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掟の魔物と囚われの聖女  作者: みやびつかさ
第一章 ふたつの歯車
4/93

少年少女とスラム

「忘れ物しちゃった!」


 タマナはそう言い残すと、そうそうに手を振りほどいて屋敷へと戻ってしまった。


 ――なんだよ、もう。時間が無いって言っときながら。


 出鼻をくじかれて頭を掻くアディグ。

 追いかけてもよかったが、また着替えでもされていると嫌われる。それに、また誰かがこの屋敷を訪ねてくる可能性もある。

 腕を組み、壁にもたれて少女が戻ってくるのを待つことにした。


 警備のつもりでしかめづらを決めこんでみたが、おのずと思考が少女との一連のやり取りに奪われて、情けなく緩んだ。


 ――いやあ、タマナは可愛いなあ。


 着替えの事故の光景と、白い首筋から幻のように漂ってきた香りを反芻する。


 長く世話になっていたギロウでは、男は「女を持つこと」が一人前の証のようにいわれていた。

 リーダーが「いちばんいい女」を持っていて、子分たちがそれを借りようと画策したり、女の無い下っ端が仕事の上がりを納めずによその縄張りの女を買って制裁されたり、盗んだ家畜を食わずにこっそり使って(・・・)病気になったりもよくあることだ。

 アディグも仲間である以上、話は合わせたし、それらを試してみたこともあったが、いまいちほかの連中のように熱心になれる気がしなかった。


 それがどうだ。あの子の魅力的なことときたら。

 流れる黒髪と深い瞳。ぞっとするような白い肌。

 そういえば、あの白い手に自分の身体を拭ってもらったのだった。

 赤ん坊のような扱いをされたのだから、一匹狼の彼としては怒鳴ってもいいはずだったが、あんまりにも気分がよくて、なされるがままだった。

 なんなら、もう一度洗ってもらうためにその辺を転げ回って身体を汚してもいい。

 いや、拭いてもらうほどでなくとも、ほんのちょっと、指先だけでも触れて貰えれば満足かもしれない。


 少年は身震いをした。


 自身の腕っぷしを理解してから、何かを怖いと感じることから遠のいていたが、あの魅力にはどこか恐怖に似たものを感じる。

 触れてもらうことを想像しただけで、こんなふうになるなんて。


 ――これが恋ってやつなのかな?


