序章
少年は走る。〇〇と自分の名を叫ぶ者をおいて、少年は逃げる。
「穢れた我らが御神体に触れるなどあってはならん。ましてや、身分を捨て、お清め様への奉仕を放棄するなど言語道断だ。必ず連れ戻せ」
ハァハァ、と肩で息をしながら少年は森を走る。時折、後ろを確認しながら、その小柄な体を駆使し、木々の間をすり抜けていく。稜線に半身を沈める、朱色の夕日が深緑とつつ闇の地に冴える。少年はひたすら駆けていく。
そして走る傍ら、しきりに自分の掌を見つめるのだった。まるで、そこから何かが生まれて来るかのように。
山々に囲まれ、鄙びた村では松明を持った人々が走り回っている。見つからない、日が落ちてきているのでこれ以上は、などと口にすると、周りと比べて厳かな着物に身を包んだ男が声を張る。
「我々はお清め様に身を捧げて暮らす、共同体なのだ。欠けることなど許されはしない。ましてや、親に刃物を向けるとは……」
手に布を巻き付けながら、顔をしかめる。
どこに隠し持っていたのだ、厨に入れた覚えなどないが。
男は御神体が奉納されている社へ顔を向ける。
やはり、氏神様の祟りであるのか。
目線の先には、屋敷の庭の丘、その上に荘厳な社が立っていた。小さな小屋程の社である。
……。
男は向き直り、唾を飲んで村人らへ言いつける。
「奴はお清め様の祟りを受けている。注意して捜せ」
森とも山とも判別がつかない闇の中を少年は走る。茂みを掻き分けて進み、苔に覆われた大木に手をついて一息つく。肩で息をしながら、掌に視線を落とした。
そこに、何かが、物が浮かび上がった時を思う。これまでの人生で一度もなかった、その初めての瞬間を。
拳を握って、放す。耳を撫でる虫のさえずりを聞きながら、汗ばんだその掌を見る。
息を飲んで力をいれ、握り拳を作る。
ぐっ、と数秒力を入れていると、徐々に、爪や人肌、皮とは違う感覚が拳の中で生まれ始める。
ゆっくり手を開くと、
そこには粗くも一筋の刃を持つ鉄片があった。
「宮様。ご子息が南東に――」
貧相な衣服に身を包んだ男が手首を押さえながら、屋敷の庭へ入ってくる。
宮と呼ばれた男が傷の訳を聞くと、鋭い鉄片のような物でやられたという。血が付いた鉄片を宮が受け取ると、居合わせた人々が口々に戦慄き始める。
宮は鉄片を見つめ、眉を顰める。自身に傷をつけた刃物と同様、どこからこんなものを持ってきたのか、その疑問が宮の頭に残る――。
午後、陰が伸び始めた屋敷の中庭に夕風に乗った葉が舞い落ちる。
「違う! そうではない! なぜ分からんか。お前は家を継ぐということが分かっていない!」
宮はうずくまる息子に、少年に怒号を飛ばす。
少年はハァハァ、と肩で息をしながら声を漏らす。
「……いつまで、」
ごくりと唾を飲む。
「……いつまで続ければ良いのですか?」
「完璧になるまでだ。お前は最後まで終わっていない」
「……そんなの、終わるはずがない」
弱々しい独り言など耳に入らず、宮は続ける。
「代々繋いで来たのだ。私も最後まで血反吐を吐いてやった。お前だけ止めるなど甘いことは許されないぞ」
言いたいことを吐き終わって、今度は体に叩きこんでやると前へ出ると、少年は身をひるがえした。
「‼ おい! 待て!」
少年は簀子の縁側から屋敷に入り、逃げていく。
「待ちなさい‼」
宮も続いて追いかける。
少年を追いかけ離れに出た宮は、彼が屋敷外縁の丘を掛け、普段禁足とされている社に入っていくのを目にする。
「何をしている‼」
思いきり社の入り戸を引き、叫ぶ。
少年は中で、縄に締められ祀られている宝玉に触れていた。
「お前……、御神体に触れるとは何事か‼」
怒号を吐いて近づく宮に、しかし少年は目を落としたまま動じない。
首元を掴もうとしたところで、少年は勢いよく顔を上げ立ち上がった。
「ッッ‼ おい‼」
気圧されつつも、しかし逃げると見える少年を抑えようと手を伸ばす宮だったが、思わぬものを目にする。
「ああああああ‼」
少年が何かを振り回したのだった。
「ウッ‼」
その何かが宮の手首を擦っていく。
なんだ? これは……。
飛ぶ血を見て慄くも気づけば、少年は戸口の外へ足を出していた。
「ッッ‼ 待て! 待ちなさい‼――」
お清め様の祟り。それが如何ほどのものであるのか、巻物でしか知識を得たことがない宮にとっては到底掴めぬものであった。蛇が出ると分かって藪に手を伸ばす者など、恐れを知らぬ武者か、知恵のない阿呆かのどちらかであると思っていたからだ。だが、体験によってもたらされる知がどれほどのものであるかということも分かっている。
顎を触りしばしば逡巡していると、向こうから娘が廊下を歩いてくる。宮は娘が目に入ると、不気味にその口端を吊り上げた。
社の戸を引くと、区切られ一段上がった床に祭壇が設けられているのが目に入る。宮とその娘は屋敷の離れ、丘の上に建つ社に来ていた。
「さあ、御神体に触れるのだ」
宮は後ろから娘の肩へ抱くように左手をかけ、右の掌を白布の上に置かれている宝玉に向けた。
「お言葉ですが、お父上様。不浄の私共が、御神体に接触するなどあってはならないはずでございます」
「違うのだ。お清め様に仕え、一心同体である我々から欠ける者などあってはいけない。我々を背く背徳者を捕まえるため、お清め様が奴にどのような罰をお与えになったかお聞きせねばならない。お前が御神体を通してお清め様からお言葉を頂くのだ」
勿論、宮が考えていることは違う。宝玉に触れたからといって、信仰対象の神、お清め様と交信ができるとは思っていない。ただ、少年が、出自の分からない刃物のようなものを持って逃走を続ける少年が、あの時御神体に触れて何が起こったのか、そのことを知りたいだけである。娘を連れてきたのは祟りの矛先を自身ではなく、彼女に向けさせるだけのためだ。犠牲になってもらう捨て駒ほどにしか考えていない。
普段少年を厳重に管理する宮は、出自に当たりがつかない彼の刃物を、ついに自身の歪んだ好奇心も手伝って、お清め様の祟りによるものではないかと考えた。
「しかし、私のような下賤の者がよいのでございましょうか」
「構わん。さぁ」
宮は恐れとも企みとも分からない表情を浮かべながら、娘の背中を押す。祭壇に近づき、御神体に触れる娘。どうだ、と聞かれるも虚ろな目で掌を眺める娘に、宮は血の付いた鉄のような破片を見せ、これはお清め様のものではないのか、と尋ねる。だが、娘がその破片に触れた刹那、二人は驚愕を露わにした。
娘が触れたその破片は、まるで薄氷を砕くかのように崩れ始め、やがて煌めきと共に消え去った。