第39話 空っぽと満タン/Empty and Full
一月十四日 午後二時三分
松永敬志は弟の松永理志が勤める美容院にいた。
敬志の伸びた髪を指先に取って眺める理志を、鏡越しに敬志は見ている。
「優衣香はこの前来たんでしょ?」
「ああ、うん、カットとトリートメントでね」
「ここ来た後に風邪ひいて寝込んでた」
「あらら」
理志は頭の下半分の短い髪を見てから、鏡越しに敬志の顔を見て、「優衣ねえの髪型はどうだった?」と口元を緩めて言った。
「どうって?」
「可愛いとか、すっごい可愛いとか、なんか感想あるでしょ? ちゃんと言ったの?」
「はあ……?」
笹倉優衣香を思い浮かべているのか、恥ずかしそうに目線を彷徨わせる敬志に理志は噴き出した。
「兄ちゃんは優衣ねえのあの髪型が好きでしょ? それを優衣ねえに言ったら、ならその髪型にしようって言ったんだよ。ふふっ」
「そうなんだ……」
「優衣ねえが好きな兄ちゃんの髪型って、知ってる? 聞いた事ある?」
「えっ、無いよ。知らない」
理志は鏡の前にあるカウンターに置かれたタブレットを手に取り、表示された画像を敬志に見せた。
「優衣ねえは短い髪が好きみたいでね、こういう『理容師が手掛ける昭和のいい男』みたいな髪型が良いって言ってたよ」
タブレットに表示された髪型のタイトルは『スパイキーショート』とあったが、トップに多少のボリュームのあるベリーショートだった。
それをじっくり眺める敬志に理志は、「仕事で問題ないなら、それにする?」と言うと、敬志は「美容師さん! お願いします!」と元気に答えた。
歯を見せて笑う敬志を見て、理志も笑いながらこう言った。
「俺が美容師になるまで、兄ちゃんはずっとこういう髪型だったよね」
◇ ◇ ◇
午後三時二十六分
おばさんの命日の日の夜に行った時の帰りがけ、優衣香に『おかっぱ頭』と言われて、なんか少し嫌で弟に任せたら、おかっぱ頭のままで毛量が減っただけだった。
後ろで結っていれば『マンバン』だからいつもそうしてたけど、そろそろ髪型も変えようと思っていた矢先のこの前、風呂上がりの優衣香を抱きかかえてベッドに寝かせた時、優衣香が俺の頬に手を添えて、もう片方の手を後頭部にやって力を込めたから、てっきりキスしたいのかと思って顔を近づけたら、また優衣香に『おかっぱ頭』と言われた。
優衣香が短い髪が好きだとは知らなかった。
理志は「十代の兄ちゃんの記憶が強く残ってるからじゃないの」と言っていた。理志が美容師になるまでは理容室で髪を切ってたし、服装も気を遣わなかった。
理志が髪を切ってくれるようになって、服のコーディネートやアクセサリーも選んでくれて、何となくお洒落な雰囲気になって、優衣香に男がいる時に合コンへ行くとすごくモテた。外見って大事なんだな、とは思ったが、肝心な優衣香の反応はイマイチだった。
チャラい雰囲気の時に会うと後退りするし、スリーピースでオールバックだと顔が引き攣ってた。
優衣香の反応が良かったのは、確かに短髪の時だった。ジャージとか、濃い目のベージュのストレートパンツに黒いTシャツ、ウインドブレーカー姿で、中にベストを着ていれば『ザ・捜査員』の格好で会いに行ったら優衣香が嬉しそうに笑っていた。
普通の格好だから、怖くないから笑っているのだと思っていたけど、短髪だから嬉しかったのか。
優衣香は俺が好むからと茶髪でカールした髪型にしてくれたんだから、俺も優衣香が好きな短髪にしようと思った。
優衣香が好きな髪型を聞き出してくれた理志には感謝しなきゃ。前回は意図が伝わらず毛量が半分になっただけで、「違う、そうじゃない」ってお兄ちゃん言いたかったけど、今回は感謝するよ。理くんありがとう、お兄ちゃんとっても嬉しいよ。
それにね、この前お風呂でね、髪の毛を後ろで纏めてた優衣ちゃんのね、髪の毛がうねうねクリンクリンしててね、お兄ちゃん、すっごい可愛いって思ったんだよ。優衣ちゃんの髪の毛にパーマかけてくれたのは理くんだもんね、理くん本当にありがとう。
十年くらい前かな、優衣ちゃんがずっとロングヘアなのは俺の為だって思い込んでルンルン気分だった時、優衣ちゃんが「理志くんの為だよ。練習台になろうと思って」って言った時には理くんの頭を引っ叩いてやろうと思ったけど、今では立派な美容師さんになって、お兄ちゃんとっても嬉しいよ。
理くんが高校生の時に美容師になりたいって言い出した時、お父さんもお母さんも反対したけど、玲緒菜さんは賛成したよね。玲緒菜さんが理くんは美容師にさせないとだめだって言ってくれたよね。お父さんもお母さんも玲緒菜さんに説得されて、理くんは美容師学校に進学出来たもんね。玲緒菜さんには感謝しないとね。
玲緒菜さんが理志を美容師にさせたかった理由をね、「アンタも敬志もダサいから」って俺とお兄ちゃんの前で言った時の事はね、今でもね、お兄ちゃんは思い出し怒り出来るんだけど、んー、まあ、確かにね、どこへ行くにもジャージでやり過ごそうとする夫と義弟をどうにかしたかった気持ちもわかる。うん、そうだね、やっぱり玲緒菜さんには感謝しなきゃね。俺もお兄ちゃんも理くんのおかげで何となくいい感じのお洒落な雰囲気な男だしね。でもな、やっぱり玲緒菜さんに「ダサい」って言われた事は腹立――。