 きっと、ほかの男どもなら気に入ればさっさと彼女を組み敷いただろうが、おれは決してそういうことはしないぞ。

 タマナは聖女を目指すと言っていたが、確かにそれだけの値打ちがあるに違いない。

 おれはその手伝いをしてやるんだ。


 ……などと考えたが、やはり本能に正直でもあった。

 アディグは待つのをやめ、「また着替えでもしてると困るな」を「中に賊が潜んでいると危険だからな」で押しやり、腰をかがめて、すり足で屋敷に戻ろうとした。


 すると、仕度を終えた娘が戻ってきた。

 少年は、願い通りに娘の肌の色を視界いっぱいに収めることが叶った。

 その肌色は屈んでいるところに飛び出してきた彼女の膝のものだったが。


「いったーい!」


 眼下で少女が右膝をかかえて転げ回っている。


「悪い! おれって石頭でさ! 剣や槍でぶん殴られても平気なんだよ」

「それはいいけど、どうしてそんなところでしゃがんでるの!? 泥棒じゃないんだから!」

「いや、泥棒だけど」

「そうだったね……」


 涙目の抗議であったが、目線が絡むと、ふたりとも声を立てて笑った。


「いけない。夜は静かにしなくっちゃ。それと、これ」

 タマナは小さな灯を閉じ込めた瓶を手にしていた。


「ランタンを探しに行ってたのか。目立ってもいいことないぜ?」

「明るいほうが危ないのは分かってる。でも、それじゃ何も見えない。あなたが守ってくれるんでしょ?」

「もちろん。騎士様と扱ってくれていいぜ」


 アディグは不安を差し込こませた少女に笑いかけ、もう一度、手を差しだした。



 さて、スラムへ行くといっても、大した距離ではない。

 自ら幽閉された少女にとって、いくら遠く感じようとも、元は奉仕を目的とする神殿だった屋敷は、通りをひとつ越えるだけで、無法地帯に入れる立地であった。

 石の運搬のために引かれた道路の先には、廃材や質の悪い粘土で作られたバラック小屋が立ち並んでいるのが見える。

 ランタンは役目を終えて骨だけになった猫や、屋根や壁と無縁な人たちがこちらへと胡乱(うろん)な視線を向けるのを映し出した。


「……」

 アディグの耳は少女の呼吸が早まったのを察知する。

 心なしか、握る力も強くなった。


「このくらいでビビッてたら聖女になんてなれねえぜ。聖女様は怪我の治療のときにはずっと手を握っててくれるもんだろ?」

「そうだけど……」


 彼女は投げ掛けられる視線からではなく、ぼろっちい小屋から身を遠ざけた。

 小屋の中からは、夜の営みの湿った音が聞こえてくる。


「そっちにビビッてんのか? それくらいしか楽しみの無い連中なんだよ」

「そうかもしれないけど……」

「あのくらいたくましくなきゃな」


 アディグは、小屋に耳を当てて手仕事にいそしむ男を指した。

 彼はランタンで照らされても右手を休める様子はない。


「そんなことする聖女様がいるわけないでしょ、バカっ!」


 頭でこつんと音がする。それから、少女のうめき声が聞こえた。


「石頭だって言ったろ。それより、もっと奥へ行こう」

「奥へ!?」

「自分でスラムを見るって言っておきながら驚くなよ。ここで小屋を建てられてる連中は、おれたちのあいだじゃカネ持ちみたいなもんだぞ。“そっち側”で仕事を持ってるやつだって多い」

