第一章①
まだ寒さの抜けきらない三月の終わり。山が視界を大きく占める、中心街から少しはずれた町並みに太陽がその陽を照りつける。町の中心にある中学校で、田中和樹は体育館の壁に背を預けていた。甲高く響くシューズの音、ボールがネットを揺らすその音を和樹は聞いていた。畳まれた左足の傍で、首にタオルと保冷剤が置かれ、安静にしている右足に目を向ける。ああ、自分にはこの道が向いていないのかもな、と彼は思う。
「新人戦が終わってからだからなー。ここからだぞー」
監督の声が響く。時計は正午十五分前を指していた。
集合、と言われて集まる部員達。和樹は自分だけズルをしているような気持ちになり、自分も立とうとする。横のベンチに手をつけ、右足で床をつかないよう気を付けながら片足で立つ。体が震えるのが分かる。
「えー、あと三日で休みに入るわけだが――」
監督の話を頭に入れようと意識すると、バランスを崩し右足を突いてしてしまった。痛ッ、と声を漏らしながら和樹は尻もちをつく。監督を向いていた皆の目線が和樹に集まる。
「……、お前は座ってなさい」
話の腰を折られたのが気に食わなかったのか、監督は言葉を吐き捨てるようにして言い、顔を向き直す。すみません、とだけ言い、和樹はベンチに座る。背中にかいた冷や汗が足首に置いていた保冷剤よりも冷たく感じられた。
話が終わり、皆着替えに向かう中、二、三人が和樹の元へやってくる。最初に声をかけたのは、和樹と小学校からの付き合いである健太だった。未だ公式戦に出たことがない和樹は、先の新人戦で出場した健太に対して一瞥をし、手を借りながら立ち上がる。ああ、十二時半か、帰りどうしよう、和樹はそんなことを考えながら、健太の肩を借りた。
「捻挫かー、酷くないといいね」
「ああ。まあ最悪だけどな……」
職員室までの道のりを和樹は床に目を落としながら歩く。僕も一年生の時に捻挫したけど、あそこの病院がよくしてくれた、と健太は言葉をかけるが、和樹の耳には入っていなかった。練習に励んで二年弱、新チームが発足してから半年、新人戦が終わってから一か月、過ぎた時間ばかりを考え、不安とも失望とも判別つかないその茫漠としたものを頭に抱え、目の気色が失われていくようだった。
和樹? と問いかける健太の声が、休日の誰もいない廊下に響く。
「あっ、ああ、ごめん」
「大丈夫?」
心配はいらない、というような事を言い、肩から腕を離す。二、三回促してやっと離れる気になった健太を目で見送り、職員室前の椅子に座る。
はぁ、と言って天井に顔を向け、音響かなにかの目的で存在していると思われるヒビのようなものを見る。
帰り、そして勉強、やりたくねぇなあ。
五分程そうやっていると、監督が近づいてきた。首から下げた笛が揺れて小さな音を鳴らす。いくつか質問をして状態を確かめた後、帰宅について和樹に尋ねた。
「帰りは親御さんに迎えに来てもらうか」
「いえ、どっちも仕事なので歩いて帰ります」
「しかしさっきも転んでたし大丈夫か」
はい、と答え、その後の受け答えは判然としないものとなった。意思が相手に伝わらないのではなく、和樹の頭に監督からの言葉は残らなかった。
誰かと共に帰りたい気分ではなかった。先に昇降口へ向かい、裏門から学校を後にする。右足を気にしながら歪な歩き方で家を目指す。静かな道路沿いを行き、中心街へ向かうバスとすれ違う。方向幕に映る《旧都》の文字も、バスの中の賑わいも和樹には届かなかった。周りに大きな商業施設などがあるわけではないが、交通の便はさほど悪くはない、閑静でいて涼しさすら感じさせる住宅街のその道が、和樹にとっては自分のこの世に対する希薄さを感じさせる、そのためだけの道に映った。
途中で公園に差し掛かり、立ち寄って休みを取る。自分が中学生になった頃のことを思い返す。入学してすぐに始まった部活紹介。周りの声援を受けて活躍する先輩、その姿、立ち振る舞いに心が躍った。
一点差のラスト十秒、パスを受けて一人躱しレイアップシュートを放つ。ゴール、という響きが実況によって、歓声によって何倍にも膨れ上がるその瞬間。駆け寄るチームメイトにハイタッチをし、とめどない拍手喝采に迎えられる自分を和樹は想像した。頭で反芻していた賞賛の言葉が、公園の脇を抜けていく車の騒音と入れ替わって、まるで救急車のサイレンのように遠ざかっていく。
