008
そんなのものはない。
そう言おうとした。しかし、人間というものは無意識に反応してしまうもので、私の視線が一瞬動いたことを彼女は見逃さなかったようだった。
彼女は首を七十度ほど回転させた。その視線の先には、アレがある美術準備室。
「そこかぁぁぁ!」
まるで忍者かと言いたいほどの素早い動き。私もかなり早めに動き始めたはずだが、それでも、彼女の動きについていくことができなかった。
彼女がドアに手をかける。
やめろ。やめてくれ。
その願いもむなしく、美術準備室のドアが開け放たれる。
そして、彼女は見てしまった。
詰みあがったキャンバスの山。そのすべてが無惨な姿でそこにあるということを。
彼女の表情は見えない。私が見られたのは、その光景を見た瞬間動きが止まった彼女のうしろ姿だけ。
私が何も言わずにいると、坂田さんはキャンバスの山に手を触れた。上から一枚一枚、その中身を覗き見ている。見れるものなど、もうなにもないとい
「オンドリャァァァ!」
「ええええ!?」
坂田さんは雄叫びを上げながら一枚のキャンバスを抜き出した。
華奢な女の子には似合わない雄叫びと勢いに私は素っ頓狂な声を上げる。
「な、なにしてるの!?」
「なにって、絵を見てるの」
彼女は両手でキャンバスを掲げていた。
そのキャンバスも例に漏れず、カッターで切り裂かれボロボロだ。しかし、ほかの死屍累々と比べるとその"絵"はまだ見られるものになっていた。
少しの間、彼女はそれをまじまじと見つめる。まっすぐで綺麗な瞳だ。
やがて彼女は静かに微笑んだ。
「ひどいだろ?」
私は言った。それが、キャンバスの状態に対して言ったものなのか、絵そのものに対して言ったのかは自分でもわからない。いや、むしろ両方か。
なんにせよ、これをそんな見ないでいただきたい。なにより私が見たくはない。
「うん。ひどい」
彼女は辛辣に言い放った。
自分で言い出したことだが、面と向かって言われるとさすがにへこむ。そんな様子が伝わったのか、彼女は「ごめん」と謝った。
「でもひどいよ。この絵はたしかに、もうコンクールでは入賞しないかもしれない。だけど、ちゃんとあなたの想いがこもってる。ひどいなんて……ひどいよ」
そう語った彼女が私に向けたのは笑顔だった。
「想いなんて……あるのは、後悔と嫌悪ぐらい……」
「後悔と嫌悪だって立派な創造の素材じゃない? それに、私はこの絵からそんな感情、ひとつも感じない。この絵からは――」
バンッ!
この絵に対する嫌悪感を抱いたから? 絵をほめられたようでむずかゆい感情をおぼえたから? あいつの顔を思い出してしまったから?
色々な想いが頭と心の中で渦巻いて、気づけば私は彼女の手からキャンバスを奪い取り、それを机の上に叩きつけていた。
気まずい沈黙が流れる。彼女のほうを見れない。見たくない。どんな顔をしたらいい? わからない。
「ねぇ」
暗い沈黙を破り、彼女は私に声をかけた。
「絵を描いてて楽しい?」
それは、私が絵を描き上げられなくなってからずっと、自分に問いかけてきた質問だった。
〇
日が昇っているうちに帰るなんていつぶりだろうか。
春でも、夏でも、秋でも、冬でも。私は日が落ちてから帰路についてきた。
しかし、今日は例外。理由は絵を描ける気分ではなかったから。
「絵を描いてて楽しい?」
その質問をされたあと、私はなにも答えずに美術室を出た。描いてて楽しいか? そんなの、私が聞きたい。それが分かれば苦労しない。
そういえば、描きかけのキャンバスと道具たちをそのままにしてきてしまった。美術室のカギも。あとで吉良先生へ謝りに行かなくては。
まぁ、たまにはいいだろう。綺麗な夕日も見られるし。
今日も今日とて、私は孤独に帰路を歩――
「ねぇ~月嶋啓成く~んっ!」
意味が分からない。
今日転校してきたばかりの女の子と私は一緒に帰路を歩いている。別に私から誘ったわけでも、あっちが誘ってきたわけでもない。しかし、彼女は美術室を出た今もなお、私の隣にいて覗き込んできているのだ。
「なんでついてくるんですか?」
「だって、一緒に帰る人いないんだもん」
「教室で話してた友達と帰ればいいのでは?」
「ろくに話してもないのに友達になんかなれないよ」
「それは同感ですけど……」
彼女がそんな考え方をする人だったのだと少し驚いたが、それでも、私についてくる理由に納得はできない。