第36話 姐さん、襲来(前編)/Raided
一月十二日 午後一時二十六分
そろそろ、姐さんが来る頃だろうか。
俺はウインドブレーカーを着て、マンションの外廊下まで出て姐さんを迎えようと玄関ドアを開けると、廊下の向こうから姐さんが歩いて来るのが見えた。
「お疲れさま。久しぶりだね、出迎えありがとう」
姐さんはリュックを背負い、トランクを引いて大きな布製のバッグを肩に掛けている。「お疲れさまです。寒かったでしょう。さ、中へどうぞ」と言って中へ入ってもらうと、声がした。
「お疲れさまです!」
加藤奈緒、相澤裕典、葉梨将由、本城昇太、武村雅人の捜査員全員が、廊下で松永玲緒菜を出迎えている。
スリッパに履き替えて靴を揃えた姐さんは俺達を見てこう言った。
「通れなくない? バカなの?」
幅九十センチ、長さ二メートル七十センチの廊下に五人がいる。狭い廊下にみっちみちで。
「おっしゃる通りです、玲緒菜さん」
――姐さん、みんな緊張し過ぎて正常な判断が出来ないんですよ。
リビングへ行く為に皆が振り向き、俺はトランクを持って玲緒菜さんの前を歩き出した所で、玲緒菜さんが布製のバッグから何かを取り出した。
それは『ピッ』という呑気な音がして、同時に俺の肩に衝撃を感じた。痛くはないが、なぜそんな物を玲緒菜さんが持っているのかを考えながら振り向くと、ピコピコハンマーを手に持って上品な笑みを浮かべる玲緒菜さんはこう言った。
「ほら、今、いろいろ煩いじゃない、パワハラとかね。だからピコピコハンマーで叩けば良いかと思って」
――姐さんは、『叩かない』という選択をしないんですね。
「ええ、そうですね。……さ、リビングへどうぞ」
振り向くと、ピコピコハンマーに怯える五人の警察官がいた。
――警察官も人の子だもんね。怖い物くらい、あるよね。
◇
リビングのドアの正面には大きなテーブルがある。これは長机を三つ合わせて大きなテーブルのようにしていた。
左手のキッチンに接するダイニング部分には座卓と座布団がある。テーブルに書類がある状態の場合は食事は座卓で食べるようにしているが、そこはすごく、昭和な雰囲気の趣のある一角となっている。みかんが乗っている鎌倉彫の菓子盆は俺が持って来た。
「座卓? なんであるの?」
「ハハッ、書類に味噌汁ぶちまけた奴がいましてね、それで食事は座卓で取るようにしているんですよ」
「あら、どなたがこぼしたの?」
――声音が変わった。ぼくこわい。
玲緒菜さんの目つきは変わらずだが、言葉遣いの上品メーターが上がった。そのメーターは数段階ある。
捜査員からの『松永め、余計な事を』と思っているだろうと思料される視線が突き刺さる。
普通ならそうだ。この場面でならミスを告げ口したと、松永は余計な事を言った、バカなのかと誰もが思うだろうが、今回に関しては、それは違う。
「相澤です」
そう言うと、狂犬の親玉の玲緒菜さんは途端に『優しい女の人』になり、声音も変わった。
「そっかぁー、裕典くんがこぼしちゃったんだ、仕方ないな、もうっ! ちゃんとみんなにごめんなさいしたの?」
「はい! しました!」
――姐さん、葉梨と本城がドン引きしてますよ。
葉梨と本城は、玲緒菜さんが狂犬加藤の産みの親だと知っているが、相澤を溺愛する姿は初めて見る。だがそれよりも、ただの『優しい女の人』を加藤が受け継いでいない事に驚いたようだ。二人は加藤を見ていた。
――奈緒ちゃんとばっちり。
椅子に座った玲緒菜さんは左に相澤を侍らせた。右には武村雅人が座ろうとしている。
――武村はチャレンジャー! すごいよ雅人さん!
玲緒菜さんの武村を見る目は優しい。まだ武村の素行は知らないのだろうか。俺が武村にやった事の原因は玲緒菜さんに言っていないが、知らないはずが無い。だが、優しい目をしているから、玲緒菜さんには問題ないのだろう。
全員が席に着いた時、武村が玲緒菜さんにコーヒーを淹れると伝え、「ありがとう」と言うと、加藤も席を立った。その姿を見て、テーブルに置いたピコピコハンマーを手に取った玲緒菜さんは本城の頭を叩いた。
「痛っ! 俺っ!?」
「そうよ?」
「でも玲緒菜さん、あの……私がやらないと」
「どうして?」
「えっと……女だから……」
その言葉に眉根を寄せた玲緒菜さんは加藤にキレた。さすが狂犬の親玉だ。思わず顔を伏せた。
玲緒菜さんの目つきが変わり、優しい声音で言葉遣いが上品になると、狂犬メーターが振り切れる寸前のサインだ。
――おかあさん、こわいよ、ぼく。
「ちょっとお待ちになって。ねえ、一番下の武村さんがお茶の準備をなさるのよ? その手伝いをなさるなら、あなたではなくて、本城さんがやる事ではなくて? 違うかしら? ……ねえ、あなた。後輩の立場もあるのよ? おわかり?」
「あっ……はい、そうです、申し訳ございませんでした」
「ふふふ。……ああ、それと本城さん、あなたもよ? 加藤さんがやるようだから自分は関係ないと思ったのかしら? 私はね、あなたがやるべき事だと、思いますのよ?」
「ヒィッ! そうです、俺です! 申し訳ございませんでした!」
本城はまたピコピコハンマーで頭を叩かれた。
――多分、『俺』じゃなくて『私』と言わなかったからだと思うよ。
三十歳の本城は反社にしか見えない見た目をしていて、リビングにいると組事務所にしか思えなくなるが、玲緒菜さんに説教されている姿は下っ端構成員にしか見えない。
玲緒菜さんはピコピコハンマーを置くと隣の相澤に向き、「裕典くんはちゃんとしてるもんね、偉いね」と言い、「はい!」と元気良く答える相澤の頭を撫でた。
俺はその相澤の姿を見て、十七歳の時に玲緒菜さんに初めて会った時の事を思い出した。
(中編に続く)