和樹の目に映っていたのは、ベニヤ板にニスで加工した体育館コートではなく緑の葉が揺蕩う公園であった。先に見える葉に目が留まる。春の訪れを謳うかのような葉の擦れと風の音から、和樹は野外のベンチに座っているという、ただそれだけの事実しか受け取ることができなかった。
帰って、寝よう。そう思い、立ち上がって歩き出した。
重い目を凝らして体を起こすと、茜色がリビングに差し込んでいた。和樹はソファーで横になっていたのである。テーブルに置いていたスマホを取って見ると、淡泊な白線のうねりが十八時八分を示していた。和樹は頭に十九という数字が浮かぶも、無視してニュースをSNSサイトでチェックする。何の音も色も無い時間が流れるのだった。
鞄を持ち、時計を見ながら家を出る。バスに揺られ着いたのは駅前の学習塾だった。授業前に塾内で年数回開催されるテストの結果が返却された。気だるげに成績表を開くと和樹の偏差値欄には四七と書かれていた。
寝ていてはもちろん、起きていても頭に残らない話を聞き終えて家に帰ってくる。玄関に靴が増えているのを見て、声高にただいま、と言う。リビングに入ると母親が料理をしていた。
「おかえり、手を洗ってきなさい。先に食べるわよ、お父さん飲み会らしいし」
「……、分かった」
振り返らず背中で言う母を目の端に流し、和樹は洗面所に向かう。
戻ると、食卓に並んでいたのは麻婆豆腐だった。その皿に映る、いつも変わらない赤、黒、琥珀色は市販の完成された調味料を元にして作られたものだと示していた。
「明日も部活よね。できれば朝に洗濯物を干して行って頂戴、私明日朝早いから」
「ああ」
少し間を空けてから、和樹は捻挫について話す。
「あの、明日病院行くわ。捻挫した」
「歩けるの」
「うん」
「……、そう。保険証はいつもの棚に入ってるから」
和樹の母は一瞬目を、俯いて食べながら答える和樹に向け、また戻して返事をした。自分の取り皿へ箸が三往復するほどの沈黙があって、母親が言う。
「和樹、勉強は」
一瞬、今日返却されたテスト結果を思い浮かべながら、濁った声で「やってるよ」と返事をする。
「そう。もう三年なんだしちゃんとやりなさいよ」
「うん」
それからは箸と食器の音がするだけだった。
目が開く。何度か瞼が視界を覆うと、次第に鳥の声も耳に入ってきた。体を捻り、手足を、大の字を書くように広げる。少し何も考えずにいた後、右足首に触れる。押してみて何も感じなかったので、ベッドから降り歩いてみると、しかし少し痛んだ。
一階に下り、朝食用のパンをトースターに入れる。ソファーに座ると、何も掛かっていない竿が陽を浴びて光っているのが目に入り、和樹は洗濯物を干せと言われていたことを思い出す。父も母も出かけ、身に余るようにでかい一人だけのリビング。リモコンを押すと、白く何の音もしない部屋にガチャガチャと人々の声が入ってくる。報道番組が丁度終わり、十時に差し掛かったことが分かった。地名が書かれているのにどこで行っているのか分からない散歩番組を見ながら、和樹は部活では今何をしているのかと想像する。
基礎練が終わったとこだな、それで「集合ー」だ。皆なんて思ってんだろうな、いや多分大して気にしていないか。健太は心配してんだろうな、アイツは……真面目だからな。
そこまで考えて、和樹の空想はトースターの音で遮られる。
朝食を軽く済ませて、着替えをし、病院へ出かける。今年度は今日を含めて残り三日しかない練習日を思う。
休み、……また出られなくなるな。和樹は目を細め、鼻で笑う。
中学校の部活において、『態度』は試合に出場する上で重要になってくる。自分はこれだけ努力をしている、声を出している、テキパキと行動している、チームのために動いている。
そういったことをアピールしていかなければ、試合には出させてもらえない。
一日休むことも許されない、休むたびに一歩ライバルとの差がつくのだ。
和樹はそんな風習を馬鹿馬鹿しくて思っていた。いや、違う。そんな競争についていかれなくなったそんな自分にどこか呆れていた。
二度の待合室を経て、診察が始まった。和樹は病院、とりわけ骨や関節、筋肉などを専門とする整形外科に来ていた。いくつかの質問と触診を受ける。医師が出した答えはおおよそ想定していたものだった。今日は湿布を貼り安静にし、大事を取って明日も休めば大丈夫らしい。
