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掟の魔物と囚われの聖女  作者: みやびつかさ
第一章 ふたつの歯車
1/93

地下室の少女

 地の底に女神が眠ると信じられる石の国。

 その西部の町シュラトのはずれに佇む豪奢(ごうしゃ)な屋敷。

 石灰質の白い壁床は、騎士団の誓いの間か教団の祭祀場(さいしば)を思わせるほどに磨き上げられている。


 その不遜なる白亜の奥深く。

 ろうそくのみを頼りにする地下の一室に、ひとりの少女が椅子に座っている。

 陽を忘れた青白い肌。クワやつるぎと無縁の無垢なる指。

 誰に誇るわけでもなく身にまとった一枚の白絹の衣は流れるままの黒髪と共に床まで届き、燈火(ともしび)にぬめり光っていた。

 ただ、二枚の薄き桜だけが色を持ち、何かを待ち焦がれるように香る息を漏らした。


 扉を叩く音が響き、少女は立ち上がる。


「パパ!」


 少女の声は遊ぶ仔兎のごとく弾む。

 扉の叩かれる音だけで、親のどちらが来たのか聞き分けられるようになっていた。

 食事の時間や、“箱”の取り換えの時間とも違う。そもそも、それは母の役目である。


 返事より一拍置いて開かれた扉。少女は落胆した。

 部屋の外には、いつもよりも着飾った父母両方の姿があった。


「お出かけ?」

「市長の誕生パーティーに招かれていてね。帰りは夜明けごろになるだろう」


 ――夜明け……。本当の夜を最後に見たのは、いつだったかな……。


 今の彼女の世界は常闇であり、扇げば消える小さなともしびだけが昼夜を決めていた。


「あの、わたしも連れて行って……くれませんか?」

 胸に手をやり……ちらっ、ちらっと見上げる娘。


 しかし、両親は眉間にシワを寄せる。


「おみやげに“ひとつだけ”欲しいものを持って来てあげよう」

「じゃあ……青い花をひとつだけ」

「青い花だね」

「植木鉢は赤土を焼いたものがいい。花はまだ咲いてない(つぼみ)でお願い」

「分かった分かった。……それよりも」

「大丈夫。ここには、わたしの欲しかった物が沢山あるから」


 答える娘。室内に差しこむ父の持つランタンの光が、彼女の足元に転がったぬいぐるみや人形、山積みにされた書物を浮かび上がらせている。


「またこんなに散らかして。部屋の片づけ、しておかなくちゃだめよ」

 たしなめたのは母だ。

 下を向く少女。「はい、ママ」。しかし彼女は、両親を再び見据えてさらに欲した。


「庭までお見送り、しちゃダメ?」


 さも恐ろしいことを聞いたかのように、口に手を当て驚く母。

 父もまたナイフを突き付けられたかのように、太った頬を小刻みに振った。


「いけないわ。外には“魔物”がいて危ないから」

「おまえに何かあったら……!」


 親子の問答は、二度三度と繰り返される。

 お日様が見たい。小鳥の声が聞きたい。お友達がどうしているか知りたい。

 今は夜だ。鳴くのは肉を喰らうミミズクだけ。友達はもう眠っているよ。


 畳みかけるように母がソプラノで「“魔物”が来る」。

 後追いのテノールが、「(けが)されてしまう!」。


 あるじたちが家を空けるときに、必ず行われる儀式。

 この屋敷での風物詩。

 少女が出られぬのは“掟”(おきて)であり、問いかけ跳ねつけられるのは、ある種の“理”(ことわり)であった。


 もう、幾度と繰り返されたか分からぬやりとりを終え、独り残された娘は「ケチ!」と叫んでから椅子へ戻った。


 外出の話に限らず、彼女は欲するものを多く封じられてきた。

 父は“ひとつだけ”くれる人、母は禁ずる人。

 その問答の最後には、決まってこの言葉が付随する。



「我慢しなくてはいけないよ、“タマナ”。おまえは聖女様になるのだから」



 聖女様。この一言が、とめどなく溢れる少女の欲の壺に蓋をしていた。

 それはタマナにとって、床に散らばるおもちゃたちはもちろん、部屋に持ちこめない太陽や森や小川よりも求めてやまないものであった。


 タマナもかつて、ほかの子どもたちと変わらぬ暮らしをしていた。

