星空の下で
――あーあ。また、ぼこぼこにしちゃった。
少年の頭が視界に割りこんで赤く光ったかと思ったら、まばたきひとつのあいだに追手のふたりは無様な格好を晒していた。
片方は後頭部を地に着けて尻を天に向けているし、もう片方は固まり切っていない粘土の壁に顔を突っ込んでいる。
「やめてって言ったのに! 嫌い!」
「あんたを守ろうと思ったらさ……」
背の低い騎士はうなだれて頭を掻いている。
タマナは内心、ほくそ笑んでいた。
――おはなしの大盗賊そっくり。
アディグが子どもに足を出したことに関しては本気で腹を立てていたが、汚れた仕事に落とそうとした女や、暴力に訴えかける男どもが半殺しにされたことに関しては、正直胸がすく思いだった。
酷いことをするなと言ったことに関しては、物語のヒロインが自身をさらった大盗賊の暴力を非難していたから、それをなぞっただけだ。
ついでに、聖女のイメージにも合致するし。
「次にやったら、本当に絶交だから」
念押しは、なるべく睨みを利かせた。口元は怪しげで、鼻の穴は膨らんでいたが。
絶交を宣告された少年は少年で「次にやったら……か」と、安堵のため息をついている。
「約束するよ。タマナが嫌がるような暴力はもうしない。嫌われたくないから」
「約束だよ」
ちょっと考え、手を差しだす。少年は好物に飛びつく犬のように、両手で、さっと握ってきた。
――やっぱり、ちょろいなあ。
「でも、本当に危ないときは、嫌われてでも守るからな」
真っ直ぐ見つめるその顔は笑いを引っこめている。
タマナは視線を地面に逃がして、「……うん」と小さく呟くほかなかった。
「ところで、ぶたれてたみたいだけど、怪我は無かった?」
「平気だよ。石頭だから」
「頭以外も叩かれてたけど……」
「へーき、へーき! ……ってて」
アディグは急に顔を酷く歪めて肩口を押さえた。
慌ててランタンで患部を見てやるが、腫れや変色は見られない。内傷であれば、目視だけで判断はつかないだろう。
「ごめんね、わたしのために」
薬も無ければ、聖女や神官のような“神の力”も持っていない。
それでも彼女らに少しでも近づこうと、心だけは重ね、ぶたれたところへ額を押し当て、背中を撫でてやった。
――泣いてるのかな。
耳元でしきりに鼻をすする音が聞こえる。
いくらスラム生まれのスラム育ちとはいえ、自分と同じ十四の少年だ。
荒事にも慣れてるとはいえ、痛かったり怖かったりもするのだろう。
あるいは、もっと別の何かかも知れない。
あの不愉快な女も“ママ”に執着していたのを思い出す。
しばらく、そうやって静かに抱いてやっていたが、アディグの舌打ちで終わりとなった。
「追加が来たみたいだ。見つかる前に逃げよう」
ふたりは急いでその場を離れ、最初にアディグが提案した通り、別のギロウの縄張りまで行くことにした。
彼曰く、「大きな通りを区切りにして縄張りが変わるもんだ」とのことだったから、それを目標に走った。
通りが一本変わると、深夜だというのに盛んに話し声が聞こえ始め、ランタンやロウソクの光もぽつりぽつりと見られるようになった。
灯りが映し出すのは荒んだ小屋と路上で眠る者たちだったが、先程のバラックとは違って、規模の大きめでしっかりとした造りの粘土小屋や、かつて正式な形で運用されていたであろう石の建物を流用したものも見られた。
これらは店舗らしく、カウンターで売り手が怒鳴っていたり、客が席について何かを吸ったり飲んだりしている。
「歓楽街だ。この筋なら、どこのギロウも暴れたがらないはずだ。いがみ合ってるギロウ同士でも、店は使うし、品物の売り買いもするからな」
「どんなお店があるの?」
お店と聞いて、少しだけ心が弾んだ。
地下に引きこもる前は、よく父母の手伝いで買い物へ出掛けていたのを思い出す。
誰かの祝いの日には、少し無理をして飯屋のテラスでテーブルを囲んだりもしたものだ。
「そっちと変わらないよ。食べ物、飲み物、服や装飾品、仕事道具や武器に、ハッパと女。仕事や労働力も手に入る」
