第17話 放置と悪夢(後編)/Neglect and Nightmares
相澤の肩に乗せた腕を離して、その肩を軽く押した。上半身は揺れたが、相澤はすぐに俺の顔を見た。その目は真っ直ぐ俺を見据えている。
――こいつはこれ以上の事は話さないと決めたな。
俺が叩き込んだ秘密保持を守る相澤を頼もしく思うと同時に、憎たらしくも思った。そう思うと口元が緩む。
俺は相澤に背を向けてベッドへ戻った。
天井を見上げると、扉の前で立ち尽くす相澤が視界に入るが相澤は動かない。
相澤は下を向いている。
また雷鳴がした。
俺は天井を見上げながら、頭の中で考えていた事を声にした。
「俺さ、この前初めて、優衣香をベッドで抱いたんだよ。……ああ、いや、抱きしめたんだよ。それ以上の事はしてない。けど、初めてキスしたんだよ」
相澤は何も言わない。ただ、俺の話を聞いている。だから俺は続けた。
「キスしたら止まらなくなって、何度もして、優衣香は俺の女だ、やっと俺の女になったんだって、そう思った。そう思ってたんだよ」
「だから! 笹倉さんも松永さんを好きですよ!」
「ああ」
「だったら――」
「でも間宮と一緒にいるのを――」
「それは――」
「間宮なら良いかって――」
「だから違う――」
「ふふっ……やっぱりお前、優衣香と間宮の事を知ってんだな。ふふっ」
雨粒の音が激しくなる。
その音は、俺の鼓膜を、俺の心を震わせる。
――相澤にカマかけたつもりだったけど、違った。俺は思い違いしてた。
俺は優衣香が他の男と一緒にいた事が許せなかったんじゃない。
俺は優衣香に捨てられる事が怖かったんだ。
俺は優衣香に忘れられる事が怖かったんだ。
――あの時と恐怖と同じだ。
「でも裕くんありがとう」
◇ ◇ ◇
十一月二十七日 午後五時二十九分
松永さんが寝息を立てて眠る姿を俺はあれからずっと見ている。眠いけど、今日は松永さんをずっと見ていたい気持ちになった。
松永さんはあのまま寝てしまった。
雨は止んで日が落ちて、街の明かりがカーテンから漏れて、松永さんを照らしている。
――ちゃんと寝てる。
髪を掴まれた時の松永さんの目はすごく怖かった。
あの目を見たら足が竦んでしまった。だってあの日の松永さんと同じだったから。
あの目で凄まれたら、全てを話さないと殺されると思った。
でも、俺は話さなかった。
でも、松永さんは勘付いた。
でも、裕くんありがとうって言った。
――これで良かったんだ。
◇
笹倉さんのお母さんが殺された事、家が放火された事、交際相手がその場で自殺した事を、半年近く経ってから知った松永さんが刑事課の俺の所に来たあの日、松永さんのあの目はもう二度と見たくないと思った。思ってたけど、また見てしまった。
半年以上、単独行動で情報を遮断されていた松永さんを、署の誰もが松永さんだと気付かなかった。それくらい、松永さんは変わり果てていた。
松永さんを暴漢と誤認した署員が制止しようとしたけど、次々と倒されて廊下に転がっていた。追い縋る署員の手は空を切る。怒号と唸り声と悲鳴。悪夢を見ているようだった。俺を見つけた松永さんは凶暴な目をしていた。今まで見たことのない人間の目。
――生存を脅かされる極限に置かれていた人間の目。
俺は殺されると思った。
松永さんは俺の前に来て、俺の腕をものすごい力で掴んだ。それから何かを言いたかったのだろうけど、声が出なかった。掠れた空気の音だけが聞こえた。
やっとそこで俺は松永さんだと気づいたが、俺もその時にはもう何も考えられなくなっていた。なんとか絞り出した言葉は「事実です」だった。そうしたら松永さんが強く掴んだ俺の腕は開放された。松永さんはそのまま膝から崩れ落ちた。
松永さんは力の入らない腕で俺の胸を叩き、嗚咽を漏らしながら笹倉さんの名前を呼んだ。
「優衣ちゃん……優衣ちゃん……」
俺の腕の中で、声にならない声で、笹倉さんの名前を呼び続けた。
松永さんは、大切な人が全てを失って暗闇の中にいる事すら知らなかった。松永さんの心の中は分からないが、自分の存在が否定された気持ちになったのだと思う。
――笹倉さんにとって、自分はいなくてもいい人間。
松永さんは笹倉さんを二十年以上想い続けて、この前やっと手に入れた。でも手に入れたと同時に手にする物があるという事を松永さんは知らなかった。
多分、それを知ったから怖かったんだろうな。だって松永さんは恋愛経験ゼロだから。笹倉さんは恋人じゃなくて幼馴染みで友達だから。笹倉さんに恋人が出来ても別れるまで待ってるだけ。笹倉さんがいつまでも結婚しないから、松永さんは失恋を経験しようにも出来なかった。
――始めたら、終わりがある。
松永さん、恋い焦がれる笹倉さんの気持ちが自分から離れてしまうのでは、と思い悩むのは辛かったでしょう? 怖かったでしょう? でも二回目じゃないですか? あの時と同じように自分でどうにかするしかないですよ。
でも松永さん、笹倉さんはちゃんと間宮さんの交際の申し出を断ってましたよ。
『心に決めた男性がいるんです』
そう間宮さんに伝えたそうですよ。
あの日、間宮さんと笹倉さんが一緒にいた理由は、間宮さんがどうしてもとお願いしたからでしたよ。
あんな熊とゴリラの間の子みたいな男の誘いを断れる女性は狂犬の加藤ぐらいしかいませんよ。
ゴリラ単体の俺ですら面識があるのに今でも笹倉さんは怯えますからね。
フラれた間宮さんは落ち込んでましたよ。
笹倉さんは間宮さんの好みのタイプど真ん中でしたからね。
でも間宮さんは俺と松永さんの三人で合コンしようって言ってきましたよ。
あの熊とゴリラの間の子は挫けませんね。
どうしますか、松永さん。
笹倉さんにヤキモチを焼かせるために合コンに行ったらダメですからね。
◇
ベッドに置いたスマートフォンが震えた。
画面を見ると加藤からのメッセージを受信した通知だった。
ベッドに座り、加藤のメッセージを開くと、「服装はスーツで良いの?」とあった。
あの日以降、加藤はスカートを履く日が多くなった。寒いのに我慢している気がする。加藤がズボンでも何とも思わないのに。
『スーツにしよう。暖かくしてね』そう送ると加藤からすぐに返信があった。
『ありがと。了解。なんで起きてんの? 寝たら?』
加藤はリビングに一人でいる。松永さんは寝ているからリビングに行って話せばいいのだけど、あの話をしようとすると、加藤は手を出してくる。
『奈緒ちゃん』
『なに? 寝なよ』
『話がある』
『なに? 寝な』
『この前の話』
『やめて。寝な』
『ならいつ話せばいい?』
『その話したら殴る。早く寝な』
――始めたら、終わりがある。
奈緒ちゃんは分かっているのかな。俺と関係を持って、終わったら元には戻れないと。
それでも良いと、奈緒ちゃんは思っているのかな。
――奈緒ちゃん、俺は嫌なんだよ。
奈緒ちゃんは、俺の中でずっと同期の奈緒ちゃんでいて欲しいんだよ。
美人でカッコよくて足が速くていつも俺をぶっちぎって行く後ろ姿を見ていたいんだよ。
俺は、奈緒ちゃんを失くしたくないんだよ。
――始めたら、終わりがある。
――だから、今のままで、良い。