 貿易の盛んな港のある都市キルキ。そのそばに寄り添うようにあった農村。

 町の外れに見える異国の教会と鐘の音。

 畑を耕す両親を手伝って水を運び、友人たちと街や野原を駆け回り、遠くの豊かな都市や神殿に想いをはせる。

 貧しくはあったがスラムに身を落とすほどではなく、学校に通い文字も学び、市場で騙されない程度の算術もできたし、優しい家族と友人に囲まれてもおり、幸せだった。


 ある日、溜め池をこしらえるために父が掘った穴から、“コインのもと”が顔を覗かせた。

 大きな銀脈だった。

 それを国へ報告して買い上げてもらい、彼らの暮らしぶりは一気に豊かとなった。

 それでも両親は、タマナが足裏を土で汚しても叱らなかったし、ぼろこそは剥ぎ取ったものの必要以上に着飾ることを求めなかった。


 ところが、一つの出来事を切っかけに、彼女は地下室に幽閉されることとなる。

 意地悪だとか虐待だとか思ったことはない。

 これは、彼女も同意したことであった。


 ……タマナは、あの日の赤さを今でも鮮やかに思い出せる。


 腿に手をやると、手のひらにべったりとした赤。足元には同じ色の血溜まり。

 それは娘の血ではない。土の上に拡げられた、友人のいのちの地図であった。


 “魔物”が現れたと同時に両親は住まいを替え、タマナを地下室へ押し込んだ。

 魔物から隠れるにはそれが一番であったし、事件による洗礼がタマナに聖女への道を拓いたからだ。


 決して穢されぬように。


 聖女を受け入れ、祀ってくれる団体、“石の教団”。

 国教であり、あまたの宗派を抱える大教団。

 宗派はそれぞれひとり聖女を置いており、持たぬところは相応しい女性を探し続けている。

 両親は各宗派に使いをやり、タマナにいずれ聖女になれることを約束した。


 うちでの“掟”(おきて)さえ守れば、その都度欲しいものが“ひとつだけ”貰える。

 その日まで耐え抜けば、最も欲した“憧れの聖女様”の身分さえも己のものとなる。


 タマナは薄暗い地下室で父からの朗報を待ち続けた。


 まるで釈放を待つ罪人であったが、この部屋は牢とは程遠い造りである。

 初めて足を踏み入れたときは、もうすでに聖女になったかと思ったほどであった。


 ベッド代わりの祭壇。磨き上げられたタイル敷きの床。

 この屋敷は、ちりあくたの宗派の一つが分殿にしていた建物を買い上げたものであった。

 上の部屋から下ろしてきた書架や衣装入れも、それまでの暮らしで見たこともない大理石の見事なものだ。

 そこに好みの色の布やカーペットを敷いてもらえば、聖女というよりは一国の姫君の暮らしを模した気にさえもなれた。


 だが、それももう昔のことで、手入れ不行き届きの部屋の隅では地下水の染みと黒カビが根を張り、棚の上には埃が積んでいる。


「はあ……。マジで退屈なんですけど。パパとママはいいなあ」


 悠久に続く石畳の世界で、ただ待つ日々に飽いても無理はない。


 タマナの世界と、それ以外を隔てていたのは、たった一枚の木の扉。

 それに施された錠も平凡なものであったし、両親の定めた禁すらも罰則を明言されたものではなかった。


「ちょっと、外に出ちゃおうかな」


 いや、首を振る。


「ダメダメ。わたしは、聖女様になるんだから!」


 ……と、言いつつも。


 視線の先の扉。その中央が少し凹んでいる。

 前回に両親が家を空けたさいに、彼女は扉をぶち破ろうとして体当たりをしていた。

 しかし、みしりという音と共に壊れたのは肩のほうだった。

 痛みを誤魔化したり、扉の歪みに気付かれないようにするのにかなり冷や汗をかいた。


 ちょっと外の空気が吸いたかっただけ。家出のつもりなんてない。

 扉はほら、古いものだし、うっかり壊れることもあるよね。

 でも、扉が倒れた拍子でパパやママが怪我をしたら困るから、留守の隙に壊れてもらったほうが安全。

 あ、ねだるのは青い花じゃなくって、木製の槌にでもすればよかったかな? 石工さんが採石に使うような頑丈なのがいい。