香のにおいの漂う大きめの掘っ立て小屋の前で、若い女が客引きをしてる。
美人には見えなかったが、胸と腿を大きく晒した絹の布巻きで、顔はおしろいと頬紅にアイシャドーでよろっていた。
入り口では太った女が煙草をふかしており、その横には、兵士と似通った武装の男が憮然とした表情で槍をついている。
「こんなところに、兵隊さん?」
「落人の傭兵だろ。この店は、こっちじゃ最高級だろうな。スラムの貧乏男や病気男じゃここは使えないから、“そっち側の貧乏男”が客だな。あとは、“変わり種”が欲しい本物のカネ持ちのおやじとかだな」
「変わり種?」
身体を売る商売には関わりたくもなかったが、好奇心が疑問を口にさせた。
彼が言う“変わり種”とは、同性である男児を相手にする趣味や、手足が欠けたり火傷を負っているのを特別に愛する趣味のことらしい。
あとはカネを払って客のほうが女性に暴力を提供して貰う奇妙な趣味やら、本来排泄に使う穴をどうこうのなんて話も続いたが、さすがに鼻をつまんだ。
「あっちは楽しそう」
話をそらすため、バカ笑いをする男どものいる店先を指差す。
「あれは飲み屋だな。酒が本物かどうかは怪しいもんだ」
「みんな楽しそうだけど?」
手を叩かれ囃された男が、ひと息にカップをからにしている。
「薄めた物を出してるか、でたらめに作った酒さ。ああいう店の前を通るときは息を止めたほうがいい」
「どうして?」
「店でハッパを焚いてることが多いんだ。本物の酒より、そっちのほうが安上がりなんだよ。たいして酔わないでご機嫌になれるし、酔っ払いが暴れることもないし、必ずまた来てくれるからな」
「ふーん……」
いまいち理解ができなかったが、他人事なのにアディグが少し自慢げなところをみると、商売上手ということらしい。
「ハッパは頭がおかしくなる。ケムリには気を付けなさい」と父親から聞かされているし、まあ、これも“あっち側”の感覚なのだろうと納得しておいた。
しかし、見れば見るほど、一般層の歓楽街と同じようなことをやっている気がする。
子ども連れもいるし、恋人同士のようなふたりや、縄に繋いだ犬を撫でている者だって。
以前住んでいた村の古くから続く祭りの日が、ちょうどこんな感じだったのを思い出す。
「ねえ、アディグ。バカなことを聞いてもいい?」
「いいぜ。なんだってバカにしないさ」
「これだけわたしたちと変わらない暮らしをしているのなら、どうしてみんなから離れて暮らしているの?」
「離れてるんじゃなくって、そっちが分けてるんだよ。そっちっていっても、タマナは別にしてな」
「やっぱり……。わたしもきっと、別じゃない。パパやママが近付くなって言ってたし、実際そうしてたから」
「でも、おれには優しくしてくれただろ。貧乏人どころか、泥棒だったのにさ。そういえば、なんでだ?」
アディグが首を傾げた。
「最初は怖かった。でも、聖女様になるためだし」
「聖女様だって、来るものは拒まないけど、自分からは行かないもんだろ?」
タマナ自身も完全には理解していなかったが、退屈と書物が原因なのはうっすらと感じていた。
さすがにそんな軽薄な理由だけではないし、それを口にするのは軽はずみだと思えたから、同じように首を傾げておいた。
「分からないけど、アディグのことは好き。うちも、もともとは少し貧しい農家だったし、貧乏だからって笑ったりしない……」
ふと、少年の姿が消えた。頭をかかえて地面に伏している。
やはり頭蓋が堅いだけで、殴られたせいで脳がやられてしまっているのではないだろうか。
「大丈夫!?」
「へ、平気さ。それより、今なんて言った?」
「うちも農家だったって」
「その前だよ」
「アディグのことは嫌いじゃないって」
「嫌い、じゃなくってさ~」
なるほどそういうことか。タマナはちょっと笑った。
「お行儀良くさえしてくれれば、パパやママも友達にしていいって言ってくれるかも。そしたら、会いに来てくれる?」
「行く行く!」
