第二章③
ふと、どこかを走っているような気がした。
いや、どこでもないかもしれない。
尾ひれをつけながら、同じ円をクルクルと走っている気がする。
パッと広がる光の後にぼんやりと電柱と暗澹たる夜空が見えた。
下から覗くと、普段は頼りない灯りが眩しく目を刺し、闇夜が隠されるようだった。
自分がコンクリートの冷たい床に倒れていることが分かって、和樹は目を覚ましたことに気づいた。そして、
片足が地面を陥没させ、ひびを放っている。
その惨状が目に入る。
どうしてこんなことになっているのか? その答えが後頭部から次第に網膜へ映っていくような気がした。思い出したくないと止めようとするが、床に落ちた花瓶から水が漏れるように止めることはできない。
俺は殴られた。見知らぬ奴に。あいつは意味の分からないパワーで……。
気を失う前の出来事を回想しながら、体を起こし辺りを見回すと、
バキッ、と悲痛な音を立てながら二人の、和樹と同い年ぐらいの少女達が暴れているのが目に入る。
ゾクッ、と和樹は自分の背筋が凍るのを感じた。悪魔のような笑みと眼前に迫る拳がフラッシュバックする。
覚えがあった。暴れている二人、その片一方は先ほどまで自分を散々痛めつけてきた者、拳一つで人を何メートルも飛ばせる程の『力』を持った、自分とはかけ離れた存在だった。
咄嗟に足が震え動く。足をザワザワと動かし和樹は自分が後退りしていることに遅れて気づく。
(アイツは気づいてない。今のうちに……)
今のうちに?
あることに胸がざわめく。
和樹は凡そ人間が持つような力ではないものを有した者に殴られ、壁に叩きつけられて気絶した。
だが、今はその者に狙われていない。そして、その者が自分の視界から消えたとかそういうことでもない。そいつは目の前にいる。
となると、あの『力』――コンクリートを難なく打ち砕く恐ろしいパワー――の矛先となっている誰かがいる。必ず存在している。
和樹は一度は背けた顔を後ろに戻す。
ポニーテールの、不思議な緑色の目をした少女が殴打を受けていた。底の深いエメラルドの目が光を漏らす。
少し目を留めたその一瞬にも、ベキッ、と軽くもしかし確実に傷を与えるような音が響いた。少女は地面に叩きつけられる。
思わず目を背けたくなる。
だが、助けなければ。
和樹はそう胸の中で呟いた。
右手を握りながら立ち上がる。改めて両掌を握って、放して感触を確かめる。
そういや、なんか知らないけど、動ける?
和樹は壁に波紋状の亀裂を走らせるような勢いとパワーで叩きつけられた。そして足をコンクリートの地面に埋め込まれたはずだった。少なくとも普通なら死んでいてもおかしくはない手負いである。
だが、今は何ともない。骨が折れるどころか、打撲による痛みのようなものすら感じない。
意味が分からん。意味が分からんけど、動けるなら、あれだけボコボコにされても動けるなら……俺はアイツには対抗できるのかもしれない。
和樹は掌から暴れ続ける少女達に目を移しながら考える。
また、鈍い音が鳴った。緑の目を持った少女が倒れる。
あの力に、アイツに俺は……。
和樹はまた尻込みをする。だが、手を握り返し心を振るい立たせる。
いや、いける。なんでか分かんないけど今もこうして立ってる。なんとかなるはずだ‼
ダッ、と地面を踏み込み、駆ける。二人の間をめがけて走っていく。
走るその間にも、ポニーテールの少女は投げ飛ばされる。目はつぶっているように見え、もう気を失っているのかもしれない。
歯を噛みしめ、更にスピードを上げる。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼」
「あ?」
和樹は二人の間に滑りこみ、腕を前で重ねて構える。
少女を殴りつけようと構えていた『骨折り』は疑問と不快を、口を『へ』の形にしながら表していたが、目の前に現れたのが先ほどの、気を失う程まで痛めつけた男だと分かると、口を三日月のようにして、その弓を絞っていた。