「――さん、松永さん!」
「んっ? あれ? 奈緒ちゃん……」
「不審な男がいるなと思って見てたら松永さんでした」
「あらやだ」
美容院から捜査員用のマンションへ戻る途中、優衣香とお風呂に入った時の事を思い出した頃に立ち止まった気がする。
加藤は髪を下ろしていて、ダウンコートにストールを巻いて、デニムを履いている。靴はスニーカーで、メイクは最低限だが、血色の良い健康な顔色をしている。
「松永さんって、表情豊かなんですね」
「ニヤニヤしてた?」
「はい。ニヤニヤしたと思ったら眉間にシワ寄せたり」
「あらやだ」
マッチョしかいないジムに走ってTシャツを買いに行った加藤は、無事に買えて相澤に新しいTシャツを渡していたが、五千円ちょいのTシャツなのに玲緒菜さんが外出している間に加藤は相澤へ一万円を要求していた。
襟ぐりがビロンビロンのTシャツで問題ない相澤と、それを一軍として着られては困る加藤が取っ組み合いの喧嘩を始めるのかと思ったが、トレーニング不足だったのか、加藤の足が攣って喧嘩にならずに済んだ。
「今戻って来たの?」
「ええ、そうです」
足が攣って悶えていた時に玲緒菜さんが戻って来たが、かわいそう子を見るような目つきで加藤を見て、休みを取れと言った。
加藤は昨日の昼過ぎから今までの約二十四時間を与えられて、元気そうだ。
「ゆっくり出来た?」
「おかげさまで。ありがとうございました」
「葉梨と時間は被ってたけど……」
「ふふっ……」
ちょっと変化した相澤と、何も変わらない加藤。そしていろいろと勘づいてる葉梨の三角関係が始まっている。
俺の立ち位置は、加藤と葉梨をくっつける側だ。
「葉梨と会ったの?」
「ふふっ、葉梨は本城と合コンでしたよ」
「あっ……」
そうだった。相澤が加藤がいる前で葉梨に合コンの話をしたんだった。そして、七回目の土下座もしなくてはならない事も思い出した。
「あー、奈緒ちゃん、あのさ」
「何でしょうか」
「葉梨が合コンに行くハメになったのは俺のせいなんだよ」
「それで?」
「えっと……お詫びしなければと……」
加藤の顔を見ると、笑っていた。
怒っていないのだろうか。
「相澤は私と葉梨の事を知ってます。だから私の前で合コンの話をしたんですよ」
「えっ……」
「相澤って、そういう事するんだと、びっくりしました」
加藤の話では、相澤は誰かに二人の関係を聞いたようだと言う。おそらく須藤だろう。雪の日に何があったのかは言わないが、相澤がヤキモチを焼くような関係になったのは確かだ。
だとしたら、加藤はどうするのだろうか。長い片思いが叶ったとも言える。では葉梨に夢中な恋する奈緒ちゃんはどうするのか。
「葉梨は、合コンでお持ち帰りをしていない証明をするために私の家に来ました」
葉梨なら誠意を見せる為にそれくらいの事はするだろうと思ったが、お持ち帰りしていなくとも連絡先の交換はするだろうし、後で連絡が来る事だって有り得る。そもそも合コンへ行った事自体が裏切りに当たるだろうに。だが加藤は笑顔だ。
「松永さん、秘密は守って下さいますか?」
「……はい。もちろんです」
――どうした。こんな事は初めてだ。
「昨夜、葉梨を泊めたんです。でも客用布団は無いから、私のベッドで一緒に寝たんですけど、葉梨は何もしなかったんですよ」
「えっ……」
「私が背を向けて寝たから、葉梨は何もせずに寝ました」
――俺なら三回戦するのに。
加藤が何を言いたいのか目を探るが、良く分からない。
「えっと……」
「ふふっ。信じられないでしょう?」
「はい……」
「相澤も松永さんも、そうではないですからね」
「あー……奈緒ちゃん、その件は本当に申し訳ないと思――」
「違います松永さん、相澤、あ、い、ざ、わ」
「ええっ!?」
加藤は無理矢理ではなく、合意の元だったと言った。
「松永さん、私の十六年の片思いは終わりました。そのご報告です。今までありがとうございました」
叶わぬ恋が終わったのに晴れやかな顔をしている。
そうだろう。葉梨がいい男だったから、自分の選択が正しいと分かったのだ。
「そっか」
「……お願いがあります」
「なに?」
「相澤が何をしでかすか分かりませんから、よろしくお願いします」
裕くんは優しいから加藤の気持ちに応えようとしたけど、いつの間にか加藤は葉梨に恋する奈緒ちゃんになってて、葉梨を攻撃し始めたのか。
――面倒くさいな。
「野川がいる。ポンコツ野川はまだ、相澤が好きだ」
「ああ、そうでした」
「奈緒ちゃん、それでいこう」
「ふふっ……どうなりますかね」
笑顔の加藤の口元には、エクボがあった。
――お幸せに。
俺は後で、葉梨にメシを奢ってやろうと思った。おあずけ食らってる仲間だから。