触っただけで分かるのか、良くならなければまたいらして下さいってこうやって金を絞りとるのか、などと和樹は邪推をした。薬局で湿布を受け取り、帰路に着く。
駅前の整形外科を出ると、照り付ける太陽がまだ正午であることを伝えていた。和樹はまた、今は体育館の壁に沿っておにぎりを食べている時間だな、などと部活に意識が向いていく。だがそれも、半日と一日ある真っ白な自由時間を思うと霧散していった。何をすべきだろうか。勉強? そんな阿保なことはない。ゲーム? と思いめぐらせたところで、常にインフレし際限がなくて止めたソシャゲを思い出して、首を掻いた。
午後は無為に過ごした。コンビニで買ってきた弁当を食べ、大して興味もない動画視聴に二時間も費やした。気が付けば時計の針は四時を回っていた。湿布が貼られた足首を見て、特にすることもないので寝ることにした。
暗い自分の部屋で目を覚ます。枕元に置いたスマホを見ると、今が二十時であること、健太が心配してメッセージを送ってくれていたことが分かった。なんでもない、病院に行っただけ、と返事をし、SNSを開いた。知らない誰それの不祥事と興味のない広告が流れるだけで何も面白くなかった。起き上がると、足の痛みが大分減っていることに気が付く。明日はどうするべきかと考えていると玄関で音がした。
二階から降りて、母の後にリビングに入る。
「おかえり」
「ただいま。足はなんて言われた」
「湿布しとけば治るって。明日も安静にしろって言われたけど」
「そう。部活は大丈夫なの」
和樹はソファーに座りながら、うん、と答えてリモコンに手を伸ばす。いきなり笑い声がリビングに響き渡り、部屋の空気が変わる。母親も台所で手を洗い、夕食の準備をし始める。テレビをつけた時こそ気がまぎれたものの、やがて内容が面白くないと感じると、やはりいつもと変わらない無味乾燥な家がここにはあると和樹は思った。
夕食を終え、再び自分の部屋へ戻る。まだ消化途中であるのもお構いなしに、体をベッドへ投げ出す。夕方から寝ていたせいか、目が覚めていた。興味もないのに、いつかの、何だったかも分からないような感情の残り滓に引かれて、SNSと動画サイトを行き来する。人参をぶら下げられた豚のように、ひたすら画面をめくる。父の帰宅にも気づかないほどに。
日付が回り小一時間経ったところで画面から目を話す。水分を取るためリビングに戻る。水を飲みながら、和樹は普段しない夜更かしに不安を抱きつつも直そうとは思わない自分に気づいた。そんな思いを払拭するように、最後の一口を、喉を鳴らしながら飲み込む。手を握ってみて、風呂に入ってないな、と思ったが、入る気にはならなかった。布団を纏うようにして被り、眠りについた。
次の朝は十一時に起きた。十時間は寝ているはずなのに、頭が痛かった。寝ぼけた頭をもたげて、冷めたスクランブルエッグとほうれん草の炒め物を口に運び、朝食とした。ぼうっとスマホを眺め、昨日入らなかった風呂に入り、出てくると既に短針が一の印を越えているのが目に入って片眉が少し吊り上がる。
明日は二年最後の練習だし、こんなんじゃだめだな。
髪をバスタオルで無造作に拭く。和樹は明日の、連休に入る前最後の練習に出るつもりだった。たとえそれがたった一日の練習であっても。
足を拭いていて、昨日の夜に湿布を貼り忘れていたことに気づく。痛くはない、だが念のため貼っておくことにした。
和樹は中学生なってから自分の時間を部活、学校生活、勉強に費やしていた。勉強においては、塾と学校の宿題をこなすだけだったので、成績自体は芳しくなかったが、部活以外に熱中しているものもなく、暇な時はバスケの練習をするか、スマホをいじって時間をつぶしていた。なので、部活がなくなると何をしたらいいのか分からない時間がこんなにもあるのか、と驚き、途方に暮れた。
捻挫を直すために家にいるのだから、散歩などにも行けない。今までは渋りながらもなんとかこなしていた宿題もなんだかやる気が起きなくなっていた。
中身のない空き缶を傾けるようにスマホを触り、リモコンの凹凸を触り、気づけばソファーで首を痛めながら寝そべり天井を見つめていた。
数日前とは大きく違う生活を送っているがそれでいいじゃないか、だって眠いんだから。コップに水を注ぎながらそう思った。ソファーで横になり目を閉じる。なぜ眠いのか、その答えは知らない、どうでもいいと感じながら眠りに落ちた。
