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第20話 傾く心/Inclination of feelings

 警察学校に入って初めて加藤を見た時、カッコいい女の子だと思った。ショートヘアで切れ長の目、背が高くて痩せていて、男が近寄ると少し嫌な顔をする女の子。誰よりも足が速くて、ぶっちぎって行く加藤の後ろ姿をいつも呆然と眺めていた。


 卒業後に赴任した署が同じで、この頃には男が近づくと嫌な顔をする女の子になっていたけど、俺だけは近づいても加藤は嫌がらないから、加藤を見て色めき立つ先輩達から飲み会に連れて来いと言われた。

 その都度加藤に言って、怒られて、俺が一緒なら良いと言われて、やっとの思いで飲み会に連れて行った。でもやっぱりいつも帰り道で俺は怒られていた。いつも手の甲で頬を叩かれた。

 体格差、体力差があって俺の方が強いのは当然だけど、どうしても加藤は怖かった。


 二十四歳の時に俺は別の所轄に行った。加藤もその後は別の所轄に行って、会うのは年に一、二度で、電話は月に一回はあった。

 酔っ払った加藤が電話して来ると毎回「電話切ったら殴りに行く」と言うから怖くて切れなかった。酔っ払って電話して来る時の話はいつも同じだった。「男にフラれたから慰めてよ」と。


 松永さんから『結婚するなら加藤としろ』と初めて言われたのは七年前だった。その時に松永さんは加藤の気持ちを知ったのだろう。でも、七年前に俺と加藤に何があったのか思い出せない。加藤が俺を好きになるような事は無かったはずだ。だってそんなに会うことは無かったんだから。


 でも、加藤はずっと俺を好きでいた。少なくとも七年以上も。

 そんな素振りは一切見せなかったのはなぜだろう。

 今になって好きだったと言ったのはなぜだろう。


『私は裕くんがずっと好きだった』


 今は違うという事なのかな。

 松永さんは加藤に言い寄ってる男がいると言う。

 その男と付き合うから、加藤は俺への気持ちに区切りをつけようとして、『好きだった』と言ったのかな。


 加藤はこの話をしようとすると手を出してくるから怖くて出来ないけど、このままモヤモヤした気持ちでいるのは嫌だ。


『奈緒ちゃんの恋をきちんと終わらせてあげるのも、いい男だと思うよ』


 ――奈緒ちゃんが望むなら。


 ジャスミンティーとチョコレートのソフトクリームが好きだった女の為なら俺は死んでもいいと思ったけど、それくらい惚れてたけど、今でも忘れられないけど、でも、奈緒ちゃんが望むなら、俺はもう、その記憶を消してもいいと思ってる。


 ◇ ◇ ◇


 十一月三十日 午前六時十一分


 連絡所兼仮眠室のマンションのリビングに松永敬志は一人でいた。ペアの加藤奈緒が不在の相澤裕典は一人で外出している。

 そこに玄関の鍵が開く音がして、ドアが開いて閉じられた。施錠されて靴を脱ぐ音がする。

 松永は右手にあるリビングのドアを視界に入れながら書類に目を通していた。


「ただいま戻りました」


 リビングの扉を開けた加藤奈緒はベージュのスカートスーツに黒のインナーを着ていて、大きくカールした髪を一つにまとめて横に流している。

 加藤は松永の姿を見て目を細めた。


「おはよう。ずいぶん早いね」

「……何をしてらっしゃるんですか? ああ、髪型も変わってますね」


 パイプ椅子を後にして立ち、片脚を座面に乗せて足を曲げたり伸ばしながら書類を読み、コーヒーを飲んでいる松永にそう問いかけた。


「ブルガリアンスクワットだよ」

「……ええ、そうですね」

「この前、署の階段を二段飛ばしで五階まで上がったら脚がプルプルしてね、鍛えてるんだよ」

「そうですか」

「髪は弟の所に昨日の夜行ってきたよ。頭がすっごく寒い」

「あははっ」


 松永はコーヒーをテーブルに置き、書類を加藤に手渡す為に右手に持ち替えて手を伸ばした。それを松永の前に来て受け取ろうとした加藤が手を出した所で、松永は引っ込めた。


「どうだった? 早い出勤って、どう解釈すれば良いのかな」

「仕事熱心だと解釈なされば良いかと」


 加藤の返しに薄く笑う松永は、「俺はもう手を引くから」と言った。その言葉に首を傾げる加藤へ、「奈緒ちゃんの恋をきちんと終わらせてあげるのもいい男だよ、と相澤に言った」と言い、加藤の顔を見た。

 目も口も、何一つ動かさない加藤に、松永は笑みを浮かべて「なんだったら、俺が奈緒ちゃんの第三の男になろうか」と問うと、加藤の目が微かに動いた。


「ふふっ、どうしたのよ。あー、でもいいや。聞かない。後は自分で決めなよ、ね、奈緒ちゃん」


 加藤に書類を渡し、加藤が下がったところで松永はまたブルガリアンスクワットの続きを始めた。


「ここんとこ続けて彼女に会ったけど、二回連続でおあずけ食らってさ、ただの男になってるでしょ、俺。ふふっ。だから第三の男を演じるのも迫真の演技が出来ると思うよ。だからどう?」