「これで裕福なほう、なの? スラムの外にも来てるなんて、気付かなかった」

「連中なりに身なりも整えるからな。日雇いでなんかしてカネを稼いでるんだよ。ゴミ捨てとか石工の力仕事の手伝いとかな」


 本当はそれだけでなく、カネ目の物を盗んだり拾ったりするのが目的で、仕事や身支度は兵士に追っぱらわれないための免罪符みたいなものなのだが、言わずにおいた。

 タマナがこうも無知で純粋だと気が引ける。

 どの道、この程度の問題は捨て置いても構わないだろう。

 これより奥では、もっと酷いものをいくらでも目にするだろうから。


「ねえ、誰かついて来てる」


 恐れよりも疑問を孕んだ声。アディグも気配で気付いていた。

 振り返れば、小さな男の子どもが地面を見ながらふたりのあとに続いている。


「ランタンの光を借りてるんだよ」


 男の子は蝿を見つけたカエルが舌を伸ばすように、地面の何かを捕まえた。

 小さな手には石ころがひとつ。持ち上げて眺めるも、道の端にぽいと投げ捨ててしまった。


「ああやって、価値のありそうな石を集めて売るんだ」

「じゃあ、もう少しゆっくり歩いてあげましょう」

「日が暮れ……日が昇っちゃうって。普段は真っ暗な中でもやるし、それに光る石のほうはおまけさ」


 男の子の腰元に結び付けられて足元に垂らされた“棒切れ”を指差す。

 すると男児はそれを慌てて手で隠した。


「あの棒は何?」

「磁石のついた棒さ。磁石ってのは鉄が入ってるものがくっつくんだ。鉄くずも集めれば売れるからな」

「そんなものを集めてるの? 本当に貧しいんだ……」


 タマナはさも哀れというふうにため息をついた。

 だが、アディグはそれに肩をすくめるだけである。


 あの男児は自分のバラックを持つ貧民と同様、こちら側では成功者だ。

 本当に貧しい者は、石や屑鉄ではなく、同情を集めるほかに生きるすべがない。

 五体満足のようだし、夜の闇に紛れて仕事をし、こっちが略奪者じゃないことを見抜いたうえでランタンの光を盗む抜け目のなさまで持ちあわせている。

 あの磁石のかけらだって、もとは採鉄場で石工が使っていた道具で、本来ならこちら側で手に入る品ではないだろう。

 生粋のものか誰かに仕込まれたか。どちらにせよ、ギロウの構成員の可能性が考えられた。


 ふたりが前へと向き直り歩き出すと、子どもはしばらくしてからまた仕事に戻った。

 物を拾う緩急のある動きや、磁石棒が地面を叩く音が煩わしい。ちょいと、ぶん殴りたい気がする。

 とはいえ、ここのギロウの連中とは仲良くしなくては。


「あったぜ。あれの陰なんかに溜まってるんじゃないかな」


 進行方向には、崩落して屋根と壁を失った石の屋敷があった。

 意匠からして、何百年も前に建てられたものだろう。

 どこのスラムでも、そういった廃墟に身を寄せ合う者たちは多い。


 疫病が通りすぎたあとのように、石の床の上にごろごろと人が転がっている。

 無論、寝ているだけだ。年寄りや女子供の比率が高い。

 彼女らは片腕が無かったり、ぼろ布を目に巻いていたり、寝ながらまたぐらや背中を掻き捜している。


「酷い……!」


 少女は後ずさり、僅かに逃げようとした。

 だが、思い直したか、アディグの背に隠れながらも最貧民たちを観察し始めた。

 背中に当たった少女の頬が柔らかく、少年はにんまりとした。


「みんな、がりがりに痩せてるけど……。あの子はお腹いっぱい?」


 誰しもがあばらを浮きだたせていたが、その中にまるまるとした腹の幼児が混ざっていた。


「あれは病気だ。ああいう腹には、水が溜まってるらしい」

「お腹が空いたから水ばかり飲んでるの?」

「そうじゃない。飲み水だって、なかなか手に入らないのに」

「どういうこと? 井戸ならいくらでもあるでしょ? ここに来るまでにもいくつかあったし、うちにだってあるよ?」

「使わせてもらえないんだよ。水を汚す、病気がうつるつってな。見つかったら殺されるよ」

「殺すなんて! 誰がそんなこと!」


 ――あんたたちだろ。


 喉元まで出掛かってやめる。別にタマナに恨みはない。彼女は何も知らないし、惚れた女でもある。

 だが、アディグは流れ者でも“こっち側”であるし、彼女は閉じこめられていたとはいえ、“カネ持ち”には違いなかった。

 この思考の脊髄反射は彼を酷く落ちこませた。


「おい、誰だ騒いでるのは?」


 振り返れば、薄汚れた服を着た青年。ぼろぼろだが革の靴も履いている。


「悪い。おれたち、新入りなんだよ」

「新入り? どこから来た?」

 男の声が鋭くなる。

「西のほうから」

「西? 西の連中の手先か?」


 ――おっと、まずったか。


 方角は適当だ。アディグ自身、どこから流れてきたかちゃんと把握していない。ここが西部だから東と言っただけだ。

 だが、青年らにとっての東は、「東側のギロウの縄張り」だったらしい。

 からんと金属音。男が後ろ手に隠していた棒を見せる。


「東は東でもずーっと東だ。よその町から来たんでね。緑の橄欖石(かんらんせき)を祀ってる教団さんたちの勧めでこっちに移って来たんだ」

「教団が勧めたのか? そっちを追い出されたからって、てめえにくれてやる仕事なんてないぞ」


 出まかせに教団の名を口にしたのが功を奏したか、男は鉄の棒をひょいと真ん中あたりに持ち替えた。


「仕事は自分で探すよ。そういうのには自信があるんだ。それより、ここいらを締めてるボスに会えないかい?」