 それか、本で読んだあれ。爆弾か破城槌(はじょうつい)を乗せた戦車をおみやげにねだればよかったなあ。


 ……などとひとりごちながら、聖女候補は未読か既読かろくすっぽ憶えていない書物を手に取った。



 書のページが一枚一枚めくれてゆく。


 文脈へと向けられた長いまつ毛。

 ときおり呼吸を忘れているのか、くちびるも胸もその動きを止めている。


 書物はただめくれる。めくられ続ける。


 ページはまるで、地下室の少女をさらなる深淵へといざなうように、呑みこむようにめくられ続けた。


 父のくれる書物には、退屈な学術書が多かった。

 聖女を目指すのなら学を付けろという考えだ。

 だが、読めこそはするが理解できないものも多く、よくて丸暗記、大抵は昼寝のまくらか人形遊びの家具に使われるのがオチだった。

 その人形遊びすらも、もう相応しくない年頃だったし、あくまで退屈を殺すためのものだ。


 しかし、今夜は紙のこすれる音が鳴りやまない。

 一匹の魔物が処女を騙しこむように、書物は少女を縛りつけにしていた。


 年頃の娘の心を呑みこんだのは、とある物語であった。

 雄弁で、ときに大げさに煽られるそれ。

 タマナは息をひそめる小動物になったかと思えば、何かを発見した子どものように声をあげたり、禁じられた快楽に身を沈めたかのような吐息を漏らしもした。


 青白い肌に赤みが差し、乾いた瞳が潤い、紙の先がなめらかな指を切り、赤い玉がページの端に染みを作っても紙の世界に沈み続けた。



 ……ぱたり。それからまた溜め息。



「こんな素敵なおはなし、今まで読まないでいたなんて……」


 表紙の羊皮紙を愛しく撫ぜ、それから幸せな結末と、いまだ序盤に過ぎない自身の物語とを対比して、三度目の大きな溜め息をつく。



「はーあ。わたしも“大盗賊様”にさらって欲しいなあ……」



 タマナの胸の天秤が揺れる。

 いかに聖女という見事な金貨が皿に乗っていようとも、他方の皿に積み上げられた銀貨の山は、いささか大きくなり過ぎていた。

 陳腐ながらも駄目押しに乗せられた最後のコインも、ひときわ重たいものであったようだ。


 さだめや因果というものがあるのなら、この日のことをいうのだろう。

 あるいは、書の魔力が願いを聞き遂げたのか、はたまた外にいるという、“魔物”の仕業か。


 扉から大きな音がした。


 ――誰!?


 父や母が鍵を差しこむ音色とは明らかに違う。

 両親が出掛けてから時間は経っていたが、夜が明けるのにはまだ早い。

 いらつくような金属音が続く。


 ――泥棒? 殺されちゃう!


 真っ先に思い浮かんだのはそれだ。


 深夜にカネ持ちの家へ押しこむ強盗など、物語よりもありきたり。

 一瞬にして天秤は床に転がり落ち、甘い幻想は霧散し、頭の中で鐘の音のような耳鳴りが響き始めた。


 後ずさり、腰を抜かし、椅子が倒れる音が地下室に響く。

 同時に、鍵をいじる音が止んだ。


「た、助けて……」


 懇願から数秒経って、木の扉を激しい暴力が打ち鳴らし始めた。


 少女はいまさらになって書架を見つめた。

 父が腰を痛めて運んでくれた棚の裏には小部屋があった。

 もとは、神官が信者からの相談を聞くための小部屋だったのだが、入り口を塞ぎ、何かあったときはそこに隠れるようにと言われていたのだ。


 気取られた以上、隠れても無駄だろう。

 そもそも、ことが起こってから彼女が本棚をどけて逃げこむのには無理がある。


 気付きが呼び戻した冷静さが憎らしかった。

 仮にいのちまで取られなかったとしても、侵入者により確実に乙女の誇りがはく奪されることを教えた。



 入ってくる。タマナの世界に、魔物が入ってくる。



 守りは膜ほどに薄い扉一枚だけ。


 少女は目を見開いた。



 ――あれは、何?



 黒い瞳に映るのは赤。


 どっ、と血が溢れるように……扉の隙間から、真っ赤な光が忍びこんでいたのであった。


 

***

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