007
帰り支度を済ませた私は早々に立ちあがる。といっても、帰るわけではない。またあの場所に行くだけだ。
「あっ、ちょっとま――」
「坂田さーん!」
なにか言いかけた坂田さんを吉良先生が呼び止めた。
「ごめんね~書いてもらう書類があるから、職員室に――」
そこまでは聞こえてた。しかし、それらが私には関係ないことだと判断した私はそそくさと教室を出たのだった。
〇
「ただいま。イトシノビジュツシツー」
自分でもわかるくらい棒読みな歌。私はそれを口ずさみながら美術室に入った。鍵はすでに開いており、扉横の鍵かけにかかっている。吉良先生はうちのクラスのHRに来る前、ここを開けてくるらしい。私はそれにいつも至極の感謝の念を抱いている。
さてさて、今日はなんの絵を描こうか。
風景画。静物画。肖像画。そういえば、油絵にするか水彩画にするかも決めていなかった。この前は水彩画だったし、今度は油絵かな。それで描くジャンルは……
うん……まぁ……なんでもいいか。
なんにしたって最後は同じだ。ボロボロになって……ボロボロにして。準備室へ転がる残骸になるだけ。
そろそろ諦めろ。どうしてそこまでしがみつく? 絵を描いていたからあいつはいなくなったのに。そんなことを毎回考える。でも、
「次をホントの最後にしようかな……」
もう限界だろう。こんなことを続けることは吉良先生にも失礼だ。
私は意を決し、いつも通りの机と椅子、キャンバスを準備した。今日も水彩画にしよう。題材はここから見える風景。やっぱりこれだ。
私は鞄から絵描き用のペンケースを取り出した。そしてそこからシャーペンを抜き出……抜き出し……抜き出せない。
というかない。
「あぁーそういえば……」
私はシャーペンを誰かさんに貸し出していたことを思い出した。これはあれか、鉛筆を使わずにシャーペンで楽しようとしたあてつけか。
確かに鉛筆のほうがより鮮明な質感の下書きが描ける。それはわかっているが、圧倒的にシャーペンのほうが楽という極なまけものの発想から、私は水玉柄の水色シャーペンを愛用しているのだ。
それがない。
私は小さくため息をつきながら、ペンケースに一応入っている二Bの鉛筆を取り出した。
そしてそれをキャンバスへと落とす。その瞬間。
バタンッ!
美術室の扉が勢いよく開け放たれた。あまりに大きく鳴った扉の音で私の体は自然と引きつり、その方向へ顔を向けさせた。
肩を上下させながらそこに立っていたのは、赤茶髪の可憐な乙女。
「はぁはぁ……シャ……シャーペン返しに来たよっ!」
坂田さんだった。
〇
「走ってきたんですか?」
坂田さん壁に手をつきながら小さく何度も頷いている。そんな彼女に近づき、私は手に持つシャーペンを受け取った。
「別に明日でよかったですよ」
「今日中に返したかったからっ! 吉良先生にキミの居場所を聞いて――」
「わざわざ返しに?」
「そのとおりっ」
なんと、律儀なことで。
「……ありがとう」
「どういたしまして! お礼にちょっと水ちょうだいっ」
彼女はそれだけ言うと、机まで近寄ってそこにのっているペットボトルを取った。
それは俺のなんだが。
彼女はペットボトルのフタを開けると、その中身を一気に飲み干した。「ふぅ」と小さく吐息をもらす。
そして彼女が次に見たのは私ではなく、目の前にある真っ白なキャンバス。そういえば彼女の趣味は……。
「君も絵を描くの?」
「描きません」
「いやいやいや、じゃあこれは」
「知りません」
私は全力で否定した。
「どうしてウソつくの?」
「ついてません」
「私も絵描いてるんだ」
「聞いてません」
「むぅ……」
急に彼女がおとなしくなった。そちらを見てみると、彼女は両手の人差し指をつつき合わせていかにもしょんぼりしている。しゅん……という音まで聞こえそうだ。
「少しぐらい聞いてくれてもいいのにさ……」
今にも泣きだしそうだ。女の子が泣きそうになっているのに無視するほど、私は悪人ではない。というか……ふつうに困る。
私は右手を首に置き、少し苦々しい顔をしたあと、彼女のほうを向いてこう言った。
「じゃあ……少しだけいいですよ」
「ホント!?」
彼女の顔が急に明るくなった。今までの様子がウソのように。
しまった! 図られたっ!
そう気づいたときにはもう遅い。彼女は腕を組みながら私の顔を覗き込んで「なにを聞こうかなぁ~」とつぶやいている。たしか、私が話を聞くという流れだった気がするが、そんなことはすでに忘れていそうだ。
少しの間をおいたあと、彼女は「そうだ」と言って私にこう聞いた。
「描いた絵を見せて。吉良先生が『キミはここに毎日来てる』って言ってた。完成してる絵。あるんだよね?」
その質問に、私は動揺を隠せなかった。