 その言葉に加藤は目を見開いて驚いている。


「彼女……? えっ……?」

「俺の恋人だよ」

「……あの、松永さんは特定の恋人を作らない方だと……」


 加藤が明らかに動揺する姿に歯を見せて笑う松永は続けた。「彼女に男がいる間はただの男。でも、彼女がフリーの時の俺はいい男なんだよ」と言うが、加藤は眉根を寄せて考え込んでいる。


「奈緒ちゃん。話するから座ってよ」


 そう言った松永は後の脚を下ろし、太ももをさすりながらキッチンへ向かった。


 ◇ ◇ ◇


 加藤の前にコーヒーを置いた。スティックシュガーとミルクも。「ありがとうございます」と言い、スティックシュガーを半分とミルクを入れてスプーンでかき混ぜる加藤の正面に俺は座った。


「この話は相澤だけが知ってるし、相澤だけが俺の彼女と会ったことがある」


 いつか加藤に優衣香の話をしようと思っていたが、今日すべきだと俺は思った。


 ――加藤は葉梨に気持ちが傾いてる。


「奈緒ちゃん、俺ね、十四歳の時に好きになった同級生の女の子の事が今でも好きなんだよ」

「……じゅう、よん?」

「そう。中二だよ」


 優衣香が実家の隣である事は伏せて、優衣香と俺の事を話し始めた。

 十五歳の時にラブレターを渡した事、警察官になってからはなかなか会えなかったけど、ずっと好きで二十二歳の時にもう一度告白したけど優衣香に恋人がいてまただめだった事、俺がデキ婚する時に優衣香の前で大泣きした事、優衣香に恋人がいても遊びに行っていた事、恋人と別れたら口説いて、それを三十七歳になっても続けている事を話した。


「奈緒ちゃんって、そういうリアクションするんだね。本気でびっくりしてるね」

「……当たり前じゃないですか」

「ふふっ、そうだよね」


 目を丸くしたり、口を開けたままで目が動くなど、初めて見る加藤の顔が面白い。


「この前ね、彼女が初めて俺を好きって言ってくれた」

「えっ?」

「彼女に男がいない時だけ彼女の身体に触れるけど、強く抱きしめたのはこの前が初めて」

「えっ……」

「キスもこの前初めてした」

「……そう、ですか……」

「ふふっ。十年前から定期的に彼女の家に行って、風呂入って、着替えも置いてあるのに、この前初めて彼女のベッドで寝たんだよ」

「…………」

「あ、何もしてないよ。彼女が腕枕してくれたから、そこで初めて強く抱きしめた。でもそれ以上の事は何もしてない。おあずけ食らってすっごく辛い。ふふっ」


 加藤は『いい男とただの男』の時の俺を知っている。それとの整合性を脳内で取っているのだろうか、何かに気づくと小さく頷いている。


「俺はね、彼女が結婚したら潔く諦めようとしたけど、いつまで経っても彼女が結婚しなかった」


 俺のその言葉は、七年前に自分が言った言葉と同じだと気づいたのだろう。小さく溜め息を漏らして、「だからお話してくれたんですね」と言った。


「もちろんそれもある。でも、俺が言いたいのはね、俺は二十二年も彼女だけを想い続けた。奈緒ちゃんも長いよね。だから奈緒ちゃんがどうにかすれば、相澤だって気持ちは動くって事を言いたい」


 加藤の目の動きが止まった。


「それと、奈緒ちゃんは自分を愛してくれる男って今までいた事ないでしょ? 自分の事を真剣に考えてる男だよ。そんな男が自分を求めてるって、……どう、だった?」


 加藤は動揺している。何があったのかは分からないが、葉梨は昨夜もいい男だったのだろう。


「俺は、一人の相手を長く想い続けた者同士としてね、奈緒ちゃんも幸せになって欲しい」


 顔を上げて俺の目を見た加藤は、頬を緩ませた。


「奈緒ちゃん、葉梨との事、話してくれたら嬉しいな。出来れば生々しい話」

「また土下座したいんですか?」

「したくないです。スミマセン」


 加藤と笑い合ったが、加藤の笑顔は今まで見たことのない笑顔をしている。笑うと片方にエクボが出来るとは知らなかった。


『一人の女だけを夢中にさせる男は、いい男ですよ』


 そう加藤は言っていたが、葉梨は加藤を一晩で夢中にさせたのか。美女が野獣に恋をしている。


「じゃ、葉梨に聞くよ」

「お好きにどうぞ」

「で、バラすような男なら損切りする、という事で良いのかな?」

「ええ、そうです。さすが松永さん」

「ふふっ。いい男を損切りは惜しいんじゃないの?」


 口元を緩めた加藤の目は、今まで見た事のない目をしていた。

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