第21話 野獣二人/Two beasts
長い髪の手入れが面倒くさいと言って弟に任せたこの頭は、結んだ時の髪型を『マンバン』と呼ぶのだと教えられた。「毛量が半分になって手入れが楽になるよ」と弟は言ったが、「違う、そうじゃない」とは言えなかった。兄も俺も歳の離れた弟を可愛がり、今でも兄弟仲は良い。以前、兄も「違う、そうじゃない」と言いたくなった髪型にされた事があったそうだが、可愛い弟には言えなかったと言っていた。
前の茶髪パーマの時から髪が長く、後ろで結ぶ事もあったが、今は頭の下半分が刈り上げてあってすごく寒い。そのうち風邪を引きそうだから、午前中に署へ行った相澤が官舎に寄ってから戻るというので、俺の部屋からマフラーを持ってきてもらうよう頼んでおいた。多分、ゴリラは忘れるだろうと思っていたら、やっぱりゴリラは忘れた。
「もうっ! 寒いんだけど!」
「すみませんでした」
――あれ、なんか変だな。いつもなら言い訳するのに。
◇
十二月一日 午後二時四十分
掛時計の秒針だけが聞こえる。
連絡所兼仮眠室として借りているマンションのリビングで戻ってきた相澤の隣に座って顔を突き合わせているが、物覚えの悪い相澤にさっきから溜め息だけが出ている。
単語を組合せて解読する書類――。
これにいつも手こずる相澤は、今回は特に物覚えが悪過ぎると思った。
「どうしたの? いつもならもうちょい覚えられるよね?」
眠いわけではない。相澤はさっき一時間の仮眠を取った。正味四十分程だが、十分とは言えなくともある程度の復活はしている。
「裕くん、どうしたの?」
相澤はテーブルに右肘をついて手をこめかみに当てていたが、椅子の背もたれにもたれて腕を組んだ。
少ししてから溜め息をついて、腕を解いて俺を見て、「加藤の事です」と言った。
「……どうした」
「加藤が俺の事を好きな事を、松永さんは七年前から知ってたんですよね?」
「そうだよ」
相澤としては、加藤は美人だけど好みのタイプではないし、手を上げてくる狂犬だし、怖いとしか思わないが、加藤が自分をそんなにも長く好きでいてくれたのなら、加藤の気持ちに応えても良いと言う。
「そうなんだ。ならそう奈緒ちゃんに言えば?」
「この話をしようとすると殴るって言うんです。この前は頬を叩かれました」
「かわいそうな裕くん」
加藤はちゃんと相澤に想いを伝えたのか。だが、あの時加藤は『先も長いと思います』と言っていた。だから俺はこれまで通りの片思いが続くのだと思っていたが、まさか葉梨という伏兵の存在があるとは思ってもみなかったし、デートさせたら美女が野獣に恋してウッキウキになるとも思わなかった。
――やだっ大変! このままだと裕くんは恋が始まってないのに失恋しちゃう!
「あのさ、間宮から連絡あったんだけどさ」
「えっ……」
ああ、相澤は俺が優衣香に会い、機嫌良くしていたから関係に問題ないと思っているが、間宮の事を優衣香から聞いたのかどうかを聞きたそうにしていたのだった。
「優衣香と間宮に何があったのか、俺は優衣香から聞いてないし、間宮からも聞いてないよ」
「はい……」
「優衣香に秘密は守るって言ったんだろ?」
「はい」
「優衣香は俺に話そうとしたけど、相澤との秘密を守れ、と俺は言った」
「そうですか……」
俺としては、優衣香の心が俺に向いている事が分かったから、もうそれだけで良い。
「合コンの話」
「あっ!」
「お前にも連絡あったろ?」
「ありました」
「間宮は三人でって言うからさ、俺とお前で行こうよ」
「はっ!? 笹倉さんいるのに!?」
「お持ち帰りしなきゃいいんだろ?」
「違う! そうじゃない!」
相澤は、恋人がいるのに合コンに来る男はクズだと言う。確かにそうだが、俺としては相澤に新しい出会いがあれば良いのだから、俺が人数合わせで出席すれば良いと思ったのに、ぼくは裕くんに怒られた。
――なにさ! ぼくの気持ちも知らないで!
