第16話 放置と悪夢(前編)/Neglect and Nightmares
眩しい太陽を目を細めて見上げる女の子。後ろでひとつに結んだ髪。まだ長さが足りない横の髪はピンで留めて、太陽の光がそれに反射する。
「進路は決めた?」
セミの鳴く声がうるさくて、顔を近づけないと何を言っているのか分からない。
彼女は俺の返事を待たずに前を向いて俺の先を行く。
俺は何も言わずにその後を追う。
噴き出す汗は、暑さだけが理由ではない。
――待って、待ってよ。
カバンの中には彼女に宛てた手紙がある。夏休み前に渡したかったけど渡せなくて、もう一ヶ月も入れたままの手紙を今、渡そうとして、俺は彼女を呼び止めた。
振り向いた彼女はカバンを開けた俺の手元に目線を落とした。
取り出した手紙を、汗が滲む封筒を、俺は彼女の手に当てた。
「優衣ちゃん、手紙、あの……読んで」
その手紙を手に持ち、宛名を見ている優衣香が顔を上げないうちに、俺は走り出した。
額の汗が目に入る。
セミの鳴き声と照りつける太陽と身体にまとわりつく熱い空気。
後ろから俺の名を呼ぶ声がした。
◇
優衣香の事を十四歳の時に好きになって、十五歳の夏にラブレターを渡したと相澤に話したのは九年前だった。
実家に招き、リビングから見える優衣香の家を指差して、隣の幼なじみの優衣香の事が今でも好きだと言った時の相澤の驚いた顔が面白かった。
優衣香が一人暮らしするマンションに訪ねる事も、着替えが置いてある事も、体の関係が無い事もその時に言った。
それからしばらくして、俺が複数の女と同時進行で関係を持つ時は優衣香に男がいる時だと気づいた相澤から、「なぜ笹倉さんは松永さんと付き合ってくれないのか」と聞かれて、俺が警察官だからだよ、と答えた。
あの事件が起きた時に、優衣香が家に来ている、俺はどこにいるのか、俺に会いたいと優衣香が泣いている、今から来れないかと母から連絡が来ても、俺は仕事で優衣香の元に行けなかった。
――優衣香を守れない俺は優衣香を幸せに出来ない。
あの事件の後、優衣香は誰とも交際していない。「怖い」ただ一言、そう呟いて俺の腕の中で震える優衣香を見て、俺は警察官にならなければ良かったと心底後悔した。
でも、事件後に初めて会った時、優衣香は俺を心の支えだと言ってくれた。俺だってそうだ。優衣香が笑顔で迎えてくれるから、俺は俺でいられる。優衣香の前でだけ、俺は俺でいられるんだ。
――だから、今のままでも、良い。
◇
十一月二十七日 午後四時十三分
三日間の有給休暇を終えた野川はこのマンションに戻る事なく、署で事務処理をする事になった。武村は交替でマンションへ来ているが、同じ所轄の反社とペアを組んでいてマンションに戻る事は少ない。
昨夜、野川から電話が来た。実家で休息をしっかり取れたのだろう。元気な声で「相澤さんに宜しく伝えてください!」と言っていた。だが、俺に詫びる言葉は小さな声で目眩がした。
「松永さん、もしかして起きてます?」
今、仮眠室で俺は窓際のベッドに横になっているが、仮眠室のドアが開いて、入って来た相澤が声を掛けてきた。「起きてるよ」と相澤に返事をすると、最近俺が寝ていない事を指摘してきた。
「松永さん……笹倉さんの事でそんな事になってるんですよね?」
(そんな事……?)
