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第4話 ルームミラーの目線/Room mirror line of sight

 十一月十日 午前三時六分


 松永(まつなが)敬志(たかし)は、優衣香(ゆいか)の部屋の玄関扉が閉じる様を見ていた。


 鍵を締める音がして、チェーンロックが掛かる。

 敬志はその音を聞き、マンションの廊下を歩き出す。だらしなく頬を緩ませている敬志は、エレベーターホールに差し掛かる前に、黒いキャップを目深に被った。

 そこには、さっきまで浮かべていた笑みは、もう無い。


 不愉快そうに口角を少し下げた表情をした敬志は、その外見に見合った目付きの男になっている。


 敬志はエレベーターには乗らず、その手前にある非常階段を降りて行く。一階まで降り、外に繋がるドアを開けようとドアノブに手をかけた瞬間、人の声がした。その場に留まる敬志の目つきが鋭くなる。

 やがてその声は聞こえなくなり、敬志は外へ出た。


◇ ◇ ◇


「鍵はちゃんと締めてね。マンション六階でも侵入される時はされるからね。気をつけて」


 敬志がうちに来ると、必ず窓の施錠を確認している。帰る時は鍵を締めるよう注意する。いつも通りそう言って出て行った敬志は、来た時よりも柔らかな笑みを浮かべていた。


――やっぱり、すれば、良かった。

 敬志の激しいキスで身体が熱くなっている。

 無理矢理でも良かった……でも敬志は何もしなかった。



 敬志は誠実な男。

 十三年前、敬志から結婚すると知らされた日、敬志は泣きながら私を好きだと言った。優衣ちゃんと結婚したい、結婚したかったと何度も何度も繰り返して、溢れる涙が頬を伝ってスーツを濡らす敬志に、私は何も言えなかった。


 当時、私には恋人がいて敬志の気持ちを受け止める事は出来なかったし、相手の女性に宿った新しい生命(いのち)に敬志が責任を持つのは当たり前だと思った。


 でも、敬志の結婚は三年で終止符を打つ。誕生した子供は敬志とは血の繋がりが無かった。


 敬志の婚姻期間中に私達が会うことは無かった。

 裁判離婚成立後、戸籍謄本と公正証書を持ってやって来た敬志は、晴れやかな顔をしていた。そしてまた私を口説いた時には呆れもしたし、動揺もした。今でも私の事を想っているのか、と。


 敬志が葉書を送って来るのは、結婚前に時に決めた事だった。私の存在が夫婦間に波風を立てる事になるのはいけないと考えて、敬志は携帯電話から私の連絡先を消去した。


 独身に戻ってる今も、なぜか敬志は葉書を送って来る。葉書が届いてから、早くて三日後、遅くて十日後に敬志は私の家に来る。

 今はお互いのスマートフォンに連絡先は入っているけど、お互いに電話やメッセージを送る事は無い。でも、敬志が電話を掛けて来た事が一回だけあった。それは敬志のお父さんが殉職した時だった。


