泥棒の少年
少年“アディグ”は、自分がいつどこで生まれたかも知らなかった。
赤子のころに物乞いのダシに使ってくれた女たちのすべてが母で、暴力支配と抗争による庇護が父であった。
彼が活動の拠点を置くのは、石造りの見事な建物の立ち並ぶ都市部を仰ぐ地や、採石村の脇に、必ずといっていいほどにできあがる集落。
徴税や兵から逃れた貧者や、歴史より弾かれた者たちが構成するスラムだ。
窃盗、略奪、薬物、殺人、強姦。忌避されるべきあまたの罪が、暮らしの中にごく自然にある世界。
無論、巡回兵の仕事には、この寒貧の地区も含まれている。
新任者が来るたびに、正義と死のトレードがおこなわれ、青き正義が倒れれば、次の兵士がまた同じことを繰り返す。
そのうちに、石槍の代わりにコインを使う者が着任し、兵から死者が出ることがなくなる。
かといって、完全なる無秩序というわけではない。
スラムは法の庇護を受けない代わりに、いくつもの小さな勢力が統治している。
それらは、縄張り――あっちの通りからこっちの通りまで程度――を主張し、常に隣の勢力と小競り合いをしている、“ギロウ”と呼ばれるごろつきの集まりだ。
暴力の大半は彼らの作り出すものだったし、彼らの暮らしを支えるのは禁止薬物や脱税売春などの不法行為であった。
だが、縄張り内のことであれば、貧民どもに水を分け、亡骸は自腹を切ってまでも梵焼してやり、境界の外よりの略奪からも守った。
アディグもまた、幼き時分からギロウの一派に加担し、誰かを殴り、よそ者から奪い、泥水をすすって生きていた。
彼は身体こそは小さかったが、こぶしに訴えるシーンにおいては抜きんでており、ギロウ内でも一目置かれていた。
しかし、違法行為で得たあぶく銭を“ケムリ”に変えて夢の世界に逃げる仲間を軟弱だと思っていたし、一派の決める境界線よりも、己の引いた線を重視した。
ある日、内紛ついでにリーダーとその取り巻きを全員のしてしまい、かといって王者として誰かをこき使うのも好まず、長く世話になった一派を抜けることとなった。
集団の掟に縛られるには頑固すぎたのだ。
それからも、どこかで一目置かれては揉めて出て行き、またどこかで一目置かれては揉めて出て行き、根を張らず各所を流れ続けた。
そして、いくつものスラム、その境界の内外を見ているうちに、スラムとそれ以外の世界の違いを生むものについて考えるようになった。
――だいたいカネ持ちが悪いんだよな。
これに気付いたのは、富豪の食糧庫の食料をまるまる窃盗したときのことだ。
一人では食い切れぬ量。ソーセージ一本の相場は腹の隙間に比例する。
腹いっぱいの自分と、飢え死に寸前の見知らぬ人間、どちらにソーセージが渡るべきか?
アディグは盗んだ食糧の余りをスラムの物乞いたちにくれてやった。
スラムとの境界に訪れるカネ持ちどもは、余らせたコインとソーセージを後生大事にしてまるまると太っている。
余分をこちらに使うにしても、生きるために身体を売る女たちの胎を膨らませるか、馬鹿どもの吸うケムリについて加担するかだ。
貧者を貧困に縛り付け、人間を“あちら側”と“こちら側”に分けたのは富める者。
ゆえに、アディグはカネ持ちの屋敷に忍びこんでは窃盗をおこない、余分を目についた物乞いにくれてやることを繰り返していた。
月の出ていない夜は、仕事に向いている。
少年は今宵も、どこかの屋敷からありがたいお恵みを頂戴しようと、スラムから道一本隔てた通りを歩いていた。
カネ持ちは普通、スラムから離れた安全な地区に屋敷を構える。
盗賊少年の仕事場も無論、それに準じたものとなる。
今回は流れて来てまだ日の浅い西部の小都市だったし、下見で済ませる勘定も入れての行動だった。
だから、ただ通りすぎるだけのつもりだったこの通りに起きようとしていた“異変”にも、よく気が付いた。
――“教団狙い”なんているのかよ。
窃盗犯にもポリシーというものがある。
この国には“石の教団”という、鉱物に宿る神を崇拝する信仰があり、その石たちを産む女神の眠る大地に感謝して生きている。
