市場の商品
少女は“石の道”を進むそりの震動で尻が痺れるのを感じながら悩んでいた。
聖女への道を歩み続けるか、あるいはほかの道をゆくか。
手の中の三つ編みを見つめる。
両親の遺体を見てから我を失い、アディグに担がれて町を出た時点では記憶が曖昧だった。
だが、彼がずっと自分を守ってくれていたことだけは、芯を通したように信じており、それを骨組みに虹色に輝くナイフが夢とはさかしまにゆっくりと記憶を肉付けしていった。
最初こそは、「わたしが自分で髪の毛を切った?」、「聖女様になりたくないなんて言った?」、「アディグったら、バカじゃないの?」……などと思っていたが、次第に自身が大きな岐路に立たされていることを自覚した。
聖女に憧れていることは変わらない。順位付けをするならば、彼女の中の二番目に位置している。
両親の死も、俯瞰して眺められるようになってからは、家族としての思い出よりも、地下室における関係のほうが自分の中で重視されていることに気が付いた。
連れ合いに励まされたとはいえ、ここまで早く気持ちが立ち直ったのも、それが関係していた。
では、一番の望みは何か。タマナは、ちらと横の席で居眠りに興じる相方を盗み見た。
――このままずっと、冒険をしていたいな。
これは聖なる道とは相反する願い。
聖女の暮らしは基本的に、たまに首都の大神殿に呼ばれる以外は神殿に縛り付けられるものだ。
地下室よりはマシとはいえ、何かにつけて禁止事項も多く、大抵の宗派では結婚や出産は引退を意味している。
厳密には色ごとや営みも禁止はされていないのだが、神聖なる印象と偶像的性質によって、破れば信者に見放されてしまうので、結果として役目を果たせなくなり交代となるのである。
タマナだって、所帯じみた聖女には憧れを感じない。
「お、アラムに入ったか」
あくびと共に連れ合いが目覚める。
――普通のお嫁さんもいいなあ。
今のところ、伴侶の候補の筆頭としてアディグが挙がってるが、満点を付けているわけではない。
まず、自分より背が低いのは不満だ。カネ持ちとは言わないが、その日暮らしな点もダメ。
喧嘩っ早いのは不安だが、それは腕っぷしが強いのが反転させる。
だが、頭突きだのこぶしだのの戦いかたはスマートじゃない。できれば騎士のように剣で戦って欲しい。
いやまあ、騎士が剣を振るっている現場など見たこともなかったので、少女が勝手に書物から膨らませた想像に過ぎないが。
一匹狼という点はタマナ的には高評価だ。表向きは犯罪者で、じつはいい人なんてのはぐっとくる。
彼の場合は身勝手なだけにも思えるが……。
この三日間で手習った石工の仕事も悪くない。
石工なら、多少の旅もできるだろうし、落としどころとしては及第点だろう。
――でも、できれば……。
高身長の騎士になったアディグを、聖女となった自分の脇に置いて、スキャンダラスな失脚のすえに駆け落ちをし、長旅のすえに落ち着いて家を持ち、そんな過去のことをそしらぬ顔で自分の子どもにおとぎ話として聞かせる……そんな感じの女になりたいと思ったのである。
「見ろよタマナ。どいつもこいつもお行儀よく並んでるぜ」
いつの間にかスラムに突入していたらしく、糞や粘土の壁と布の屋根で作ったバラックが立ち並ぶ風景が始まっていた。
道を挟むようにできた家の列の前では、ぼろを着たりぼろすら着ていなかったりする連中が整列している。
「おこぼれ待ちだな。こっちとしては馬が怪我をするからやめて欲しいんだが」
ラルクスがぼやいた。
言ってるそばから後方より悲鳴。
隊列のまき起こす砂埃の中から、子どもが跳ね飛ばされて転がった。
「欲を出してこぼれた石を拾いに出たんだ」
棟梁のおやじは振り向かずに続ける。
「俺はこの仕事を気に入ってるが、これだけは好きになれねえ」
「この人たちはどうして真っ当に働かないのかな……」
「職が無いんだよ。畑をやろうにも、向いた土地がねえんだ。俺も教団様に寄付をしているが、彼らも手が回り切っていない」
ラルクスは残念そうに言う。