 アディグはそう言いながら、頭で自身の所持品の再確認をする。

 ボスに手土産を渡して、この近辺に居を構える許可をもらおう。

 のちのちギロウの抗争や兵との問題で荒事が起こったら恩を売って、仲良くなったら晴れてタマナとおとなりさんだ。


「アディグ、この人、お腹を押さえて苦しんでる」

 思考を連れ合いにぶった切られる。タマナはいつの間にか壁に寄りかかって寝ていた年増の女のそばで屈んでいた。


「ママ、死んじゃいやよ」

 アディグたちよりも少し年かさの少女が、女の腹を必死にさすってやっている。

「大丈夫か?」

 鉄棒を持った青年が女たちのところへと駆け寄った。

 女からは酷い悪臭が漂ってくる。嗅ぎ慣れた、血と糞便の混じったにおい。

 せっかくの粥が入った器も、中身はそのままに乾いている。


 ――こりゃもうダメだな。


「薬は無いの?」

 タマナが問うと、鉄棒の男はため息をついた。

「よそ者だから知らないだろうが、シュラトじゃ教団様がお留守なんだよ。そっちの教団様だって手いっぱいだったんじゃないか? おまえたちも厄介払いされたんだろ?」


「教団がそんなことをするはずがない!」

 タマナが反論する。

 アディグは彼女の服の端を引っ張って、「さっきのは作り話だって」とささやくも、「そういう問題じゃない!」と返されてしまった。


「お医者さんは?」

「医者? バカかおまえ。誰が死にかけに医者代なんて払えるかよ。西のほうじゃ、安いモグリが多いのか?」

「でも、彼女のママなのに」


 ママ、ママと呼びかける声。女は呻きもしない。年かさの少女はすがる相手を鉄棒の男のほうに変えて「お願い」と言った。

「諦めな。また次のママを見つけるんだな」

「いやよ! この人とは長く付き合ってたのに。あんた、いつもただでヤってあげてるんだから、薬代くらい出したらどうなのよ」

「カネは……無くはないけどよ。教団様が立ち退いてから町医者が薬代を引き上げたんだよ。虫下しだって買うのに三日は稼がなきゃならねえ」

「三日くらい何よ!」

「そいつは三日も持たねえよ。それに、俺の三日ってのは、おまえが客を十人取っても届かねえよ」

「あたしに惚れてるくせに! 十回ならお釣りがくるでしょ!」


 少女が鉄棒の男のすねを蹴った。

 男は顔を歪ませ、鉄棒を握る手に血管を浮かせたが、反撃はしなかった。


「“ハッパ”を分けたこと、チクるから」

「おい、勘弁しろよ」

「だったら、薬! ママが死んじゃう!」

「苦しむのが長くなるだけだって。埋めるのくらいは手伝ってやるからよ。おまえもそろそろ、ママじゃなくて男を探せよ。おっと、“パパ”はたくさんいるんだったか?」

「うるさい。チクるから」

「調子に乗るなよ!」


 男はいよいよ鉄の棒をふり上げた。

 タマナもそれに気付いたらしく、娘よりも先に「やめて!」と声をあげた。


 ――チャンス到来!


 アディグは強気な娘の頭へ振り下ろされた一撃に向かって跳躍し、自身の顔面を割りこませて受け止めた。


「おい、ちび! 何やってんだ!?」「アディグ!?」

 鉄棒男とタマナが声をあげる。


「まあまあ! おれが薬代を出すからさ。あんたはこのねーちゃんを勘弁してやってよ。ねーちゃんもチクリはナシにしてさ。その代わり、ボスと会わせてくんない?」

 これなら伝手をつけて、聖女候補にもいい顔ができる。

 しめしめと鉄棒の冷たさを額で楽しみながら、懐から別の冷たい金属を探る。

 先ほどタマナの屋敷の前で寄付(・・)してもらった銀貨が何枚かあったはずだ。


「お、おい。マジで平気なのか?」

 男は鉄棒をどけると、アディグの頭を触った。


「石頭なんだよ。これも、あんたたちの役に立てると思うぜ……おっと」


 手が滑り、小気味のいい音と共に、銀貨が石床に散らばる。


「ホントに持ってた! ねえ、足りるでしょ?」

 少女が勝手に銀貨を拾い集め、男に見せた。



「……お釣りは仲直り料だ」

 そう言った男はすでに腕を振り抜いており、アディグの肩に鉄棒が叩きつけられていた。



「おれは仲良くしたいんだけど? ハッパの横流し、だっけか?」

 アディグは男を見上げて睨む。

 再び殴打を受ける。硬い振動こそは感じれども、痛みも負傷もなし。


「あんた、やっちゃって!」「きゃあ!」

 娘の声とタマナの悲鳴。売り娘が三つ編みを綱のように引っぱっている。

「こいつら、ちょっと変だと思ったのよ。流れ者の癖にこんな小綺麗な格好して! 西の組の幹部に決まってるわ! あんた、可愛い顔してるから、目を潰してあたしの代わりをやらせてあげる」

「代わりって……?」



「おい、タマナに手を出すな!」

 アディグの視界が赤く揺れた。



 またも鉄の一撃をもらっていたが、今度は棒のほうが曲がり、男が手のひらを震わせ呻いた。


「こ、このガキ、赤く光ったわ! “魔物”よ! 兵に突き出したら……橄欖石の教団って言ってたわね。足抜けした“神官”か何かなんじゃない!?」


 女は声をうわずらせて笑っていた。

 恐怖ではないだろう。売春の代打候補も手放して、まるで宝を見つけたかのように、こちらを見つめて震えている。


「全員起きろ! この腐った暮らしから抜けられるぞ!」

 鉄棒男の号令と共に、雑魚寝していた連中がのろのろと起き上がり始める。

 血染めの包帯を顔に巻いた痩身の男、しわくちゃの乳を垂らした老婆、片腕の無い男児までもがぎらついた目でアディグを見据えた。


 ――へっ、いい目してるじゃねえか。けど!


