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掟の魔物と囚われの聖女  作者: みやびつかさ
第一章 ふたつの歯車
3/93

境界を踏み越えて

 ――おんなじ白い床でも、こんなにも違うんだ。


 タマナの足裏は麻布のフットラップごしに、階段の冷たさや硬さを少しも逃すまいとしていた。

 足だけでなく、埃っぽい空気を吸う鼻孔や、暗がりの中を先導してくれている少年の頭を追う瞳、それから彼のぬくもりを感じている手のひらもまた同じだった。


 ――やったー! わたし、とうとう外へ出ちゃった!


 ほんの少し前には、いのちや貞操の危機を感じて地の底に落とされていたくせに、今は天井を突き抜けて空の彼方にいる。

 自分で自分が浮ついているのがよく分かった。

 欲し続けていた外の世界への帰還のことももちろんあったが、何よりも、この出来事が先ほどに夢中でめくり続けた“おはなし”の冒頭に似ていたからだ。



「ねえ、アディグは、じつは元は騎士団の幹部で無実の罪を着せられて退団させられて盗賊に身を落とした……ってことはない?」



 物語の主役格の男、いわゆるヒーローの設定である。少年は「はあ!?」とうわずった声をあげて振り返った。


「おれがどうやったら騎士団になんて入れるんだよ?」

「ご、ごめん。そうだよね。こんなに小さいのに」

「小さかねえ! ほとんどあんたと同じだろ。歳だって同じだ!」


 そう言うも少年はやっぱり小さい。犬のように吠えてはいるが、仔犬だ。


 タマナはがっかりした。


 近所の友人と遊んでいたころは、目線は男女ともに同じか、今のように女子のほうが大きいくらいだったが、両親からは、男はこのくらいの年齢になればにょきにょきと背を伸ばすものだと聞いており、地下室で夢想するあいだに、それもまた外に出たときの楽しみの一つとなっていたのである。


「わ、悪い。脅かすつもりはなかった。ただちょっと、食っても食っても背がデカくならないのが悩みでさ」

「引っぱってあげよっか?」

「引っぱったら伸びるのか? そうか、いつも頭をぶん殴られてるから伸びなかったのか?」

「面白い子」

「面白い? ひょっとして冗談だったのか?」


 アディグは本気で信じたようだ。彼もまた肩を落としてがっかりしている。

 その姿は“大盗賊様”よりも、在りし日の友人のひとりを思い出させたが、それはそれでタマナを勇気づけた。


「ちょっと待ってて、靴を探してくる」


 タマナは記憶を頼りに、両親の寝室として使われている部屋へと走った。

 この屋敷は、転居してきた最初の日だけ歩き回ることができた。

 もうかなり昔のことのように思っていたが、いざ地上に這い上がれば、地下での退屈が一枚の紙くらいに圧縮されたようであった。

 先ほど出逢ったばかりの少年に対しても、早くも気兼ねを感じなくなっていた。

 このぶんなら、ちょいと外の空気を吸えば、再び聖女のための禁に戻る気力も沸きそうだ。


 ――あれ? 靴が無い。


 足を傷つけるものがない屋内では、布を巻くだけでこと足りる。

 だが、話に聞かされていた「聖女として旅立つ日のためのとっておき」をしまってあるはずの衣装入れには、頼んでおいた白い靴はおろか、かつて彼女が身に着けていた衣類さえも無かった。