「おっさん、それは違うぜ。教団はただでよくやってるよ。こいつらのやる気が足りねーんだ。土地だって、糞や灰を混ぜてこねれば畝に変えられる。スラムでもやる気のあるやつは試してるよ。もっとも、芋や麦じゃなくって、ハッパばっかり育てるんだけどな」
「教団様の悪口を言ったつもりはねえよ。ハッパは頭をおかしくする。儲かるからといって安易に手を出すべきじゃない」
「賢い奴は自分では吸わないぜ。買うのはバカどもだ。吸わなきゃやってられない、つってな。飯を買うカネもねえくせにさ。ケムリを吸えば、無い頭がもっと足りなくなるってわけだな。ガキからジジイまで、みーんなだぜ? 生きるために吸うなんて言いながら、ケムリのために生きてやがる。バカだよ、バカ。バカは馬に蹴られるのがお似合いだ」
「だから、あの子もああなったって言いたいのか?」
ラルクスは不機嫌そうに返した。
「どうかな。あんがい蹴られるのも織りこみ済みかもしれないぜ」
「そんなわけがあるか!」
「あるんだよ、それが。おっさんみたいないい人がいる限りな」
アディグは腕を組んで笑っていた。
ラルクスはいよいよ青筋を立てて立ち上がり、彼に向かってげんこつを振り上げた。
タマナは、目的地に着いたから横柄な態度に出たのかと思い、恩人のこぶしを悼みつつも、石頭の騎士様に減点をつけようとした。
「物乞いって仕事で稼げるのはどんな奴だと思う? 怪我をした子どもと、赤ん坊を抱いた女だ。おっさんだって、そいつらが元気そうな男と並んで物乞いをしていたら、可哀想なほうをひいきするだろ?」
「くそ……。確かに、どこに行ってもそういうのが多いとは思ったが……」
ラルクスはこぶしを下ろすと座り、額を押さえた。
「運をつかんでしぶとく生きる奴は、税金に文句を言って飢える奴より立派だと思うね。だけど、たまに怪我を装ったり、にせの傷を作るセコいのもいるから、騙されないように気を付けるんだな。教団様も、その辺までは見えてないから、そーいうクソどもをつけあがらせる」
「教団様の悪口はよしてくれ……」
「そうだよ、やめなよアディグ。ラルクスさん、ここには“正長石の宗派”の神殿があるそうですけど、聖女様もいるんですか?」
「嬢ちゃんは聖女様になりたいんだったか。残念だが、ここにあるのは小さな分殿だからな。ご神体こそはあるが、聖女様はいらっしゃらない。それでも、施しはそれなりにやっていらっしゃるよ」
「なんだ。つまんない」
「つ、つまんない!?」
おやじは目を白黒させた。
「やっぱり聖女様がいなくっちゃ」
「はは……。まあ、神官はいるんだがな……」
「正長石みたいな有名な宗派の神官様なんて珍しくないよ」
タマナは鼻で笑った。
石運びのキャラバンはアラムの町の中央にある広場に到着した。
広場は十台以上ある車やそりと、それを牽く馬たちを納めても有り余るほどの大きさがある。
隊が到着する予定は早馬によりあらかじめ伝えられており、広場で開催される市場も彼らのための空間を空けている。
一件だけ、ござを敷いてしつこく居座っていた年寄りの女がいたが、兵士をともなった役人が担いで彼女ごと撤去している。
老婆は運ばれながらもパイプをふかして暢気なものである。
「じゃ、ここでお別れだ。俺は役人と仕事があるからな」
「手伝いはもう終わりでいいのか?」
「石くれのよりわけ作業の募集を掛けてるから、やる気があるならこい。普通は身分のはっきりしない奴は採らないが、おまえたちは特別だ」
「細かい作業は苦手なんだよな……」
言いつつもアディグは腕を組んで悩んでいるようだ。
「駄賃はお嬢ちゃんのほうにまとめて渡しておくな」
ラルクスから重たい革袋を渡される。
これは、あらかじめ取り決めておいたことだ。棟梁曰く、「財布の紐は女房が握れ」。
そのほうが男のやる気もご褒美のビールの味も上がるのだそうだ。
雇われ作業員たちも、待ち構えていた家族に給料を渡して、その足で広場を囲う飯屋へと向かっている。
「わたしたちは、まずはお買い物かな」
市の店には格差があり、縄張りの主張にござやカーペットを敷くだけの一般市民や、移動式の屋台や、武装した男や馬まで連れた身なりのいい商人までさまざまだ。
誰しもが一様に自身の商品を喧伝し、良客と盗っ人に目を光らせている。