教団は寄付と国からの補助によって成り立ち、慈善事業として病院の開設や識字学習、食事の提供などをおこなっているありがたい団体だ。
アディグも何度か世話になったことがあり、貧富の分け隔てないその姿勢には好感をいだいていた。
彼に限らず、多くの小悪党は貧乏人であり、教団に恩義を感じる者は少なくない。
ゆえに、犯罪者たちにも教団の持ち物に手を付けることを禁ずる暗黙の掟があった。
ところが、教団の施設とおぼしき白い石造りの神殿の前で、男どもが何やらこそこそと相談をしているのだ。
――これは頭突きの一発でもお見舞いしてやらなきゃならねーな。
見たところ、小汚い感じの“同族”。
だが、栄養状態はいいらしく身体は屈強で、腰に剣を帯び、槍の石突きをついている。
得物のやいばも、ごろつきには不釣り合いな真新しい花崗岩や、錆こそはついているものの鉄あつらえのものだ。
罰当たりなコソ泥にしてはものものしい装備。
反して、彼らはなぜか“鍵”を持って門でがちゃがちゃとやっている。錠は瞬く間に外れた。
連中は雇われの仕事人とみた。教団同士の抗争だろうか。
スラムの縄張り争いと同じように、教団にも派閥や宗派があり、水面下ではいがみ合っていると聞く。
拝んでいる石の違いなんてどうでもいいと思ったが、なんにせよこの施設の仕事が立ちいかなくなれば、明日から多くの人が困るだろう。
武装した男が四人。
いっぽうで少年アディグは得物の一つも持たず、背も低く体つきもあまり豊かでなく、いつから着てるか分からないぼろ布を身にまとい、足も裸足である。
……にも関わらず、彼は足音をぺたぺたとさせながら、施設の前にたむろする連中に向かっていった。
「おいこら、教団様の施設に手を出すんじゃねえよ。とっととカネ目のもんを置いて消えな」
男どもはどよめき、焦りを見せたものの、こちらを見て安堵と共に笑いを漏らした。
「スラムのガキか。驚かせやがって」
彼らは打ち合わせもなく動いた。
少年の腹には石の槍。少年の頭には錆鉄のやいば。
男どもが残虐なだけではない。「スラムのガキへは即決」というだけだった。
「そんなもんが効くか!」「はあっ!?」
はて、刺さったように見えて仕損じたか。男たちは一様に、二度見した。
アディグは不敵に笑いながら槍をつかんで身体から離し、剣の追撃を頭で受けた。
「なんだこいつ、痛くねえのか!?」
「おれは石頭だ!」
少年は背が低い。飛び上がった黒い頭が男の顎を砕いた。
その間にも彼は槍や剣で滅多打ちにされていたが、動じる様子がない。
「ぐええ!」
潰れたカエルのような断末魔と共に、四人目の男が倒れた。
少年は握りこぶしと何発かの頭突きだけで勝利を収めてしまったのである。
そのうえ、取り落とされた武器を全て素手で破壊した。
「反省しろよ」
と、言いつつも伸びた男たちのふところを漁る。
少年は銀貨数枚と干し肉を失敬した。
「くそ、“魔物”……だったか」
倒れた男のひとりがうめいた。
アディグは喧嘩相手から“魔物”と称されるのもしばしばであった。
いつも快勝であったから、敗北者の捨て台詞はおはようの挨拶のようなものだ。
「おい、ちびすけ。貴様、ボスのお相手の子飼いだな? スラム民のふりした“神官”か?」
息も絶え絶えに男が問う。
「おれは別に教団様とはカンケーねえよ。単に、神殿に押し入ろうとする不届き者を退治してやっただけだ」
「はぐれの魔物か? くそ、ますますついてねえ」
「そりゃ、おれははぐれものだけどさ?」
「そういうことを言ってんじゃねえ。“掟の力”を使っておきながら。あのかたの目をごまかせると思うなよ……」
「なんのこっちゃ? なんにしろ、さっさとどっか行きな!」
アディグは倒れた男の頭をグーで叩いた。
「いてっ! もうひとつ言っておくが、この屋敷はもう教団のもんじゃ……」
「おい、余計なことを言うな! さっさとずらかるぞ。これ以上手間取ると、俺たちもヤバい……」
男たちは互いに肩を貸し合いながらそそくさと撤退していった。
少年は彼らの言い残した言葉に首を傾げたが、重ねて気になったことがあった。
――こいつらが盗ろうとしたものってなんだろ?
