003
私のそんな姿を見て、吉良先生が俺を止めた。
そんなことはなかった。
じゃあ、冷静に状況を鑑みて俺を諭したか。
そんなこともなかった。
「えぇ……えぇ……これは新しい芸術の創作かな?」
ただそう言いながら、私と絵を交互に見て、たじろぐばかり。後で聞いた話だが、先生はこのとき、私が絵を切り裂く姿とその絵から感じ取れる良さの二つに様々な感情を抱き、混乱していたらしい。ちなみに、新しい芸術の想像というのもあながち冗談ではなかったとのことだ。
ともかく、その後私は吉良先生に私が絵を描きあげられないことを伝えた。完成させる手前でどうしても絵をダメにしてしまうということ。それを直したくて、放課後に美術室を借り始めたこと。
しかし、私がそうなってしまった理由は話さなかった。話せなかった。
先生もそこを根掘り葉掘り聞くようなことはしなかった。
「そっか〜。おかしいとは思ってたんだ。美術部もないこの学校に来て、いきなり『美術室貸してください』って言われたからさ。それにしても……」
吉良先生は切り裂かれたキャンバスを手にとり、それをまじまじと見た。
普段なら絵の原型がとどめないほどボロボロになるのだが、今回は途中で先生が来たこともあって、まだ見られるものになっていた。
「おしいなぁ……」
「惜しい……? なにか足りませんか?」
「いやいや、そうじゃなくて……うーん……」
先生は小さく唸り声を上げながらキャンバスをもとの位置へと戻した。
「まぁいいや。もし一つの作品が出来上がったときには見せてよ。ここは自由に使っていいから」
笑顔でそう言う吉良先生に、私はただ「ありがとうございます」と返すことしかできなかった。
〇
「失礼しました」
私は職員室の扉の前に立ち、先生に向けて一礼した。
「はーい! 外は暗いから気をつけて帰るんだよ!」
先生の一声に軽く一礼してから、私は職員室を出た。昇降口は近くの階段を降りた目と鼻の先。
青色のシューズをぬぎ、下駄箱の上段に入れ、下段から外履きの靴を取り出す。そして私は帰路につく。
外は暗く、等間隔に置かれた街頭の光を頼りにただ歩くだけ。こんな時間では一緒に帰る人はいない。というか、どんな時間でも大抵一人だ。
こんな瞬間、私はこれが私らしいと思う。
何事にも興味が湧かない。ゲームにも、漫画にも、テレビにも。スポーツにも。
そんな中で、唯一興味が持てた絵でさえ、描くことは許されない。
ポツポツと見える星の下。私の帰路は終わりを迎え、家へとたどりつく。
「ただいま」
誰もいない家に私はつぶやいた。
父は単身赴任で母もまだ仕事に出ている。私が帰るこの時間、この家には誰もいない。
冷蔵庫に入っている母の料理を引っ張りだして、食べる。
自分の部屋に戻って、机の上で学校の勉強をする。
勉強が終わったら、本棚から絵画集をとりだしてぼーっと眺める。
途中で母が帰ってくる。
「おっす、ただいま! 啓成!」
わざわざ部屋まで来て、友達のようなノリで話してくる母を軽くいなす。
お風呂に入って、歯磨きをする。あとは寝る。
以上。終わり。
つまらない毎日。それでいい。
どこか孤独な毎日。それがいい。
私はずっと、そんな日常を送るべきだ。幸せになろうとしてはいけない。
それが私の贖罪だから。
〇
とまぁ、こんな感じでこれまでの高校生活を約二年送ってきた。
つまんないうえに面倒くさそうな人生だって?
なんとでも言えばいい。反論することすらやる気が出ない。今日も今日とてそんな一日が始まりますよ。あぁ、楽しい楽しい。
登校中に棒付きキャンディくわえながらそんなことを考える高校生。大丈夫、安心してくれ。自分でも卑屈だと思っている。
朝の通学路は夜のように寂しくはない。むしろ真逆と言ってもいい。何語かわからない言語でしゃべりまくる女子グループ。道を広がって歩く交通妨害男子グループ。
まだここはいい。
一番意味がわからないのは、朝っぱらからくっつき虫のようにベタベタしているアレ。朝くらい静かにしていてほしい。
「ねぇ? 今日も家に来る?」
「えぇ~どうしよっかな~。じゃあ、アタシにチュウしてくれたら行ってあげるぅ~」
「そんなのしてあげるに決まっているじゅないかぅぁ~!」
たぶん、頭のネジがどっか飛んでるんだと思う。
俺には理解できないやり取りがなされている。
そんな人の波を横目に、私は歩いた。よく見ると、私のように一人黙々と歩いている学生が何人か見える。とても好感が持てる。
だが、私のような人間を彼らと一緒にしてはいけない。彼らは見た目こそ精彩に欠けても、その多くが何かしらの趣味を持ち、その趣味に何かしらの信念を持っている。
私のような唐変木とは何もかもが違う。
くわえていたキャンディがなくなったころ、私は見覚えのある光景を見た。角ばった白い建物と敷地に入るための大きな門。その門に立つ、短髪黒髪メガネの生徒会長。真面目で、固くて、まぁ……いいやつ。だと思う。
「朝っぱらからシケた顔するな。死んだ魚のような眼をしているぞ」
腕組みの生徒会長が、私を睨みつけて言い放った。