちゃんはもう、気持ちを切り替えたの?」

「はい。裕くんで、良かったと思ってます」

「そっか」


 加藤奈緒はグラスに注がれたミネラルウォーターを半分飲み、テーブルにグラスを置いた。

 松永玲緒菜はグラスを見つめる加藤奈緒の姿を口元に笑みを浮かべて見ていた。


「あの、玲緒菜さん」

「なにー?」

「松永さ……あ、あの敬志さんの件……」

「ああ、いい。聞かない」

「でも……」


 加藤奈緒は顔を上げて松永玲緒菜の顔を見たが、目を伏せてしまった。


「私は聞かない。あのさ、敬志はあんたに何もしなかったんでしょ?」

「はい」

「ならいい。それだけ分かれば私はいい」


 松永玲緒菜は加藤奈緒のグラスにミネラルウォーターを注いだ。


「じゃあさ、一つだけ聞かせてよ」

「はい」

「敬志が言ってた事……敬志はあんたに本気だったってやつ。あれ、本当?」

「……確かに言われました」

「で、あんたは絆されて、敬志に襲われた、と」

「うっ……」


 怯えた目をする加藤奈緒に、松永玲緒菜は口元に笑みを浮かべたまま見つめていた。


「あの敬志が挫けるわけがない」

「…………」

「でも、何もされなかったんでしょ?」

「はい」

「ホント、あの馬鹿は……ふふっ」


 ◇ ◇ ◇


 野川の足をコートで包み、おんぶする相澤の姿を見ていると、葉梨が話しかけて来た。


「加藤さんは、相澤さんのああいう優しさに惹かれたんですかね」


 加藤が相澤をなぜ好きになったのかを聞いた時、加藤は首を傾げながら、「多分、お姫様抱っこされたからです」と答えていた。

 恋に落ちる理由など、そんなもんだろうと俺は思った。俺だって優衣香の髪が風に揺れてたからだし。


「何が言いたいの?」

「あー……、やっぱり不安で」

「何でよ?」

「お二人は同期でずっと一緒だったわけですから」


 恋の始まりは不安が付き物だ。俺だって本当に優衣香が俺をずっと好きでいてくれるのか、不安でたまらない。


「なあ、相澤が優しいのは、加藤にだけじゃないんだよ。男女問わず、周囲の人間全員に優しい。それは知ってるだろう?」

「はい。俺にも優しい先輩です」

「加藤は、自分だけを見てくれるお前が良いって言ってたよ」

「…………そうですか」

「加藤だって、お前しか見てないよ」


 不安そうな顔をする葉梨を見ていると、俺も不安になって来る。


 ――始めたら、終わりがある。


「なあ、葉梨」

「はい!」

「もうさ、プロポーズしちゃおうよ」

「ええっ!?」

「俺も、する」

「ええっ!?」


 終らなければ良い。

 終わらない恋をすれば、良い。


「あー、でもまだ俺ら、ヤッてねえな、そういや」

「んふっ……そうです」

「じゃ、ヤッてからプロポーズしよう」

「…………」

「賢者タイムに言うと女は信用するよ」

「ちょっ!? 今まで何言ってきたんですかっ!?」

「……まあ、いろいろ、と、な?」


 さっきまで不安そうな顔をしていた葉梨は、『お前は何を言っているんだ』の顔をしている。

 そんな真面目な葉梨くんが加藤の恋人で本当に良かったと思う。ただ、葉梨から若干引かれた気がするけど、気のせいだろう。多分。

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