そう思って顔を相澤に向けたが、仮眠室のドアを閉めてこちらに近付いて来ていた相澤は、俺の顔を見て立ち止まった。
「そんな事って何?」
相澤が言うには、俺は目が落ち窪んで頬もコケていると。顔色が悪くて髪に艶も無く、唇がガサガサだと。細身スーツのスラックスのウエストにシワが寄ってると。ワイシャツも首周りに隙間が出てると。脇腹のワイシャツにシワが寄ってると。
「そんなん俺らいつもだろ。まともな生活出来ねぇんだし」
「松永さん、メシ食ってます?寝てます?」
「てかさ、お前、何で優衣香が原因って思ったの」
その言葉に相澤は目をそらした。
このゴリラの相澤は秘密は守る男だ。俺が叩き込んだ。だが、このゴリラは秘密がある事がすぐ顔に出てしまう。
――何か知ってるな。
窓際から体の向きを変えて、床に足をついてベッドに座った。
自分に向き合った俺に、相澤はそこから一歩踏み出したが、髪をかき上げた俺の顔を見るとまた立ち止まった。
立ち上がって相澤の顔を見ながら近づく。
美容院でストレートパーマをかけた髪は口元まで伸びている。髪が視界を塞ぐが、相澤の顔ははっきりと見える。
立ち止まった場所で身体を強張らせている相澤の前に立った。拳一つ分も離れていない距離で。
相澤は俺の顔を見るために顔を上げた。
「知ってる事を全て話せ」
「言えません」
「言えないって事は言えない事があるって事だけど、意味分かってる?」
その言葉にハッとした相澤は目をそらした。
◇ ◇ ◇
嫌な予感はしていた。
加藤から、刑事課の間宮さんが女とラブホに行く所を野川が見たらしいよと言われた時、相手は笹倉さんじゃないか、松永さんはそれを見て冷静でいられたのか不安になった。
でも、笹倉さんの自宅に伺った時に聞いた話と、間宮さんから聞いた話に矛盾は無かった。ラブホにも行ってない。だから二人の間に何もなかったのだから、もう俺は関わらないで良いと思っていた。
このところ松永さんに会うことは無くて、今日会ったら、松永さんが痩せていた。生気のない目をしていた。長めの髪をちゃんと手入れしてなくて髪がパサパサだった。葉梨は松永さんが食事を取らないと言っていた。
野川を笹倉さんのマンション付近で回収した後、松永さんは笹倉さんに会いに行ったと思ってたけど、行ってなかった。その足で署に行って武村に説教していたと間宮さんが教えてくれた。
だからあの日以来、笹倉さんに会いに行ってないんだ。
笹倉さんに恋人が出来て自暴自棄になっても、こんな事になった事なんて今まで一度も無かったのに。
やっぱり、笹倉さんの事でこんなに思い詰めてるんだと思った。
俺が言えば良かったんだ。
俺があの日に松永さんに言えば良かったんだ。
そうすれば松永さんは笹倉さんを行かせなかった。
そうすれば松永さんはこんな事にならなかった。
◇ ◇ ◇
いつの間にか薄墨を刷いたような空の色になっていた。バルコニーに激しく打ち付ける雨粒の音だけが聞こえる。
「……言います」
相澤は、水しか飲んでない、食事を取らないと葉梨が心配していたと言う。他の捜査員も気付いているから上にも報告が上がったが、インテリヤクザの米田は松永は女に振られたんだろと言っていたと。だから笹倉さんと何かあったんだと思ったと言った。
「で?」
「……それだけです」
――んなわけねえだろ。
相澤に身体を寄せた。膝を当てると相澤は後退りして行く。そのまま仮眠室の扉を背にするまでの一メートル五十センチを相澤の目を見ながら追い詰める。
怯えた相澤の逃げ道は仮眠室の扉が塞ぐ。
肘を相澤の肩に乗せて右手で髪を掴み、左手で額を押して顔を上げる。
相澤の顔を覗き込む。
前髪が相澤の頬に垂れ下がる。
「相澤さん」
俺と相澤は十五センチの身長差がある。だが、柔道のゴリラと剣道の俺では近接戦に強い自分の方が優位だと分かっているはずなのに、このゴリラは怯えていた。
「話してよ」
激しい雨の音だけが聞こえる薄暗い部屋で、時折通り過ぎる稲光と雷鳴が映し出すのは、怯えた相澤の表情だった。
「さっ……笹倉さんは松永さんが元気にしてると聞いて安心してました。だっ……だから笹倉さんは大丈夫です」
「優衣香と会ったの?」
「はい」
「……なんで、優衣香はお前に俺の話をしたのかな。お前から話したの? 初めてだよね、優衣香とお前が俺の話するの」
「…………」
「まあいいや。で、大丈夫って何が大丈夫なの?」
「…………」
「何が大丈夫なの?」
「……松永さんが元気にしてると聞い――」
「相澤さん、そうじゃなくて。俺はね、相澤さんが大丈夫だと思い至った原因と経緯を聞いてるの」
相澤は視線を彷徨わせていたが、俺の目を見ると覚悟を決めたのか口を開いた。
「笹倉さんは松永さんだけを想ってます! 松永さん! 安心して下さい! お願いですからメシ食って下さい!」
――こいつは優衣香と間宮の関係を知ってる。
俺は全身の血が沸き立つのが分かった。