「おい、女を放すな!」

 鉄棒の男がまた叫ぶ。売りの娘が、再びタマナの三つ編みへと手を伸ばした。

 だが、その小娘の頬には赤い光をまとったアディグのこぶしがめりこみ、彼女は首から嫌な音を響かせて吹っ飛び、石の壁へと叩きつけられた。


 アディグはタマナの前に躍り出ると飛び上がって男の顎を蹴り上げ、石を振り上げた男児を足払いですっ転ばせ、飛びかかる老婆や怪我人どもを突き飛ばした。


「なんてことをするの!?」

「まじで言ってんのか!? こいつらに捕まったら、聖女どころか教団に頭を下げる立場になっちまうぜ!」

「子どもや怪我人まで!」

「こっちだって、生きるか死ぬかだっての!」


 気丈にも立ち上がる老婆や怪我人。その骨と皮ばかりの身体のどこにそんな力があるのか。

 再び飛びかかられたときには、手加減はしなかった。

 彼らのことも鉄棒男や売り女と同じく、人形のように壁や床に叩きつけてやった。


「やめて!」


 男児の水風船のような腹に足先を沈ませる……つもりだった。

 それよりも早くに耳に届いていた非難を孕んだ声が、少年の動きを鈍らせる。


 足先には飢えた腹ではなく、三つ編みの少女の背中。


 間一髪、転倒と引き換えに蹴りの軌道を捻じ曲げる。

 あやうく守るべき相手を蹴飛ばすところだった。


「痛いっ!」


 タマナの悲鳴。慌てて立ち上がると、蹴りから逃れたガキの汚い歯が、かばった恩人の腕に食いこんでいた。


「バカ野郎っ!」

 子どもを無理矢理引き離し、転がす。


「何を騒いでいる!?」


 ランタンの光。薄汚れた男どもが現れた。腰にはしっかりと研磨された石剣を帯びている。


「逃げるぞ!」

 少年は再び少女の手を取り、彼女が痛がるのも無視して駆け出した。


 ――くそっ、全部おじゃんじゃねえか!


 タマナはすすり泣いているようだが、逃走にはついて来ている。

 男たちは追跡よりも、現場の検めを優先するだろうか。


 ――いや、ダメだ。


 アディグは走りながら屈んで瓦礫の欠片を拾うと、早くも迫っていた追手の額に命中させた。


「走れタマナ。もっと早く!」

「やだ! 酷いことをして! そっちは来たほうと反対!」

「別のギロウの縄張りまで逃げるんだ!」

「別の!? また同じことをする気!?」

「……」


 そうなるかもしれない。個人的には別に構わないが、タマナが嫌がっている。

 なんにせよ、彼女の住まいの目と鼻の先を縄張りにしているギロウと揉めたのは最悪だ。

 浅はかだった。暗がりとはいえ、顔を憶えられた可能性もある。自分はともかく、こんなに長い黒髪なんてそうはいない。

 タマナに気に入られようとして、かえって彼女の暮らしを脅かしてしまった。

 聖女どころか一生、地下室に隠れなければならないかもしれない。


「待て! 魔物どもめ!」


 追手だ。若い男がふたり。足が速い。いや、引きこもりの少女連れが遅いだけ。

 このままでは捕まってしまう。石投げを試そうと屈んだら、その拍子にタマナがつんのめってしまった。


「もう走れない。謝ったら、(ゆる)してくれるかもしれないよ。これ以上酷いことをしたら、絶交だからね!」

 タマナが何かわめいている。


 住んでる世界が違いすぎた。地下と地上ということだけでなく、それ以前から分け隔てられていたことを痛感した。

 どう転ぼうと、彼女とはここでお別れになるだろう。



 ――それでも。



 少年アディグは決して自身の言葉を曲げない。

 己で己に課した“掟”(おきて)は、どんな石よりも堅い。



「おれはあんたを守るって言ったろ!」


 魔物の少年は立ち止まり、少女を背に四肢を真っ赤に燃え上がらせた。


***

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