昨日と同じように夜の中途半端な時間に起き、夕食を消化した。何もすることがなかったが、寝れもしなかった。部屋の隅で転がっているバスケットボールを拾ってみても、数回ついただけで終わった。
横になり、額に左手を当てながら瞼を閉じる。口からは溜息が漏れた。暗闇にはまた歓声が戻ってくる。
最後に皆の視線を集める、チームの点取り屋、シュートガード。和樹が憧れたポジションだった。
ディフェンスを躱す、スペースを作ってパスを受ける、そしてシュート。決まると最高の気分になるポジションだった。だが、それだけにライバルも多かった。練習試合で出場しても、必ず点差で負けてしまう。目の前の、掴むところなどどこにもない壁を自分だけが登れないようだった。
ビハインドで追いかける新人戦、ベンチで声も出せずにただ試合を眺める光景、大会前に名前が呼ばれユニフォームが配られる瞬間が脳裏に浮かんだ。心臓がうるさく鳴るような気がした。とても嫌になって、うつ伏せに寝返りを打った。
山々に囲まれた都市に朝日が降り注ぐ。まだ肌寒い街路を乾いた音を立てながら軽トラックが通り抜ける。都市の西に位置する住宅街、その一角。一軒家の二階で和樹は体を縮こませて眠っていた。
穏やかな波打ち際に寄せては返すように、上下する体。いつもと変わらない朝だった。
静かな一間に甲高い電子音が響く。意識せずとも動く手で音を止める。時刻は七時半、いつもの時間だった。寝不足によるのか薄っすら頭が重く感じ、起きたくない、と和樹は思った。
途切れ途切れに耳に入ってくるニュースのことを考えながらパンを食べる。和樹の前には珍しく父と母がいた。
だが、どのように足を出すかを意識して歩くことなどないように、ともに食卓を囲む日が数日なかったとしても、それが変わった事とは毛頭考えずに三人は食事をとる。母が口を開いた。
「突然で悪いんだけど、私明日から出張に行かなくちゃいけないの」
眉を上げ、口に含んだものを飲み込んで父が答える。
「本当か? しまったな、俺も明日上司と付き合いがあるんだよ。もっと早く言えば良かったな」
「そうなの?」母も驚いたように答えて続ける。
「和樹はどうする、明日から休みだっけ?」
「うん」
母は食器を流しに持っていき、リビングに置いてあったいつも仕事に持って行く黒革のトートバッグから財布を取りだした。
和樹の食器の隣にパサリと一万円が置かれる。
「これあげるから、好きなようにしなさい。ただ、勉強もするのよ」
「ん」
和樹は一と〇が四つ並ぶ紙に目を落としながら、目玉焼きを含んだ口で答えた。父は横を向いてテレビを見ていた。
母も父も仕事に向かった後、和樹は一人でソファーに身を投げていた。
今日は二年生として最後の練習があるので、学校に行かなければならない。
時刻は八時五分。部活の練習は九時から始まるので、八時四十五分には学校に着いていた方がいい。家から学校までは二十分掛かるので、そろそろ準備をしないといけない時間だった。
あと二十分、と考えて頭に準備をする自分の姿が流れる。まだ大丈夫、とスマホの電源を触る。
画面上部の「8:14」という数字に目が移った。画面を切って、スマホを伏せる。数秒目を中空にさまよわせてから、また画面を映すスマホに目を向けた。一つ時を刻んだのを見て、和樹は側面の電源をカチカチカチと連打した。
逃げるとは何だろうか。自分の責務、義務、または課題などと呼ばれる荷を、肩から降ろすことだろうか。いや、自分の身を守る防御反応かもしれない。
逃げるとは何が良くないのか。先の結果より過程が重要なのか。
右に伸びては戻り、左に伸びては戻るゴム塊のように、和樹は留まっていた。
動画サイトを開き、検索欄に文字を入れるわけでもなく、まるでパチンコのノブを回すように、画面を引っ張っては放し、それを繰り返して画面を更新する。時々動画を開いても一分、数秒で見るのを止めてしまう。そして、サイトトップに戻り、また画面を更新し続ける。
次に顔を上げた時には、時計は九時二分前を指していた。
和樹は部活に行かなかった。
首と腕が痛くなり、体を起こす和樹。眠気が残っているのか、画面を見続けたことによるものなのか、その目はしずくを帯びていた。尿意を感じて、トイレへ向かう。
リビングへ戻り、掛け時計を見ると、十一時十分を回っていた。テーブルに置きっぱなしなっていた一万円札を親指と人差し指で拾い上げる。浅い息を吐いて、自分の部屋へ持って上がった。