 それが前言を撤回させ、同時に両親への不信を芽生えさせた。


 ――わたし、いつまで閉じ込められるんだろう。もう、聖女になるのやめにするって、言おうかな……。


「なあ、連れ出してくれって言ってたけどさ……」


 背後から少年の声。タマナは悲鳴をあげた。

 あんな大仰な絹巻きのドレスを着て外に出かける気なんて微塵もなかったものだから、衣装棚をひっくり返す前に肌のすべてを晒していた……要するに全裸である。


「……」


 少年の黒い瞳が真っ直ぐと見つめてくる。

 いや、上から下と視線が移動し、下から上へと往復し、少女の顔よりもかなり低い位置で固定された。


「いつまで見てるの!?」

 慌てて、床に落としていた絹を身体に巻く。


 少年は頬こそは赤くしていたが、退室する気配もなく、顔をそむけもしてくれない。

 書物では「す、すまない!」と叫んだ元騎士の大盗賊と背を向け合う流れだったのだが。

 タマナが無礼に腹を立てて非難の追撃をすると、「見たかったもんでよ……」という真っ直ぐすぎる返事がきた。


「いやらしい人、嫌い」

「き、嫌い!? なんでだよ!?」

「なんでって、当たり前でしょ? 出逢って間もないのに裸を見られて、恥ずかしくないわけがない!」


 正論を言ったつもりだったが、少年はまばたきだけで返した。


「そうでなくても、見すぎ。想像力が貧相!」

「おれが暮らしてるところだと、服すら着てないやつも多いからさ。初めて顔を合わせた奴と寝る女も多いし……」

「そんな人……」


 そこまで言われてようやく気が付いた。

 少年の服はすっかり汚れており、破れや擦り切れだらけだ。

 服だけでなく、髪も乱れて脂っこく張り付いていたし、鼻先や肘や膝も茶色く変色している。


 ――貧民窟の子だ。


 心臓を鷲掴みにされた気がした。

 かつて、農家暮らしをしていたころ、両親に「スラムには絶対に近づくな」と言われていた。

 貧民窟とは隣り合ってはいたが、遠巻きの暴力沙汰を眺める以外に、関わりは無かった。

 タマナの家も元は税に喘ぐ農民だったから、物を乞われても、返事もせずに早足で通りすぎるように教育もされていた。

 関わり合えば、同じになってしまうよ。私たちは彼らとは違うのだよ。

 納税者のちっぽけなプライドの引かせた線であった。


 アディグは、その境界を踏み越えてやって来たのだ。


 いまさらになって恐れが蘇ってきた。

 しかしそれは、タマナの少女の部分が感じたのであり、聖女としては磨き直さなければならない部分だと、すぐに思い直した。


 貧民窟に落ちる者のすべてが邪悪ではないのは知っている。

 それに、教団は貧富や善悪を問わず、分け隔てなく施しをしている。

 聖女になれば、誰よりも率先してそれができなければならない。


 まずは目の前にいる恩人に報いなければ。

 薄い石英をはめこんだ窓の向こうは黒い。両親が帰るまで、まだまだ時間があるだろう。


「あなた、汚れすぎ」


 タマナは適当な布きれを探し出し、水がめの中にたっぷりとある水を使い、少年の手足や顔まわりをごしごしと洗い始めた。

 なかなか頑固な汚れのようで、指先や膝についた黒ずみはほとんど落ちなかった。

 顔立ちからして自身と同国の出身とは分かるが、日に焼けた肌と地下室暮らしのそれは別の生き物かとさえ思わせた。

 身体を拭いてやったあとは、脂ぎった黒い髪も洗うように指示した。すると、桶に入った水は瞬く間に汚水に変じた。

 水気を拭いて梳かしてやり、ぼろの代わりに身につけるものはないかと泥棒さながらに家探しをする。


 いけないことだとは分かっていたが、母親の麻の布巻きドレスの一つを盗み、半分に裂いた。

 安物ではないが、市長のパーティーに着て行くものよりは価値の低いものだろう。

 それを身体に巻いて結んで丈の短い服とし、少年にも宛がった。


 ところで、アディグはどういうつもりなのか、タマナのやることなすことに一つの文句も言わなかった。

 「おう」とか、「分かった」とか言うばかりで、髪を梳かしてやったときなど、終了を告げるまで半分眠ったようになっていた。

 「眠たいの?」と問えば、「いや、気分がいいだけさ。タマナはいいな」などと応答され、少女は頬を赤らめねばならなかった。

 好意を向けられるのはもちろん、言いなりになってくれるのは気分がいい。

 こいつならば、言ったらなんでも聞いてくれるような気がする。


 ところが、次の提案……タマナの本命のお願いだけは渋られてしまった。


「ねえ、あなたの住んでいるところを見せてくれない?」

「なんでだよ? 危ないって。それに、おれもシュラトに来て、あんまり日が経ってないんだ」


 危険なのは部外者であるからとか、闇夜であるからとかではない。いうなれば「スラムだから」。

 それは境界の内外に住むどちらの人間にとっても共通の認識だ。

 路上や廃墟で生活するような彼らも、夜はなるべく仲間同士でくっつくと聞くし、物乞いも“こちら側”に来て仕事をするし、彼らの多くがわざわざ“こちら側”の隣を選んで小屋を建てるのもそういうことだ。