商品もじつに彩り豊かだ。
飲食物だけにしても、果実や野菜を専門とした八百屋、酒やジュースの樽を並べる店、たれ漬けした肉をその場で焼いて香りを無償提供する気前のいい店もある。
麻織物や古着を扱う店もあれば、恰幅のいい商人が輝く絹や装飾品、珍しい模様の絨毯を見せびらかしていたりもする。
さて、連れ合いがさっそくどこかの店へと走っていく。
「やっぱりいいにおいだもんね」と呟いてついていったが、アディグは肉串の店を素通りすると、別の甘い香りをさせた店の前へと来た。
「まさか、客じゃないだろうな?」
店主の男がテーブルに肘をついてアディグを睨んだ。
「客だよ。使うのはおれじゃないけど」
テーブルには液体の入った綺麗な小瓶や、貝や石製のパレットに乗せられた色とりどりの顔料が並んでいる。化粧品屋だ。
「それは安心だな。てっきり、カネ持ち相手のオンナオトコかと思ったよ」
「気色の悪いおやじに抱かれるのは勘弁だね。で、どれがいいんだ?」
「どれもいい品だ。混ぜものゼロの、純度の高い素材を使った一品よ。貴族の奥方や聖女様はもちろん、不細工な奴隷を高値にするにももってこいだ」
「おれのタマナは化粧で誤魔化さなくったって高値がつくね」
アディグがなんか言った。
「売らないでくださーい。あと、おれのって言わないでくださーい」
「その嬢ちゃんに買ってやるってのか? おまえたちならあっちが似合ってるよ」
店主が指差す先には、棒に挿した果実の切り身を水飴につけたものを並べた店がある。
「ちぇっ、子ども扱いして。コインを払えばみんな客だろ?」
アディグがこちらに向かって手を差し出している。
タマナはちょいと悩んだ。
財布の紐があらかじめ固く結んだつもりであったが、やはり十四の乙女である。
「……ダメだよ。どうせ鏡も持ってないし」
自身にいい聞かせるように言う。
「鏡なんてなくったって、水に映ったのを見ればいいし、おれが見てやるぜ?」
「アディグが見ても意味無いよ……」
「なっ!? じゃあ、誰のために化粧をするってんだ!?」
「誰のためって……。そもそも、そういうことを言ってるんじゃないの!」
彼に化粧の出来栄えを見てもらっても、どうやろうが「可愛い」としか言わないのは分かり切っている。
出逢って十日も経っていなかったが、生まれてから耳にした「可愛い」の総計が倍になるくらいには褒めちぎられていた。
はっきり言って、彼のそういうところが好きだった。
自身に対する肯定的な言葉は、言われれば言われるほど欲しくなるものである。
「まあ、化粧しなくても可愛いもんな。むしろ化粧の価値のほうが上がるに決まってる」
「もう!」
怒りながらも頬が緩む。
「よそでやってくんねえ?」
店主がぼやいた。
「じゃあ、無しでいいか。飯や上等な靴のほうが大事だもんな」
……と、真っ当に切り返されると、やっぱり惜しくなった。
「ひとつだけ、何か欲しいかな」
はにかみ、テーブルに並べられた化粧品を品定めする。
顔料のたぐいはダメだ。扱った経験も乏しいし、相方の意見の問題もある。
オバケみたいな顔にしてしまっていても褒めらて、変な恥を掻くかもしれない。
同じく、香水も相方の都合でナシ。
アディグは、ことあるごとにこちらのを体臭を盗み嗅いでいるのだ。
気付いた始めこそは顔に火がついたし、やめさせようと思ったが、よくよく考えればそれも肯定的な反応を出されている以上、抗うのは得策ではないと思い直し、好きにさせている。
「お嬢ちゃんにはこれがお勧めだよ」
店主が示したのは、ガラス瓶に入った黄金の液体だ。
眺めるだけでうっとりしそうな瓶を手に取り傾けると、中身が気怠そうに流れた。
「ハチミツね」
「肌に刷りこむもんだが……甘くておいしいぞ」
小馬鹿にしたように笑われ、タマナは瓶を置いた。
代わりに、端のほうに遠慮気味に置かれた小石を指差す。
「これにします」
「なんだ、これ? 石ころじゃんか。やけに軽いな」
アディグが首を傾げる。
「そうだよ。ただの軽石。これをひとつだけください」
「銅の小貨一枚だ。買ったらさっさとあっちいきな。ほかの客が来づらいからな」