と、言いながら彼は頭を地面に打ち付けた。やはり、殴られて脳に異常をきたしたか、店先でハッパを嗅いだせいかも。
「本当に大丈夫? 遠回りして、わたしの家に戻らない? 地下室にはあなたが隠れられる場所もあるし。それか、病院に行ったほうがいいかも。代金ならあとからどうとでもなるし……」
「タマナと一緒はともかく、今、向こうに戻るのはダメだって。“そっち側”じゃ、夜警は真面目に仕事をしてるんだよ。見つかれば補導される。おれは牢屋行きどころか、首撥ねまであるかも」
「じゃあ、このあたりで朝を待つってこと?」
「そうだよ。この通りにすぐ行き当たったのはラッキーだよ。どっかのギロウの縄張りよりは安全だし」
「朝になったら、抜けだしたのがバレちゃう」
「扉を壊したり服を破いたのに今さらだな」
「うー、そうだった……」
「そんな心配そうな顔をするなよ。おれが守ってやるからさ」
歯を見せて笑うアディグ。タマナもぎこちなく笑っておく。
――このあたりで夜を明かす、か。
普段は静かすぎる空間で過ごしているせいか、音のよりわけさえしなければ、うるさいのはかえって耳に心地が良いくらいだ。
だが、鼻のほうが苦情を出し続けている。
――くさいんだよね……。
貧民窟に入ってから、代わる代わるさまざまな異臭が鼻を衝いて、何度もえづきそうになっていた。
アディグを洗ってやったときに立ちのぼったにおいも相当なものだったが、それが可愛く思えるくらいだ。
「さて、ちょうどいい寝床は……」
アディグが周囲を見回すが、なぜか目線が上のほうを向いている。
「断っておくけど、シーツもベッドも無いからな」
「分かってる。あなたもいつも、外で寝てるんでしょ? 草とか柔らかい土の上で?」
「まさか。草の上は昼寝が限界だよ。夜は濡れるし、ネズミくらいならともかく、ヘビだのカエルだのが乗っかってくるのに」
「それは無理……」
「ま、寝心地がいいところは誰かの場所になってるだろうな」
「じゃあ、どこで? さっきから上を見てるけど」
訊ねると、アディグは得意気に鼻を鳴らし、「あそこにしよう」と言った。
彼が指差したのは、崩れた石柱の先っちょ、ずっと上のほうだ。
「あんな高いところで寝るの!?」
「やっかいごとから逃れるのに、一番いい場所だ」
何かの建築に使われる予定だったか、あるいは誰もが忘れた繁栄の残滓か。
ふたりは、たった一本だけ残された高い石柱に登った。
無論、それは登れるようにはできていなかったが、アディグが赤く光る指列で穿ち、手足を引っ掛ける場所を作って登った。
タマナはそんな所業をやってのける“魔物”の首に腕を回しているだけで済んだ。
高さにくらまぬように目をぎゅっと閉じて、ただ彼の背や四肢が熱く、力強く動くのを感じた。
「着いたぜ。すぐに座って。立ち上がると目が回るから」
言われたとおりに座ると、柔らかいものに当たった。
アディグの足だ。謝り、慌ててどこうとしたが、抱き寄せられ逃げられないようにされた。
「何するの!?」
「危ないって! 思ったより狭かったんだよ!」
彼の言う通り、柱の上面はいびつに折れており、寝転がるどころか並んで座る余裕すら無かった。
いびつな断面に彼が背中を預け、タマナはその彼に身をゆだねる形となった。
「吸いこまれそう……」
眼前に広がる世界は二分されていた。
夜の闇の中、遠くの灯りがてんてんと見える大地と、所狭しと星のひしめく大空。
空から圧倒され、下から吸い寄せられ、向かいからは冷たい風が責め立てた。
「高いところで空を見てると、余計なことを考えなくて済むから好きだ」
耳元で穏やかなささやき。
「わたし、星空を見たのは久しぶり」
「本当に、何年も地下室暮らしだったのか?」
「うん。学校も行かなくなったし、散歩もできなかった」
「学校は行ったことないな。行ってたってことは、タマナは賢いのか? 本が読めるんだろ?」
「勉強はできてたけど、賢いかどうかは分からない……」
「そうなのか? 字が読めるだけで偉いもんだと思うけど。この下の連中なんて、ほとんどが字も読めないぜ」
