第18話 心はつながる/Hearts are connected
十一月二十八日 午後十一時十分
「もしもし」
「うん、あー、あの……優衣ちゃん」
「こういう事はあんまりしたくないんだけど……」
「今近くにいて……あの……これから行っても良いかな」
「少しだけなんだ。時間あんまり取れなくて……ごめん」
「うん、ごめんね、すぐ行く」
◇
あれから、相澤から優衣香の事は何も聞いていない。ただ、相澤の言う『大丈夫』だけを頼りに、俺は優衣香のマンションへ来た。
でもやっぱり怖い。
優衣香に電話をする事も怖くて出来なかった。
優衣香が来ても良いと言ったからマンションへ来たけど、この扉が開いても、目の前にいる優衣香を見るのが怖い。
相澤が大丈夫だと言ったから大丈夫なんだろうけど、部屋のインターフォンのボタンを押そうとして、さっきから躊躇っている。
でも、今日は行かないといけない日だから……。
◇ ◇ ◇
夜遅い時間に鳴ったスマートフォン。
これから敬志が来る……そういう電話なら、私は嬉しい。でも、この前の電話は、怖かった。
スマートフォンに表示されていた松永敬志の文字に、あの日の私の鼓動は早まった。敬志に何かあったのか。電話をして来るなんて、よっぽどの事が起きたんだ。いろんな事態が頭をよぎり、早く電話に出ないといけないとは分かっていても、怖くて出られなかった。
あの日の電話を切った後、私はもっと怖くなった。
警察官は、臨場した先で生命の危険がある際に、家族に連絡する時間を与えられると聞いたことがある。だから、もしかしたら敬志はその状況にいて、私に電話したのではないかと考えてしまい、胸が締め付けられた。
でも、もしその状況ならそれは私じゃないはず。そういう時、敬志はお母さんに電話するはず。それに敬志は次からは葉書じゃなくて電話するよと言っていた。髭を剃ったから痛くないよと言っていた。これはまた会えるという事だから、安心しても良いのではないかと思った。
でも、そう私に思わせる為の敬志の優しい嘘なのかも知れない。だって敬志が、帰る時に言わなかったのに、十年ぶりに私を好きと言った。
やっぱり、最後の電話だったのかも知れない。そう考えたら怖くて怖くて、涙が頬を伝った。
◇ ◇ ◇
インターフォンを鳴らしてすぐ、解錠する音とチェーンロックを解除する音が聞こえた。
――扉の向こうで待ってたんだ。
扉が開き、優衣香の姿があった。
ネイビーのフリースジャケットを着て、黒のストレッチパンツを履いている。
グレーのレッグウォーマーをして、髪の毛は変わらないストレートのロングヘアで後ろでまとめている。
「いらっしゃい」
そう言う優衣香は俺の目を見ない。顔は見ているが目線を合わせない。
「……夜遅くにごめんね。今日来たくて」
優衣香は「うん、ありがとう」と言って、サンダルを脱いで上がった。俺も靴を脱いで揃えて、目の前にいる優衣香を見た。
ぎこちない笑顔の優衣香――。
俺はそれから目をそらした。
「手を洗ってからお参りさせてもらうね」
そう言って、洗面所に向かった。
左の手前がトイレで、その奥のドアが洗面所だ。
洗面所で手を洗っている時、脇にあるポプリが目に入った。
――あの時の薔薇かな。
鏡に映る俺の顔は、少し頬が緩んでいた。
鏡越しに見る洗面所の風景を見ると、違和感を覚えた。物が減った。なぜだろう。優衣香は必要な物をその都度買うから、元々家の中は片付いている。洗面所でこれなら、リビングやキッチン、寝室や書斎なども物が減ったのか。
洗面所のドアの正面は四畳半の和室。
そこにお仏壇がある。
――今年は命日に来れて良かった。
お仏壇にある座布団には、俺は座らない。
座布団を除けて、正座する。
――写真が変わってる。
おじさんとおばさんが寄り添っていて、笑ってる。