 スラムの奥ではどんな恐ろしいことがおこなわれているのか、想像すらつかない。

 騎士の護衛付きの教団の慈善事業さえも、必ず“こちら側”で開催されているほどである。


 だが、タマナも譲らなかった。

 アディグに対して、「スラムを知ることは聖女になるためには必要なことなの」と説き、「わたしを盗み出してくれるんでしょ?」と畳みかける。

 そのくせ、「パパとママが戻るまでに帰宅したい」と追加の要望までつけた。


「おれはあんたに危ない目に遭って欲しくないんだよ」


 実直で真心のある返事だ。胸が軽く締め付けられた。うん、悪くない。

 ちょっとした欲望が首をもたげ、「危ないことって具体的には?」と余計なことを訊ねさせた。


「殴られて、物陰に引きずりこまれて、身ぐるみ剥がされて、犯されて捨てられることに決まってるよ。タマナは知らないかもしれないけど、よくあることなんだよ。今日の昼間も、ばあさんがそんな目に遭ってたぜ。タマナだったら、捨てずに返してもらえないだろうし、たぶん、その髪だって切られると思う」


 タマナは自分で聞き出しておきながら、足が震えた。


「髪を切るなんて、酷い嫌がらせ」

「綺麗で長い髪は買い取って貰えるんだよ。カツラが作れるからな。それだけあったら、一週間は食っていけると思うよ」

「一週間? これを伸ばすのに何年も掛かったのに……」

「売るために伸ばしてたんじゃないのか?」

「聖女様になるためよ」

「おれが見た聖女様は肩くらいで切り揃えてたけど。中には、つるっぱげの聖女様もいるらしいぜ」

「わたしは髪のながーーい聖女様がいいの!」

「タマナがいいって言うならいいけどさ。さすがに歩くのに邪魔じゃないか?」

「大丈夫。適当に結ぶから」


 手首に結んでいた麻の紐をほどき、それを使って手早く髪をまとめる。


「すげえ。手際がいいな。それに……可愛い」

 右から左から笑顔に覗きこまれる。

 タマナはせっかく結んだ髪をほどくと、今度は束ねた髪を団子にしてまとめてみせた。


「それも可愛い! もっと近くで見てもいいか?」

「どうぞどうぞ」


 少年の鼻息が首筋をくすぐる。


「近い! 髪型をちゃんと見てないでしょ?」

「首からなんかいいにおいがしてさ」

「しない! 香水もお化粧もしてないのに」

「気のせいか。ほかにもできたりするのか?」

「もちろん、まだまだあるよ」

「いいね、全部見せてくれよ!」

「そんなことしたら日が昇ってパパとママが帰ってきちゃう!」


「それは困るか。じゃあ……“ひとつだけ”頼むよ」


 ――ひとつだけ。


 それは父との約束。地下室暮らしの我慢の対価。

 タマナはくちびるを噛み、何かを思案し、紐も使わずに下ろした髪をふたつに分けた。

 それを「はい」と一瞬だけ見せて、すぐに髪から手を離す。


「えーっ、もっとよく見せてくれよ」


 苦情が出る。そんな少年に対して背を向け、髪を肩越しに前へと流して編み始めた。


「……“もうひとつ”。もうひとつ見せるね」


 不思議だった。髪で暇を潰すのはいつものこと。鏡を見ずとも編み上げることができる。

 だがこの瞬間、指の一挙一動が、地下室から踏み出したときの一歩よりも重たく感じた。

 髪は長く、ただでさえ時間の掛る三つ編みの仕事が、待ちぼうけるようにひとつ、ひとつと時を刻むようだった。


 タマナは静かに大きなおさげを作り上げると背中へと流し、少年を振り返る。


「どう? 可愛い?」


 向かい合えば三つ編みは見えるはずもない。

 しかし、少年から帰ってきたのは「一番好きだ」という心強い言葉。


 タマナは確信した。今なら頼めばスラムへと連れて行ってくれるはず。



「ねえ」「おれさ!」


 ……掻き消される。



「おれさ、決めたよ。あんたを守る。絶対に、ずっとだ」



 有無を言わさず、少女の白い手が少年の黒ずんだ手に結ばれる。髪を編むように、どこか、からみあうヘビのように。



「「行こう。日が昇る前に」」



 ふたりはうなずき合い、白亜の屋敷から黒き闇へと飛び出した。

 繋がれた手と手。その境界に、確かな温もりを感じながら。



***

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