「だからだよ。それも、今聞いて初めて気が付いたの。そんなので聖女になりたいなんて言ってたなんて……」
「言うだけマシだと思うけどな。おれも余ってる物を人にやることはあるけど、教団様にはさすがに頭が上がらないぜ」
「言うだけじゃなくって、本当になる気だったの。パパが話をつけてくれるって約束したの。それまでは地下室で大人しくしてなきゃいけないから」
「なるって言ってもさ、本物の聖女様や神官のように、“神の力”が使えるわけじゃないんだろ?」
「……そうだけど」
教団の役職に就く者の中には、この世の“理”を無視した“神の力”が使える者がいる。
実際に“本物”に会ったことはないが、書物によると、その力は傷をたちどころに塞いだり、手も触れずに物を持ち上げたり、荒ぶる獣を一瞬で鎮めたりするのだという。
そして、その力を行使するさい、全身あるいは、身体の一部が赤く光ると記されていた。
背中越しに、温かな鼓動を感じる。心臓。血潮の赤。
背中の少年もまた、荒事のときには同じように光っていた。
しかし、“赤く光る者”は聖なる者ばかりではない。
同じように、“魔物”と恐れ蔑まれる者も、同じく“理”を無視した力を持つという。
「アディグ、あなたの身体って、硬くなるのよね?」
今もそうだが、直接触れているぶんには柔らかで、とてもじゃないが鉄や石の凶器に耐えられるようには思えない。
「か、か、硬くなんかなってない!」
なぜかうわずった声。
「気を遣わなくていいよ。わたしよりも、あなたのほうがよっぽど神官の素質があると思う。さっきのことだけで、充分に分かった。どちらかと言うとわたしが“魔物”の側……」
「そんなことねえよ! おれにとっては、タマナは聖女様だよ!」
「わたし、何もした覚えがないけど……」
「惚れたんだって」
「納得がいかない……」
返事は無かった。
窃盗と不法侵入を見逃し、身体の汚れを拭いてやってこそはいたが、ほとんど自己都合、あるいは外出への対価みたいなものだ。
聖女というものは、真に心の底から他者を思いやり、図らずとも善意を行動に移せる存在。
少なくとも、タマナの憧れた聖女とはそういうものだった。
実際にスラムを目にして己の知識の浅さを痛感していたが、行動や思考の面でも同様であった。
動機が憧れに起因している時点で、本当の聖女足り得ないのだろうか。
だが、地下室で本を読み漁り待つだけでは、聖なる者はおろか、今いる程度の高みにすら辿り着けはしなかっただろう。
――でも、やめちゃおうかな。
家に帰って、両親に聖女への道を諦めると伝え、元のように暮らしたい。
わがままが通るのなら、今日の事件から逃れるついでにかつての住まいに戻り、父母を手伝い、旧友と笑い合い、学び舎で勤しみ……そこにこの少年も加えられたら、前よりもずっと素敵だろう。
だが、それは叶わぬことだと、分かっていた。
転居と、聖女を本気で志す切っ掛けとなった事件。
友人の死。同い年の少女。“あの子”は物心ついたころよりそばにいた親友だった。
彼女が“魔物”の襲来により命を落としてから、運命の歯車が狂い始めたのであった。
もしも願いがひとつだけ叶うのであれば、あの日の事件をなかったことにして欲しい……。
「ねえ、アディグは死なないでね」
「あったりまえよ。あと百年は生きるぜ」
「暴力無しでも?」
「勿の論!」
「わたしのことも、本当に守ってくれる?」
「絶対だ!」
「……ありがとう」
勢いだけの出まかせにしか思えない返事だったが、身体は自然と深く沈んだ。
背だけが温かなせいかもしれない。高く恐ろしい空の中であったが、音も凍える地下室よりは安心していられる気がした。
――聖女がやめれなくても、アディグのことを頼んでみよう。ひとつだけなら、叶えてくれるはず。それがダメなら……。
まどろみ、温かな闇の中へと吸いこまれていく……。
少女は夢の中で決別のつるぎを振るっていた。その相手は未来の聖女か、はたまた赤を湛えた“魔物”であろうか。
***