財布を紐解き、銅の小コインを一枚差し出す。
「なんでこんな石を?」
「これで爪を磨くとぴかぴかになるの。地下室では退屈だったから、よくやってたの」
「そっか、だからタマナの手はこんなに綺麗なんだな。生まれつきかと思ったら、ちゃんと努力してたんだ」
少年が手を取り、お褒めの言葉と共にそっと撫ぜてくれた。悪くない買い物だろう。
それから、肉串を買い食いし、安価な革底の靴を二足と肩掛けベルト付きの鞄を購入した。
アディグは「荷物ならおれが持つよ」と手を差しだしたが、ベルトは自分の肩に掛けた。
そのほうが「守ってもらいやすいから」だ。
用心棒の男は身軽なほうがいいし、自分も荷物持ちの役目ができるし、か弱い少女が鞄のベルトを大事そうにしていれば、“そういうシーン”も寄ってきやすいというものだ。
それから、手持ちのバカデカネズミ(タマナが命名した)の毛皮と骨を売り払い、なんとかニ、三日ぶんの路銀を残せた。
ランクルの払いはずいぶんとよかったが、ひとつだけの軽石に済ませたのは本当に正解だったようだ。
「もう少しだけ、見て回ってもいい?」
手持ちや欲しいものが無くとも、タマナにとっては数年ぶりの市場だ。
快諾を得て、ふたりであちらこちらの店を冷かして回った。
「ところで、昔から気になってたんだけどよ。どの店でも売ってるこの板はなんだ?」
アディグが道具屋で指し示したのは、手のひらに収まるサイズの長方形の粘土板。
凹凸によって交差した剣の図が表現されている。
「それは売り物じゃないよ。知らないの?」
「絵や置物には興味がないからな」
商売に関わる知識は持ってないらしい。タマナは記憶の書架から一冊の本を引っぱり出す。
「これはね、“印章”っていって、国や団体から許可を貰って商売してますよっていう証なの」
タマナは解説する。
印章には大きく分けて三種類ある。
ひとつは国家によって売買を制限されている品の取り扱いを許可する印章。これには王の役割を示す巫女の横顔が描かれている。
もうひとつは上を向いた剣と左を向いた剣が交差する図の印章。
これは騎士団の発行するもので、騎士団からの払い下げ品や戦利品、戦闘以外に利用法のない道具……つまりは武器や防具を取り扱う店であることを示す。
教団も、後光を受けた石の図の印章を発行しており、それは“ハッパ”を含む医薬品の許可や品質の保証をする。
印章は金属の型に粘土を詰めて作られており、原版は各団体にて厳重に管理されている。
関連商品を取り扱っているかどうかに関わらず、これらの印章のあるのとないのとでは、店そのものの信用や商品の価値に差が出てくるのだ。
「これが許可証だったわけか。どーりで、高く売れるわけ……もがっ!」
タマナは盗賊少年の口を塞いだ。
なお、印章の窃盗はもちろん、売り買いも禁じられており、これを破れば死罪である。
「つーことは、三つの印章がある“あの店”は、やっぱり儲かってんだろうな」
「見に行っていい?」
「許可なんていらないけど、いい気はしないと思うぜ?」
ふたりが次に見物に出向いた店は、役人や兵士の警備までがついており、何やらものものしい。
店主は三種類の印章を首から提げている。
そこは店ではあったが、屋台もテーブルもなく、ござや絨毯すら存在しない。
ただ、“商品たち”が、手足を飾る縄だけの姿で並べられているのである。
「近くで見るのは初めて。パパやママが近寄るなっていうから」
「お、おい、近すぎだろ……」
アディグに引っぱられる。商品についた立派なシンボルが遠ざかった。
「俺を買ってくれるのか? 見ての通り力仕事は得意だし、夜の仕事も男女問わないぞ。あんたには荷が勝ちすぎると思うが」
「いらない」
ぷいと、自ら売りこみをする“商品”から顔を背ける。
「おまえら、自分で自分を売って恥ずかしくないのかよ」
アディグが“商品”を鼻で笑う。
「けっ、物乞いどもよりはよっぽどマシだね」
全裸の男が笑い返す。
「カネ持ちの奴隷になってよー。あいつらの食べ残しを食ってんだろ?」
「それでも、痩せた芋や泥水よりははるかにマシだ。カネ持ち様は俺たちを財産として扱うからな。怪我や病気もしっかりと面倒を見てくれる」
