第2話 あなたを想う夜/A Night to Think of You
風呂から上がってリビングに戻った俺に、優衣香は冷たいミネラルウォーターのペットボトルをくれた。敬ちゃんから甘い香りがすると笑い、私も入って来るねと言い残しリビングを出て行った。
風呂でシャンプーしている時、優衣香を胸に抱いた時に漂った香りと同じだと気付いた。俺と優衣香が同じ香りを纏っているのかと思うと気恥ずかしくなった。
甘い香りのシャンプーとコンディショナーは、髪がいつもより長いせいで香りが残っている。
最近の俺の仕事には合わない香りだが、今日は良いだろう。
ソファに座りテーブルの上の薔薇を見た。
花屋に行って薔薇の花束をと店員に伝えた時の事を思い出す。花屋には似つかわしくないこんな形なりの俺に驚きつつも、笑顔で接客してくれた女性店員に言われた薔薇の意味だ。
薔薇を十二本と言った俺に、恋人にプロポーズですかと問う彼女に驚き、違うと伝えた。薔薇は本数によって意味が違うんですよと言う彼女は、本数毎の意味を書いた紙を見せてくれた。優衣香は十二日が誕生日だから十二本で良いだろうという考えは安直過ぎたのか。
彼女が見せてくれた紙に書いてある意味を見て、悩んだ。十二本は渡したい。だが、組み合わせをどうするか。九本と三本にするか、五本と七本か。でも、六本を二つでも良い事に気付く。
結局、五本と七本で花束を作ってもらう事にした。その意図を汲んだ彼女は、俺の顔を見て微笑んだ。
意味は『あなたに出会えて嬉しい』と『ひそかな愛』だ。片思いが実る事を願っていると思われたのだろう。それは間違ってはいない。
優衣香に薔薇の花束を渡した時、その意味は分かっていなさそうだった。だが、目の前にある花瓶に生けた薔薇は九本だ。もし優衣香が意味を分かっていたのなら嬉しい。分かっていたから、初めて俺の背中に腕を回して、髪を撫でてくれたのかも知れない。
俺が悩んだ九本と三本の意味は、『いつもあなたを想っています』と『愛しています』だった。
――だとしたら俺を受け入れてくれるという意味なのかな。
しばらく薔薇を眺めていたが、残りの三本を思い出して部屋を見回していると、優衣香がリビングに入って来た。
「敬ちゃん、髪の毛乾かしておいでよ。あと歯磨きもね」
髪の毛を下ろし、艶のある薄紫色のロングワンピースに同じ色のガウンで身を包む優衣香の姿を見て、息を呑んだ。
◇ ◇ ◇
閉じたカーテンから月明かりが漏れる優衣香の寝室に、敬志は独りでいた。
敬志は優衣香のセミダブルベッドの上で左脚を立て、左腕は頭の後ろに回している。
これまで敬志は何度も夜に優衣香の家を訪れているが、ソファで寝落ちしてした事はあってもベッドで寝るのは今日が初めてだ。
今、優衣香は別室で仕事をしている。
敬志はスマートフォンを眺めて時刻を気にしていると、寝室に優衣香が現れた。
優衣香はガウンを脱ぎ、ベッドの脇にある椅子の背もたれにそのガウンを掛け、敬志の左側に腰を下ろした。腕を上げ、髪の毛をまとめ、首の右側に流す。
敬志はその姿を瞬きもせず見ている。うなじ、背中、両腕が露わになった、なだらかな曲線を描く優衣香の後ろ姿を。
それから優衣香は敬志の隣へ滑り込んだ。
◇ ◇ ◇
俺はスタンドライトを消そうとする優衣香の右手を掴んだ。淡い光に照らされる優衣香の顔を覗き込み、問う。
「優衣ちゃん、してもいいの?」
俺に向き直った優衣香は、左手の指で俺の頬を撫ぜた。解かれた俺の右手は行き場を無くす。
頬を撫ぜる指の動きに合わせて、睫毛が揺れる。
その睫毛の奥の瞳が俺を見据えた時、優衣香は頬を撫ぜたその手を、耳の後ろへと伸ばした。
「敬ちゃん、何かあったんでしょう?」
指は後頭部へ伸び、髪を撫でていた。
優衣香は、葉書が届いた翌日に俺が来た事から不審に思ったと言う。薔薇の花束もそうだとも。そして、ソファで抱きしめた時にいつもは一回だけなのに今日は二回も言ったからおかしいと確信した、と。
これまで確かに俺の女になって欲しいという意味を含んだ言葉を言うのは一回だけだった。胸に抱く優衣香が嫌ですよと返事をして、俺をすり抜けて逃げて笑うまでが毎回のお決まりのパターンだった。
「何があったのかは言えないでしょう?」
「…………ごめん」
優衣香が俺と付き合うのを嫌がるのは、俺が警察官だからだ。警察官であっても、所属を明らかに出来る警察官だったら、優衣香は俺と結婚してくれていたかも知れない。
でも、家族にすら音楽隊で楽器を拭く係としか言えない今の俺の所属のままなら、それは無理だ。
「ねえ……何か性的欲求が昂るような事があったんでしょう?」
「えっ……」
普段どんな事が起きても平静を装う俺でも、優衣香のその言葉にはさすがに焦ってしまった。なぜ分かったのだろうか。優衣香は親指で俺の頬を撫ぜながら、その欲求は私では解消する事が出来ないのは分かってるはずなのにと言った。そして、それでも私のところに来てくれた事が嬉しいと続けた。
俺は目を瞑り、ため息をついた。俺が優衣香の事が好きな理由を改めて思い知らされる。こういうところが好きなのだ。でも、それ故に、優衣香は俺の支えになる事を拒んでいる。
「優衣ちゃん、キスしていい?」
「嫌ですよ」
いつも通り即答する優衣香と顔を見合わせて笑ったが、ベッドで向き合っているのに、俺の手は優衣香の身体の向こうのシーツに触れているのに、俺はキスどころか抱きしめる事すら叶わないのか。そう思っていたが、優衣香は右腕を俺の首の下に滑り込ませた。
「腕枕してあげる」
おいでと優衣香に誘われるまま、腕枕をされた。
優衣香の顔の下に、俺の頭が収まる。俺の唇は優衣香の肌に触れている。優衣香の肌はこんなに柔らかくて滑らかだったのか。肌の香りは鼻腔をくすぐる。
――したい。
優衣香の身体の向こうのシーツに触れていた手の指で、優衣香の背中をそっとなぞる。
「抱きしめてもいい?」
いいよと言ってくれた優衣香の背中を強く抱きしめると、優衣香は小さく、んっと呻いた。この声を聴いても、艶のある薄い布越しに優衣香の肌身の柔らかさを感じても、俺は我慢しなくてはならないのか。
自分の中の庇護欲と嗜虐心が交錯する。
だが、優衣香の肌の温もりに包まれていたら、眠りに落ちるまで時間は掛からなかった。