半分聞き流してはいたが、なんとなく宗派間の諍いだということは察せられる。
秘密裏に人を雇ってやらせることといえば、ご神体の破壊や盗み出しだろうか。
ギロウの内部抗争でも「リーダーの女や宝をこっそりと頂く」なんて話は珍しくなかった。
しかし、この小さな神殿はすでに教団の持ち物ではないらしいし、ご神体が置き去りなんてこともないだろう。
「ま、いいや。教団様の持ち物じゃないってことは、たぶんカネ持ちの家に違いない。つまり、盗ってもよし!」
アディグは手をこすり合わせながら持論を展開し、男どもが開錠してくれた扉を開き、真っ白な建物へと足を踏み入れた。
白い石壁は、一つ建てるのに十人は使ったであろう切れ目のない見事なものだ。さらついた手触りも気持ちがいい。
多くの小部屋はもぬけの殻で、家具の一つも置かれておらず、床や壁の白が闇の中でも映えている。
食堂や厨房と、それに近い部屋のひとつだけには生活の気配が感じられたが、灯りも物音もせず、やはり無人のようであった。
カネ持ちにありがちな漆塗りの木製品や、金属の食器が使われている。
教団関係者であれば石器や陶器を用意するはずだ。
反して、使われている部屋以外は掃除も行き届いていない様子から、召使いもいないらしい。
若き盗賊は首を傾げる。
仮にここが元が教団の施設で、彼らがここに忘れ物をしていたとして、さっきの男たちのような手段で回収する必要などあるのだろうか。
信仰やカネをちらつかせれば簡単に取り返せるのではないか。
この屋敷に隠されているものが、ますます気になった。
――“祈りの胎”はどうなってるんだろ?
祈りの胎。どの宗派も持つ、ご神体の石や女神像を置いて願掛け祈祷する部屋の呼び名。
神官や聖女による説教もそこでおこなわれる。
この部屋は、母なる大地に潜りこむ地下に設けられることが多い。
カネ持ちが財産を隠すのも秘密の地下室だし、犬っころだって骨を土の中に埋める。
大事なものはみんな、地面の下なのだ。
アディグは無駄な家探しをせずに、下への階段を探した。
それは隠されることもなく、すぐに見つかった。
降りてすぐに扉に突き当たった。扉は新しめの木製のもので、錆の無い錠が掛けられている。
いや、ちょっと立てつけが悪いのか歪んでいるような気がする。
ともかく、出入り自由であるはずの“祈りの胎”には似つかわしくないものだ。
小銭稼ぎついでに男から失敬していた鍵を使い、錠を開けに掛かる。
――ありゃ?
ところが、どれだけがちゃがちゃやっても、錠が開かないのだ。
鍵は三本あった。ひとつは露骨に大きさが合わなかった。入り口の門のものだろう。
もう一本は入り口の扉から転げたぶん。
最後の一本を試しているのだが、鍵穴にすっぽりと納まるものの、どうも上手くいかない。
――そもそも、鍵ってどうやって使うんだ?
穴があったら入れる。そこまでは分かる。
だが、無知な少年の頭では「鍵を回す」ところまでは知恵が至らなかったのである。
だって大抵の仕事では、力づくで壊して侵入していたし。
ふいに、扉の向こうで音がした。誰かがいる。
少年は慌てて扉から身を離した。
――人さらいだったってわけか。つまんねえな。
カネ目の物や食い物ならともかく、人間には大して興味が無い。
とりあえず、一週間はあの男たちから剥いだもので食いつなげそうだし、教団に関係しているかもしれない人物相手に狼藉を働くのも気が引ける。
少年はきびすを返し、階段を上り始めた。
……しかし、なんの因果か、これがさだめというものか。
あるいはただのまぬけか。
正確には、乾いた裸足となめらかな石灰質の床の摩擦の学問と呼ぶべきかもしれない。
要するにアディグは、足を滑らせて階段を転げ落ち、背中を激しく扉にぶつけた。
急いで脱出しようと手足をばたつかせるが、階段の最下段と扉のあいだに身体がすっぽりと挟まって、立ち上がるのに手間取ってしまう。
扉を揺するかたちとなり、彼は自分で立てた音でさらに憔悴を募らせた。
「助けて……」
声だ。
この声音がアディグに想起させたものは、“死”だ。
スラムの溜まり場では、怪我や病気で死を迎えようとする者とよく出くわす。
盗賊少年は彼らにも余ったぶんを施していた。
スラムでは誰しもが施しを欲していたが、彼は“前を向いている者”を選り好んで与えていた。
たとえ、素人目に見ても夜明けを待てぬような病人や重傷者でも、「生きたい」と前を向いてさえいれば優先して水や食事を分けた。
逆に、本人にその意志が見られなければ、介助者たちが懇願しても手を差し伸べなかった。
そいつのいのちはそいつのもの。決めるのは本人、というわけだ。
それは、アディグ少年がギロウの下っ端だったころから一匹狼の今日まで持ち続ける、“不変の掟”のひとつである。
彼は己の定めた掟には決して逆らわない。
気付いたときには、力いっぱいに木の扉を殴っていた。
己の身体が、また不気味に赤く発光していたが、構わなかった。
扉をぶち破ると、頼りないろうそくの明かりが、鮮やかなカーペットの敷かれた広い部屋をぼんやりと浮かび上がらせた。
「い、いや! まだ死にたくない!」
叫び声。光の届かぬ部屋の隅に、一人の少女がいた。
震える身体に巻かれた絹の衣装は白く輝き、床について余るほどに伸びた髪は黒く深い川を想起させる。
そして、こちらを見つめる瞳は黒曜石のようで……浮かべた涙が虹の光を湛えており、アディグもまた見つめ返さざるを得なかった。
「やめて、犯さないで」
三度目の懇願を受けたとき、少年の胸を鋭い石の矢尻が貫いた。
新手か? それとも男どもが戻ってきたか?