俺が高校生の頃に見た二人の姿だ。
――お嬢さんを守る事が出来なくて申し訳ございませんでした。
線香を立ててから、俺は土下座をする。
いつもやってる事だ。ずっと、お詫びしている。
許される日は来ないけど、俺にはそれしか出来ない。
◇
和室から出て、リビングの扉を開けると、優衣香は一人用ソファに座っていた。こちらを見ているが、やはり目をそらす。
――やっぱり物が減ってる。
リビングの全景を視界に入れながら一人用ソファの左手にある二人用ソファに座ろうとした。だが、優衣香が立ち上がって俺の行く手を阻んだ。
口を開こうとしている。
俺は優衣香の身体を引き寄せて頭を抱え込んだ。
「敬ちゃん、話――」
俺は優衣香の口を塞ぐ。
唇を舌でなぞると優衣香が唇を開けた。
優衣香の身体から力が抜けるまで、俺は口を塞いでいた。
――聞きたくない。言わないで。お願い。
優衣香が目を開けて、俺と目が合った時、優衣香の目から涙が零れ出した。
――それは何の涙なの。
優衣香の涙を手のひらと唇で拭いてやった。
――やつれてる。
優衣香は厚手のフリースを着ているのに、痩せた事が分かるほどだった。
――優衣ちゃん、どうしたの。
「敬ちゃん、あの……私……相澤――」
「言わないで」
「でも……私がい――」
「言うな!!」
声音が変わり大きな声を出した俺に優衣香は目を見開いて身体が硬直している。
「優衣ちゃん、ごめんね。俺の話を聞いて」
優衣香の頭を撫でながら、俺はいつもの声――相澤が言う甘えた声――で優衣香に話かけた。
「多分、相澤は秘密を守ると言ったはずだよ。相澤は秘密を守ってる。だから優衣ちゃんも相澤との約束を守って」
優衣香は目を伏せて、また俺の目を見たが、身体から力が抜けてまた涙が溢れ出て来た。
――優衣ちゃん、笑って。俺に笑顔を見せて。
優衣香の泣き顔を見ていたら、俺も涙が頬を伝うのが分かった。それを見た優衣香の唇が震えている。
「優衣ちゃん……俺の事好き? 大好き? 優衣ちゃん、優衣ちゃん……俺と……ずっと一緒に……優衣ちゃん……好きだよ優衣ちゃん」
俺は優衣香を腕に抱きながら、優衣香が嗚咽を漏らしながら途切れ途切れに好きと言う声を聞いていた。
◇ ◇ ◇
十一月二十八日 午後十一時五十四分
バックミラーに松永さんの姿が見えた。
走ってる。ものすごく走ってる。
――四分遅れ。
去り際に離れ難かったのかな。この前と同じくやっぱり遅れた。松永さんが少しでも元気になってくれるのなら、四分なんてどうでもいい。
助手席のドアが開き、シートに滑り込んだ松永さんから、この前お会いした時の笹倉さんの香りがした。
「悪い、遅くなった」
顔を向けて、しっかり松永さんを見ると、目が赤い。でも、悩みは無くなったように思えた。
「裕くん」
シフトレバーをドライブに入れ、サイドブレーキを解除した時に松永さんから声が掛かった。
「ありがとう」
何についての感謝なのかは分からない。でも、聞かなくてもいい。「いえ」ただそれだけ言って、発車した。
◇
優衣香は引越しを考えていて、物を減らしている途中だと言っていた。俺としても、優衣香のマンション付近を野川に知られてしまった以上、今まで以上に気を遣う必要があり、「いいかもね」と優衣香に伝えた。
「もう少し広いところにしようと思ってるから、敬ちゃんの荷物を、もっと置いて欲しいな」
優衣香は俺との未来を見ていた。
嬉しかった。
でも荷物と言っても、俺は物を持たないようにしているから服くらいしかない。
俺は優衣香さえいてくれれば良い。
「松永さん、顔に――」
「言うな。分かってる」
「……良いですね、幸せそうで」
「裕くんのおかげですよー」
公用車の中で、二人で笑い合いながら、俺は相澤の幸せが何なのか、知りたいと思った。