「分かったよ。行かないよ」
「当たり前ですよ!」
「ならもう一人は誰にする?」
「葉梨はどうかな」
――それはやめて。戦が始まっちゃう。
「葉梨か……」
「だって今あいつ女いないし、あいつは合コンに誘うといつも来ますよ」
「いつもって? ここ一年の話?」
「あー、いや、ずっとですよ」
相澤は二十四歳の時に葉梨と同じ署になり、そこで仲良くなった。相澤は恋人がいる時は合コンに行かないが、別れた後の合コンにはたいてい葉梨がいたという。
――それって先輩の誘いだから断れないだけじゃないかな。
「なら葉梨もクズだろ」
「葉梨は人数合わせだしお持ち帰りしません」
「俺だって人数合わせだしお持ち帰りしないって言ってるだろ」
「ダメです。笹倉さんにバラしますよ!」
「裕くん、それだけはやめて」
俺はどうすれば良いのだろうか。葉梨と加藤の関係を守る為に相澤に新しい出会いを提供しなきゃならない。でも俺が合コンに行くと結果として優衣香を裏切る事になる。
俺が合コンに行かないとなると葉梨に声がかかり、先輩には逆らえない葉梨は結果として加藤を裏切る事になる。
この合コンの事は俺も知っていたと加藤にバレると加藤は俺にキレるだろう。七回目の土下座はしたくないし、恋する奈緒ちゃんを守ってあげないといけないとも思う。
「なあ、熊とゴリラの間の子と単体の熊とゴリラの三人って濃いよね。葉梨以外に誰かいないの?」
「うーん……」
男性捜査員用の仮眠室の扉が開いた。足音が聞こえて洗面所の扉を開ける音がする。葉梨が起きて顔を洗うのだろう。早く決着を付けなければならない。この後、葉梨はリビングにやって来る。
「葉梨はやめとけよ」
「何でですか?」
俺が言った加藤の『いい男』が葉梨だとは相澤は気づいていない。この先も加藤も葉梨も関係を悟られないようにするだろう。俺はどうすりゃ良いんだよ。
「……なんとなく。濃いから」
「意味わかんないです」
「お疲れ様です!」
葉梨がリビングに来た。「コーヒーを飲みますがお二人もいかがですか」と言う。相澤も俺もお願いをして、葉梨はコーヒーを淹れにキッチンへ行ったが、同時に玄関の鍵を開ける音がした。
扉が開いて閉じる。施錠して、靴を脱いでスリッパを履いたのは……加藤だ。ヒールの音がした。
これはマズい。相澤に葉梨へ合コンの誘いという名の強制連行の通達させないようにしなければならない。俺は隣にいる相澤に顔を近づけて言った。
「葉梨を誘うな」
「だから何でですか」
「濃いから」
「ただいま戻りました」
加藤はドアを開けていつもの目でリビングを見回しているが、相澤の肩に腕を回し、耳元で囁いている俺を眉間にシワを寄せて見ている。「どうしましたか?」と言うが、俺は何と言い訳をしようかと考えていると、相澤は加藤の異変に気付いた。
「奈緒ちゃん! どうしたの!?」
よく見ると加藤は足を怪我していた。膝と足の甲に擦り傷がある。すぐさま相澤は加藤に駆け寄り、跪いて加藤の足を見た。相澤の声でキッチンにいた葉梨もリビングにやって来たが、『女教師モノ』の姿の加藤が跪いている相澤の足に怪我をした足を乗せ、相澤が足を眺めている姿に若干引いていた。
加藤が怪我したと分かると葉梨も加藤に近づいたが、それよりも早く相澤が加藤をお姫様抱っこした。軽々と加藤を抱き上げた相澤は椅子まで加藤を運んだ。たかだか五メートル程度なのに相澤はお姫様抱っこしたのだ。こういう優しさに加藤は恋をしたのだろう。加藤はびっくりした表情をした後、口元を緩ませて相澤を見上げていた。
椅子に座った加藤は、段差ですっ転んだと言い、「最近、ハイヒールを履いてなかったから慣れようと思って」と続けた。
「もう! 奈緒ちゃん昨日も転びそうになってたでしょ! あんな高いハイヒールなんて履くからだよ!」
相澤は頬を膨らませて加藤に怒った。それを見た加藤は笑っている。葉梨は野川の怪我に使った高い絆創膏を救急箱から取り出して、洗面器を取りに行って戻って来た。
――あ、これ既視感ある。
俺は高い絆創膏を手のひらで温めながら、この後に加藤はストッキングをどうするのか眺めていた。膝は打っただけだが足の甲はそこそこの傷で、ストッキングは脱がないといけない。
椅子に座った加藤に跪くゴリラと熊――。
――美女と野獣二人
暑苦しいラブストーリーだな、と思ったら笑ってしまった。加藤がこちらを向いたが、加藤も笑っている。野川が葉梨の前でストッキングを脱いだ事を知っている加藤は、跪く野獣二人の前に立ち上がってこう言った。
「私、ストッキング脱ぎまーす!」
そう言ってスカートの裾に手をやった加藤を見て、野獣二人は目を見開いてすぐさま立ち上がり加藤に背を向けた。俺は手のひらで絆創膏を温めながら、その姿を見ていた。野川はフレアースカートだったが、加藤はタイトスカートだ。
――パンツ全部見える!
背を向けない俺を見た加藤が「松永さんは?」と言って、葉梨も相澤も俺を見た。
「奈緒ちゃんのパンツ見たら土下座しなきゃだめだよね?」
「そうですね」
「なら俺は土下座する。奈緒ちゃんのパンツ見たいから」
「バカなんですか?」
俺は笑いながら腕を伸ばしてテーブルに突っ伏した。それを見た加藤は声を出して笑っていたが、すぐに加藤が「もう良いですよ」と言って、加藤を見ると、加藤は座って足を上げ、太ももから黒いストッキングを破いていた。
――ぼく、パンツよりこっちが好き。しかも黒スト!
振り返った相澤は目を細めて呆れた顔をしている。加藤の女性らしからぬ素行と大雑把な性格をよく知っているからだろう。だが、葉梨はどうだと見ると、やっぱり耳を赤くしてした。そうだろう、女教師モノでストッキングを破いているのが加藤だもんな。自分が破りたいよね。俺も破りたいもん。
「奈緒ちゃん! そういうのは良くないよ!」
「なんでよ?」
「奈緒ちゃんは女の子なんだから!」
「もう三十路越えてるよ? 別に良くない?」
「違う! そうじゃない! もう!」
頬を膨らませてまた加藤に怒っている相澤と、その隣で耳を赤くしている葉梨を見下ろしながら肩を揺らせて笑いを堪えている加藤。
――たのしい動物園だこと。
手のひらで温めた高い絆創膏を葉梨に手渡しながら、俺も笑いを堪えた。