いや違う。
「すげえ可愛い子。惚れた」
思わず口にしていたが、少女には聞こえなかったようで、怯え続けている。
「落ちつけって。おれはあんたに酷いことをしないよ」
「だったら、何をしにきたの!?」
「何って……泥棒?」
アディグは頬を掻き、深く考えずに言った。
「強盗ね!? やっぱり殺すんだ! ひとでなし! パパとママはどうしたの!?」
「上には誰もいなかったよ。いや、いたけど」
「ふたりを殺したの……!?」
少女は両手で顔を覆って泣き始めた。
「えーっと……」
少年は困った。困ったのは久しぶりだ。
うるささ以外で誰かに泣きやんで欲しいと思ったのは初めてだ。
どうすればいいのか分からない。
ただひとつ分かるのは、少女を泣かせているのは自分だということ。
アディグは部屋の端まで逃げた少女に歩み寄り、背をさすってやり、声を掛けて落ち着かせることに専念した。
それから、聞く耳を持ちそうになった頃合いに、自身がここに来たいきさつを話したのである。
「つまり、あなたはいい泥棒さんなの?」
「へ!? まあ、おれがよしと思った通りにやってるんだけど……」
励ましていた少年は、気圧されそうになっていた。
タマナと名乗った少女は、アディグと同じ十四歳であったが、彼よりも少し背が高かった。というか彼が小さい。
それに加え、さっきまでは追い詰められた小動物の如くに震えていたはずの少女が、涙でなく興味で瞳を輝かせていたからだ。
「いい泥棒さんなら、お願い。うちのパパとママはよそ様に迷惑を掛ける人じゃないし、教団にもたくさん寄付をしてるの。だから、うちから何もかもを盗っていかないで!」
両手を握り合わせてのお願いときた。
可愛いなあなどと返事をしないでいると、少女の顔が、ずいと近くなって鼻先が触れあった。
「まあ、あんたがそう言うなら、考えてもいいな」
少年は一歩下がり、顔を背けながら言った。
「ありがとう! でも、せっかく、ほかの強盗を退治してまで泥棒に来てくれたのに、何も貰えないのは可哀想かな……」
タマナは随分と楽しそうである。
アディグはその様子を見ていると、胸がぎしぎしと鳴り、頬の根っこが痛むほど嬉しくなった。
何も盗らなくとも、これが報酬で悪くないじゃないか、などと考えていた。
「そうだなあ……。だったら、“ひとつだけ”。ひとつだけなら、なんでもあなたの好きなものを盗んでいっていいよ」
「なんだそれ、変な奴だな」と思ったが、可愛いからよしとした。
「なんでも? あとからダメって言ったりしないか?」
「しない! 本物の強盗から助けてくれたお礼だから」
タマナはにこにこと笑っている。
アディグの欲しいものといえば、彼女とまた話す機会だ。
よし、ここのスラムを締めるギロウどもとはせいぜい仲良くしておこう、などと考えた。
でも、できればもうちょっと欲を掻きたい。
「じゃあ、あんたを頂いていこうかな」
軽い冗談のつもりだった。
我ながら歯の浮くセリフだ。またも少年は頬を掻いた。
それから後悔をした。タマナは笑いもしないではないか。調子に乗りすぎたか。
ふいに、心配する少年の腕が引っぱられた。
少女のふたつのたなごころが、彼の手を包みこんでいる。
「……お願いします。わたしをここから盗み出して」
かちりと噛み合う視線。
今度は涙でも笑顔でもない。
その瞳は騎士の持つ鋼鉄のつるぎよりも鋭利で、貫くように真っ直ぐと前を向いていたのであった。
こうして、窃盗犯の少年と幽閉された少女の歯車が隣り合わせとなり、回り始めた。
しかしそれは、どこかいびつで、がたがたと芯を揺らし、いつ脆く崩れるかもしれぬ石の歯車であった……。
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