第40話 いい男と庇う男/Nice Guy and Covering Guy
一月十六日 午後六時二十六分
玲緒菜さんは人の三倍、仕事する。そこにポンコツ野川が武村と交代で入った。
頭数は一人増えただけだが、玲緒菜さんは三人分でポンコツ野川は〇・七人分だ。だから二人で三・七人分という事になる。
したがって、えっと、増えて、減った。頭数が増えて、みんなの仕事量は減った、という事だ。……なんだよ、それでいいだろうが。うるさいな、中学の数学で躓いた俺に聞く方が間違っている。それに優衣香が懇切丁寧に教えてくれなかったら俺は今頃どうなってたか考えたくもないんだ。
でも優衣ちゃん、ありがとうね。あの時は本当にありがとうね。
小学生の時はバット持って追いかけて来た優衣ちゃんは中学に入ったらなぜか木刀に持ち替えて、木刀を傍らに数学を教えてくれる優衣ちゃんが恐ろしくてぼくは勉強を頑張ったんだよ。
でも警察官になって分かったけど、警察官なのに『警察』って書けない奴もいて、数学が苦手でもぼくは警察官にはなれただろうからあの時そんなに頑張らなくても良かったみたいだったよ。でもありがとうね、優衣ちゃん大好――。
「敬――、ねえ、敬志」
「はいっ!」
「今、何を考えてたのかしら?」
「えー、オーストラリア産小麦の豊作でアメリカ産小麦の不作の懸念が相殺されましたから、国際市況の押し下げ――」
「そんな事、一ミクロンも考えてないでしょう?」
「ええ、よくお分かりで」
傍らに置いたピコピコハンマーを掴み、俺の頭にピコピコハンマーを振り下ろす玲緒菜さんと、それを怯えた顔で見る加藤と三人で事務処理をしていた俺は、現実逃避をしていた。話の方向性を考えると優衣香の妄想カタログはだめだと考えて、頭数と仕事量の計算をしようとして、計算が出来なかった。
加藤が、加藤があんな事を言うからだ。加藤のせいだ。
玲緒菜さんの前では絶対に嘘をつけない加藤は言ってしまったのだ。「松永さんの全裸を見た事はあります」と。
加藤と葉梨のウキウキ惚気話を聞き出そうとする玲緒菜さんに、正直に加藤は答えていた。
加藤の「葉梨はすごくいい体をしていました」と頬を赤らめて言う姿には驚いたが、「下半身もちゃんと鍛えていて」と続けた加藤に下ネタで返した俺にピコピコハンマーが振り下ろされ、それを見た加藤が「葉梨は松永さんよりも脂肪が付いてましたけど」と言った。それはどういう意味だと玲緒菜さんは問い詰め、正直に加藤は答えた。「松永さんの全裸を見た事はあります」と。
俺はその瞬間に現実逃避を始めた。
「風呂上がりに全裸で加藤の前に出たのは俺の責任です。謝罪はしました」
「謝罪は受けました」
「……いつの話かしら?」
――マズい、玲緒菜さんは加藤の嘘に気づいた。
俺をちらりと見た加藤は、「七年前です」と答えた。七年前に全裸を見せたが、実はもう一回、ある。五年前だ。
「七年前のその頃は、敬志は太ってましたわよね?」
「はい、そうです」
どうしても一時的に体型を変えないといけない仕事で、その為に十五キロの増量をしたが、加藤に全裸を見せてしまった時は減量をして元の体重より五キロ多かった時だった。おそらく、今の葉梨より脂肪は乗っていただろう。
「正直に言って下さる?」
加藤が正直に言ってしまうのはマズい。俺が悪者になればいい。それしかないだろう。玲緒菜さんは加藤が男関係で身を持ち崩さないように相澤を付けたのだし、俺を信用して七年前から俺も監視するように命令したのだから。だが俺が嘘をついても、玲緒菜さんは見破る。ならば、正直に言わなくては。
「五年前、加藤と関係を持ちました」
加藤の目を見ると、俺の意図を汲んだようだった。ハンドサインもそうだった。
玲緒菜さんを見ると、冷たい目をしている。
俺を殴るなら、殴って、この話は終わらせて欲しい。加藤の為だ。
実際はしていないが、それを証明する術が無い。加藤とホテルに行ったのは事実だから言うしかない。
玲緒菜さんが大切にしている加藤と関係を持ったと思料されるような事をしたのは確かだから。
「玲緒菜さん、仕方ないです。加藤は俺の好みのド真ん中ですから。それにその時、優衣香はプロポーズされた後でした。俺だって、別の人生を考えますよ」
優衣香の名を出した時、玲緒菜さんの目が動いた。俺は「加藤に優衣香の件は、まあ、話してあります」と言い、玲緒菜さんはどの程度まで話したのか察した。
「同業には手を出さないって決めてましたけど、加藤は別です。こんないい女ですよ? 俺は本気でした。本気で口説きました」