意味の知らない外国語を掲げたスーパーに入る。カップ麺、中華などが手軽に作れる即席調味料など様々なものに目が移った。それらを気だるげな足取りで横目に流しながら、値段のことを考える。
調味料が二百円、肉が三百円、人参三十円、キャベツ百円、ネギ六十円……。高いなぁ。
食材を元の場所に戻し、結局冷たそうな白米に小さな梅が乗った弁当を買った。
出口に向かう途中、アーケードゲームやクレーンゲームの筐体が並べられたアミューズメントエリアが見えた。
機械のスピーカーからワラワラと辺りを包むガスのように音が出て、和樹は煙たいと、そして懐かしいとも思った。家のどこかにしまってあるだろうゲームのカードが脳裏に浮かんだ。一枚百円なのに、山のようにあるカード。来る時は大体三、四百円程しか持っておらず、筐体に百円を入れる度に汗ばんだ手で残りはいくらかと考えていた。あの頃には考えもしなかった大金が今財布に入っていることに和樹は空しく思った。
陽光を反射する車が走り、灰色に乾く大通り。幼子と母親の声が喜々と、そして薄らいで聞こえる公園。凪いだ住宅街。自分の足音と手に下げた袋の擦れる音がいつもより大きく聞こえ、真綿を詰められたような胸で息を吸い、和樹は玄関を開けた。
母の出張と父の接待が終わって三日。三年生の始業まであと二日になっていた。特に出かけもせず、家の食材を食いつぶして生きていた和樹、休日の今日は母が作った昼食を一緒にとっていた。相も変わらず、勉強の進度について聞かれ、適当な調子で答える。
「……、和樹あなたね、勉強なんて皆やってることよ。勉強するなんて前提でしかないの、それから自分の、他人との違いをアピールするのよ」
「んー」
茶碗を持ち上げ、早く食べ終わりたいと思いながら、答える。
「分かってるの? 和樹」
「分かってるって」
返却されているはずだと、塾のテスト結果を問われた和樹は食器を流しに戻して――わざとシンクに叩きつけながら――自分の部屋へ上がった。
机の引き出しを開け、最新のものではなく、約一年前の結果の良い用紙を引っ張り出し、年度が見える上部をくしゃくしゃに握りながら母に見せる。
「偏差値五十……、全くやってないわけではなさそうだけど、平均じゃない。裏も見せて、理科社会は?」
「まだない」
上げた腕を手前に引っ込めて答える。
「まだないの? 今年受験よ? ……、まぁいいわ。けど和樹もっとやらなきゃだめよ。今はみんな夏休み前で勉強してないけど夏以――」
和樹はギリッと歯軋りをした。
うっっざ! 本当にうざい。そんなもん何も役に立たねぇじゃねぇか!
母の呼び止めを無視し、リビングの扉を開け放って、床を踏み鳴らしながら二階へ上がった。
結局何も分かってない。試合に勝つには点が必要で、点をとるには、数学の公式とか年号とかおしべがどうとか、そんなことじゃない。必要なのは、身長、ジャンプ力、視野、瞬発力だ。
和樹は思って、ベッドの端を拳で叩き、そして目が見開いた。透徹した瞳からは、ロウソクの灯が消えるように、光が消え、虚ろになっていった。
彼は何を思ったのだろうか。自分はそれらの必要なものを揃えることができなかったことだろうか。それともそれらのために自分の時間を使っていないことだろうか。和樹の頭の中に明確な言葉は浮かんでいなかった。体を覆う、夏の湿気のような膜が、これまでの経験で生まれた無意識が彼を虚脱させるのだった。
昼からずっと自室で過ごし十六時程になって、部屋のドアがノックされた。父の声だった。
「和樹、最近一歩も外に出てないんだって? いくら部活が休みだからって、少しは陽を浴びなさい」
返事はしなかった。さっさと離れて欲しかったからだ。それに、塾があった昨日はちゃんと外に出ている。
「なあ、聞いてるのか、和樹」
「ああ、わかったって」
ベッドに横たわっていた体を顔と胸だけ起こし、叫んだ。腕を掻いた、いや、和樹は自分が腕を掻いていることに気づいた。足を床に下ろし腿に腕をついて、溜息を吐く。むしゃくしゃした。深夜までふらついてやろうと考えた。もらった一万円はまだ数枚の千円札と小銭になって残っていた。
階段を下りる。廊下の扉から、ガラスを通してリビングが見えた。父は姿勢を崩しながらテレビを見ていた。
やり場のない気持ちを抱えながら、玄関から外に出た。