「そーいう奴に当たればいいけどな。おれが見てきたカネ持ちの中には、いじめて悦ぶ連中も少なくないぜ?」
「それは法律違反だ」
「屋敷の中まで兵隊が見張ってるわけじゃないんだぜ?」
「そのくらい知ってるさ。だから、身体を鍛えてこうやって売りこんでるんじゃないか。邪魔だから、よそに行ってくれ。俺を買うカネも無いくせによ」
男は縛られた手首を振ってアディグを追い払おうとした。
「偉そうによ。あんた、いくらだよ?」
「ご主人! 俺がいくらか、このガキに教えてやってくれよ!」
奴隷は自慢げに声を張り上げた。
「金貨五枚だ。三日並べて売れてないから、即決なら四枚でもいいぞ。元気もやる気も充分だが、身体といちもつがでかすぎて逆に買い手がつかないんだよ」
「金貨五枚! どうだ、すげえだろ? 自分の畑を耕してるだけじゃ、一生貯められない額だぜ」
「値下げされてんぞ」
アディグは奴隷を指差してげらげらと笑った。
――奴隷。
奴隷はその身と人生を買われる存在だ。
ひとたび肩に焼き印を入れられれば、人の法から物の法の傘下に移り、誰かの所有物でなければ生きることもままならなくなる。
借金や納税に喘いでその身を落とす者もいれば、特赦にて処刑を免れる代わりにその地位に甘んじる者もいる。
彼の多くは自らその地位を選び、同じく持たざる者であるスラム民を見下しているという。
だが、いっぽうでそうでない者もいる。
騎士団の報酬、つまりは領土争いに敗れた国の人間だ。
生きのいい戦士でも、この元気な男よりも安値だし、捕虜の中でも価値や魅力の低いものは、コインの色や枚数が更に劣ってしまう。
それこそ、爪を磨く軽石のように扱われる命だって珍しくない。
ほかには、盗み出された人間が売られることもある。そのほとんどは行方不明になった女、子どもである。
彼女たちはこの許可証付きの市場には決して並ばない。
闇の中で売り買いされ、カネ持ちの隠し部屋や、心身を切り売りする店に勤めているのだ……と本に書いてあった。
――わたしも、そうなっちゃってたのかな……。
強盗は必ずしもタマナを聖女として盗み出したとは限らない。
予定されていた聖女枠に行きつかなければよしとして、彼らへの支払いの一部とされていた可能性もある。
同じ盗み出してもらったにしても、ずいぶんと幸福な道を歩んでいることをあらためて自覚した。
タマナは見回す。
並べられている商品は、あの元気のいい男ばかりではない。
化粧であちらこちらを塗ってごまかした若い女も並べられている。
可哀想なことに、何もかもを隠すことが許されていない。
それでも立ってしっかりと前を見ているだけいいのかもしれない。
陳列すらも諦めて座りこんだ者も多い。その中の男はほとんど痩せていたし、女は年を食っているか、尻や胸が平坦であった。
――聖女か。
これまで妄信的に教団を敬っていたが、その内輪揉めで家族を破壊されたことで揺らぎを憶え、目の前の奴隷たちが更に揺さぶりを掛けていた。
三つの印章が必要な店。法をつかさどる国家の許可はいうまでもないが、騎士団の許可は捕虜の扱いが理由だ。
では、教団の印章はなんのためにあるか。
教団もまた、この者たちの運命の導き手のひとつなのであった。
資金や信者に余裕のある宗派であれば、孤児や憐れな浮浪者を神殿に住まわせ雑務をさせることもある。
だが、常に施しをおこなう彼らの財にも限りがあり、そのように誰かを贔屓することにも問題は多い。
実際のところ、世界は救われない人間たちで溢れている。
ゆえに教団は、「慈善事業の一つ」として、彼らが望むのであれば、その肩に焼き印を入れることを手伝ってくれるのだ。
アディグは言っていた。「前を向いて生きろ」。もっともだと思う。
だが、焼き印を捺す者と捺される者、そのどちらもが顔を背けているのではないかと思われた。
――本当の聖女様は、そんなのじゃないよ。
失望、同時に強まる憧れ。相反する感情のあいだをすり抜けて、感謝が彼女の身体を突き動かした。
「アディグ、ありがとうね」
少年の手を握り、驚きこちらを向く顔に笑いかける。