「…………」
「その一回だけです。加藤に離婚歴のある男は嫌だと言われて諦めました」
――騙せた。大丈夫だ。
玲緒菜さんは大きく息を吸って、吐いた。小さな声で「信じてたのに」と言う玲緒菜さんには申し訳無いが、真実は言えない。言わなくていい。
「二人共、殴っていい?」
「俺が加藤の分も受けます。俺だけにして下さい」
鼻血が出ない程度のグーパンなら二発でも良いと思った。思ったのだが、玲緒菜さんはやっぱり加藤も殴りたかったようで、ピコピコハンマーを両手で持つと、柄の部分で俺達の後頭部にフルスイングした。
そこに葉梨が戻って来た。リビングのドアを開けたら葉梨は『戻りました』と言いたかったのだろうが、リビングの異様な光景に「も」と言ったまま固まっていた。
「ああ、葉梨、おかえりなさい」
「……ただいま、戻りました……」
「私と敬志は出掛けるから、お二人でごゆっくり」
「えっ」
「ふふふ……敬志、仕度して」
「……はい」
ピコピコハンマーを両手で持って『ピッピッ』と音をさせている玲緒菜さんと、後頭部を両手で抑えて苦悶の表情をしている加藤と俺がいるリビングはさぞかし異様な雰囲気だったろう。
――葉梨くん、ごめんね。
◇
マンションを出て、隣のブロックと合わせた約十五分間の予定で、歩きながら玲緒菜さんと話している。
「ねえ、敬志。嘘をつくのは上手くなったけど、誰かを庇う時に顔に出るのは、まだまだだね」
「…………」
――やっぱり騙せなかったか。
「敬志が全力で口説いて、加藤は絆されて、ホテル行って、で、何回戦した?」
「そっ……そんな事……」
「良いじゃない、教えてよ」
「あー、もう。一回です。一回」
「何でよ?」
「俺が疲れちゃったんで」
「何で疲れたの?」
――玲緒菜さんは探ってる。なんでだよ。
「酒が入ってたせいですよ」
「ふーん、加藤の体って、どうだった? 敬志好みの女なのに、一回だけなんて勿体ない」
「しょうがないでしょう」
「何で? 言ってよ」
――複数回しなかった理由に何かあるのか?
「加藤も疲れてたみたいで、寝ちゃいま――」
「敬志、加藤が処女だって、知らないでしょ?」
「えっ……」
声を出して笑う玲緒菜さんに、俺は呆然となった。
加藤が処女だなんて、そんな事は無いだろう。付き合った男はいたと聞いているし、デート現場だって一度だけ見た事がある。
「えっ、本当なんですか?」
「そうだよ。あの子が私に嘘をつけると思ってるの?」
「…………」
玲緒菜さんは、俺が加藤の初めての男だったと分かりショックだったが、安堵した。だが、なんとなく違和感があって、俺を問い詰めたと言った。
「多分だけど、敬志が加藤を守ったんでしょ? うーん、例えば、道を外さないようにする為とか」
「あー、……まあ、そうですね」
「良かった。敬志、ありがとうね。本当にありがとう」
警察官全員が品行方正なわけがない。ただでさえ少ない女性警察官で、美人な加藤が狙われないわけがない。相澤の目が届かない時、加藤は危機的状況に陥った事があった。
十九歳で兄を見初め、交際し、結婚をして二十三歳で子供を産んだ玲緒菜さんには無縁な話だったが、だからこそ見えてくるものがあったのだろう。
「葉梨に恋する加藤がさ、可愛いくて可愛いくて」
微笑む玲緒菜さんは、優しい女の人だった。
――そっか、初めては裕くんに捧げたのか。
長い片思いは終わったのに、晴れやかな顔をしていたのはそのせいだったのか。
加藤にとっては幸せな結末だったのか。
「葉梨は、加藤の事を真剣に考えていますよ」
「でしょうね。葉梨はいい男だよ」
「……そうですね」
また歩き出した玲緒菜さんは、「葉梨は敦志と似てるんだよ」と言った。兄に顔も性格も似ていないと思い、首を傾げると、玲緒菜さんは「敦志は私以外の女には男を見せないんだよ」と言った。
――ああ、加藤は玲緒菜さんに教育されていたのか。
「ごちそうさまです。ふふっ」
「ふふっ……」
「敬志もそうでしょ」
「ああ……まあ」
「優衣香ちゃんと結婚しなよ」
「……はい。考えてます」
俺の少し前を歩く玲緒菜さんは足取りが軽い。
反社とインテリヤクザの間くらいの顔をした兄は、結婚記念日と玲緒菜さんの誕生日に必ず十二本の深紅の薔薇と手紙を贈っている。
七年前、俺も加藤を監視するように命令した時、玲緒菜さんはこう言った。
「加藤もね、好きな男と結婚して、幸せになって欲しいんだよ」
一つ年下の男の子に一目惚れした十九歳の女の子が、そこにいた。