「はは、ハハハハハハハハ、もう復活かあ?」
笑いながら、嗤いながら彼女は拳を加速させる。
和樹と『骨折り』の間にはやはり、隙間があった。拳はギリギリ和樹の腕には届かず空を切る。そのはずだ。
だが、『骨折り』はその間など存在しないように、躊躇なく拳を振る‼
(ツツツッッッッ‼)
ガンンンンッッッ‼
『骨折り』の『力』と和樹の体が激突した。今夜の中で一番大きな音が鳴り響く。
揺れる。その衝撃に体が震動する。だが、
ズサァァァ、と足底を滑らせながら和樹は『力』を受けた。
(痛……たくはない。耐えた……。耐えられた……)
和樹は『力』を受けきった。体こそ後ろに飛ばされたものの、打撃を受けたであろう腕には青たんどころか傷一つ付いていない。
腕を見ながら調子を確認する和樹に『骨折り』が口を開く。
「……流石だな。もう傷一つ付かねえか」
和樹はまだ油断できない、と返事はせず、ドクドク、と興奮したまま再度構える。
「えらい……、イイもんに会ったもんだな」
『骨折り』は『力』が効かなかったことなど気にせず口角を歪める。
次は何をしてくるのか、と立ちすくむ和樹に、背後から弱れた声が届く。
「だ、大丈夫……? ここは危ないから逃げ……」
何度も殴られたであろう、すす汚れ血の付いた口元を懸命に動かしながら少女は話す。あくまでも自分ではなく他人の心配をしながら。
「お、俺は大丈夫だ。なんでか知らないけど、それよりも……」
「はは、お前よりコイツの方が強いぞ。お前は下がっとけよ」
『骨折り』は誰がこの状況を生み出しているのか、など微塵も考えず倒れる少女を嘲笑う。
「これは……私たちが、私たちの中で解決しなきゃ……」
既にボロボロの少女はゆらゆらと立ち上がる。
「ごめんなさい。巻き込んでしまって……」
「いや……」
話など、敵は待ってはくれない。気配を感じて振り向いた時にはもう遅かった。『骨折り』は既に拳を振っている。
ガンッ、とまたもや硬い衝突音を立てながら和樹は腹から飛ばされる。
「うう……」
だが、こちらも先ほどと同様にダメージはなかった。ただ、飛ばされる、それだけだった。吹き飛ばされ、少し離れた位置で膝をつく。
「悪いが今日は、サンドバッグになってもらおうかなあ。どの攻撃が効くのか楽しみだ」
フフン、と笑う『骨折り』に和樹はどうすれば逃げられるかと頭を回す。指の関節から軽快な音を鳴らしながら『骨折り』は徐々に距離を詰める。
とその時だった。
前に出ようとした『骨折り』の体にどこからともなく『縄』のようなものが巻かれる。
「アー……」
溜息を吐く彼女と対照的に、寒空に透き通った声が三人に届いた。
「そこまでだ!」
応援だった。少女が『骨折り』と会敵する前に呼んでいた応援がやっとたどり着いた。
「お前は『骨折り』だな……」
敵を見据えながら二人の少年が路地に到着する。見た目は和樹らよりも少し大きく見え、高校生のような風貌をしている。
和樹は一瞬、理解に戸惑ったが、二人が味方と分かると肩の荷が下りたような気がした。何はともあれ、増援である。これで陣営は四対一と圧倒的に和樹・少女達側が有利になった。
だが、『骨折り』は狼狽えない。数的有利を取ってなお『骨折り』は焦る素振り一つ見せない。それどころか落胆しているようにさえ見える。
「ハァー、めんどくさい。今日はこれで終わりかあ……」
体に巻き付いた『縄』を難なく破る。一部が半球状に千切れた『縄』が力なく落ちた。
暗闇の中、鋭く光る眼光で『骨折り』は威嚇する。
「今日は面白れぇものを見つけられたからいいが――おいキョウカイ共。追手なんて付けたら潰すからな?」
有利な状況であるはずなのにその場の全員が蛇に睨まれた蛙のように固まる。動けるのは『骨折り』ただ一人だけだった。
鼻で笑いながら背を向け、彼女は夜の闇へ踵を返す。
次の獲物を見つけたかのように口の端を歪ませながら。
非力な者達を嘲笑いながら。
災厄は去って行った、立ち込めた霧が晴れるように。