「いや、無理だって。さすがに買えないって」
「違うよ!」
ずっこけそうになった。
「ひとつだけとか言ったって、買えないもんは買えないからな」
「だーかーら、違うっての!」
今、言ったのはタマナではない。
「いいや、確かにこの目で見たぞ。“サムバンド”様だって見たって言ってんだ」
奴隷売りの警備兵が、鼻の下にけちくさい髭を付けた痩せ男の腕を捻りあげていた。
「私は、確かに見た……! この者が、小役人の腰の小袋に手を掛けるのを……!」
証言するのは藍に金縁を飾ったローブの青年。
不自然に固められた金髪を手で払いのけながら、「ふっ……!」と笑う。
なんだか妙な男であるが、首には金の鎖が下がっており、その先には琥珀色に透き通った石がぶら下がっている。
「あのローブと石のネックレス。神官様かな?」
「それにしちゃ品がなさ過ぎだ……もがっ!」
「お? おーい! そこにいるふたり! 俺だよ、俺! 濡れ衣を着せられて困ってんだ! 友達だろ? 助けてくれよーっ!」
ちょび髭が助けを求めている。
タマナとアディグは顔を見合わせて「誰だこいつ」と言った。
「忘れちまったのかよ? “誠実なるビーマーン”じゃねえか! この前……えーっと、助けてくれーっ!」
「口から出まかせを! っつーか、ビーマーンつったら、昨日食い逃げで捕まったバカの名前じゃないか。脱走したな!?」
兵士にぽかりとやられるビーマーン。
「うげっ!? 気のせいじゃないですかね? ……ねえ、そこの神官の旦那! どうせ奴隷を買うなら、俺を買いませんかね?」
「若い女を買いに来たのだ。我が美しき婚約者と並べて、罵倒しようと思ってな」
サムバンドなる神官らしき男は、前髪を掻き上げて「ふっ……!」と笑った。
それから女商品たちに視線を向け、その中のいちばん綺麗そうな娘を指差して「こいつがいい。愛しのセヴァーよりも、やや不細工だからな」と店主に言い、またも前髪を掻き上げ、「ふっ……!」。
「おっと、買うまでに聞くことがある。女よ、己の信仰を述べよ」
「わ、私は正長石のご加護を信じています」
「素晴らしい……! 金貨七枚で買ってやろうぞ」
サムバンドは三度髪を払った。
――ええ……。こんなのが神官様なわけ、ないよね?
タマナはげんなりとした。
「残念だったなビーマーン。サムバンド様もおまえは要らないそうだ。俺たちが鉄の鎖で買い上げてやるから、おとなしくするんだな」
兵士が笑う。
「くさい飯なんてごめんだぜーっ! なあ、若夫婦さんよ! 俺を買ってくれーっ!」
「おいタマナ、あいつ買おうぜ」
アディグがなんか言った。
タマナも革の袋に手を入れると、四半銅の棒を一本取り出して見せた。
「ありがたき幸せー……って、安っ!?」
「それじゃ、足りねえってさ」
「じゃ、諦めよっか」
「ははは、若者にまでバカにされていい気味だな。おまえが望むのなら、無許可で人身売買を行った罪も追加してやってもいいぞ」
「死刑じゃねえか! 俺の身体は俺のもんだ!」
「だが、腹の中のものの代金は払ってないだろ?」
「スープ一杯で捕まってたまるか!」
「いや、食い逃げはまんじゅう六個だったろうが」
「それは昨日のぶ……じゃなくって、俺は食い逃げもスリもやってねえよーっ! ちょっと毒虫が付いてたから払ってやったんだって!」
「はあ……。こりゃ、牢番がボヤくわけだ。さっさと歩け!」
ビーマーンなる男は尻を槍で突っつかれながら退場していった。
「面白い人」「面白い奴」
ふたり声が揃い、思わず笑ってしまう。
ふと、タマナは先程の神官らしき男が気になった。
しかし、男はすでに買い物を済ませていたらしく、憐れな女と共にその姿を消していた。
「ちぇっ、神官様に買い上げて貰えればいい暮らしができると思ったのによ」
男の商品が舌を打つ。
「明日はもう一枚値下げして売ってみるかな」「そりゃないぜ、旦那ぁ」
――でも、わたしは自由なんだ。選べる。
タマナは、どこか遠くで石の歯車が重苦しく転がる音を聞いた気がした……。
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