◇ ◇ ◇


 午前三時十九分


 マンションを出て、早足で向かった場所に迎えの車は停まっていた。助手席の後ろの席に滑り込む。

 助手席に座る男は振り向いてお疲れ様ですと言い、すぐに前を向いた。運転席に座る男はそれを見てから振り返り、ちょっと遅かったですねと言った。

 ああ、すまないと言いながらシートベルトを着け、顔を上げるとその男はまだ俺を見ていた。

 口元には笑みを浮べているが、視界に入る俺の全身をくまなく観察する目をしている。その男は、優衣香が嫌がるその目を綻ばせた。


「へえ……」


 優衣香と面識のあるこの男は、関係が長い事も知っている。助手席の男は何も知らない。


「なんだよ、早く行けよ」


 走り出した車は街に溶け込んだ。

 助手席の男から、目を通して欲しいものがありますと言われ、書類を受け取る。それを街の明かりに照らして、読む。

 文字数は少なく、一見すると関連性の無い単語の羅列に見えるが、ある組み合わせをすると文章になる。それを記憶する。

 この書類は、署に行った際に回収され、その場で水を張ったバケツに沈める。

 文字の羅列を記憶した所で、俺は運転席の男に声をかけた。


「そういや相澤(あいざわ)、女はどうした? 上手くいってんの?」


 もうとっくに別れましたよと頬を膨らませている顔がルームミラーに写る。そりゃそうだよなと返した。


 警察官であることは証明出来ても、どこの所轄でどの部署か明らかにすることが出来ない男など、信用出来ないだろう。

 ()()()()()()()()()()と言われて、それが嘘だと気付く前に、既に連絡が途絶えているのは誰しも通る道だ。

 その点、優衣香はそれを理解してくれている。


――友達だから。俺の仕事を探るような、そんな事は一切しない……友達だから。


 別れ際の優衣香を思い出す。優衣香から求められたキスに、俺は夢中になった。強く抱きしめたせいで優衣香の背骨が鳴り、驚いて身体を離すと、俺が離れた事を恨めしそうに上目遣いで見ていた。そのまま押し倒してしまいたかったが、時間が迫っていた。我慢するしかなかった。

 次に来た時、続きをしてもいいか優衣香に問うと、頷いた。それが嬉しくて、また抱き寄せておでこにキスをした。


 十五歳の時に一生懸命書いたラブレターは、二十二年の時を経て、やっと夢が叶った。三十七歳にもなってこんなに浮かれるのもどうかと思うが、俺は嬉しい。


「松永さん、顔に出てますよ」


 良いですねと吐き捨てた相澤は、ルームミラー越しに目を細めている。恨めしそうなその顔に俺はニヤリと笑った。


 助手席の男は何の話をしているのか分かっただろうか。俺が女の匂いをさせている事は気付いたようだから、俺が女の所に居たと分かっただろう。


「お前ら腹は減ってねえの?」


 優衣香の家に行く前に食事を済ませていたが、この二人は何も食べていないかも知れない。午前五時から会議が始まる。そうなるとしばらく食事は出来ない。


「松永さんが()()()()()()()()に食いましたよ」


 また相澤が恨めしそうな目をルームミラー越しに寄越した。助手席の武村(たけむら)は空気を読んだのか、お腹すいてますと元気に返事した。俺にはそれが微笑ましかった。


「じゃ、コンビニ寄って。おごるから」



 コンビニの駐車場に停めた公用車に相澤を残し、助手席の武村と俺はコンビニに入った。スーツを着た気弱そうな武村と、チャラい俺との組み合わせは異様だったのだろうか、店員が目で追っている。


「お前は女いるの?」


 いますと元気に答える武村は、恋人とは高校生の頃から付き合っていると言った。そうかと答えた俺は口元が緩む。


「早く結婚しちゃえよ、逃げちゃうぞ」


 普段、この武村は()()()()()()()()()()()()()だ。今回は事務処理能力を買われてメンバーに加わっている。この仕事をやっている間は、その恋人に会うのは難しいだろう。警察官の恋人となって六年だから、ある程度の覚悟も経験はあるだろうが、関係が終わってしまう心配は尽きない。


「ちゃんと連絡はしてる?」

「はい!してます!」

「そうか。()()()頑張れよ」

「も、ですか?」


 ああ、余計な事を言ってしまった。だが良い。そうだよ、俺もお前みたいに長い付き合いの女がいると答えた。

 そうなんですかと武村は目を輝かせた。


 会計を済ませて公用車に戻る。嬉しそうな武村を不審そうに見ている相澤に、ジャスミンティーを渡す。


「お前、今でもまだジャスミンティー好きなの?」


 そうですよ悪いですかとまた頬を膨らませる相澤を、武村は不思議そうに見ていた。


 公用車はまた走り出す。

 隣県と接する所轄署に向かうこの公用車と、優衣香の車は同じ車種で色も同じだ。以前乗せてもらった時に、公用車と同じは嫌だなと呟いたら、これは後期型だから七速なんだよと言っていた。エンジンが変わっただけで外装も内装も変わってないから同じだよと返したら笑っていた。


――次はいつ会えるかな。


 キャップを取り、ヘッドレストに頭をもたげながら考える。

 この仕事をしている限り、優衣香を幸せにする事は出来ないと思う。

 優衣香は朝行って夜帰って来る『普通の人』と暮らすのが幸せに決まってる。優衣香が誰かと結婚すれば、俺はこんなに悩まなくて済むのに。優衣香を諦める事が出来るのに。

 警察官になりたかったけど、警察官になるんじゃなかった。

 思わず舌打ちしてしまい、助手席の武村が反応して振り向こうとしたが、相澤に制止されている。


――ごめんね。


 署まではあと少し。

 またしばらく優衣香と会えないと思うと気が重くなった。

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