001
ここに、一枚の絵が完成する。
この瞬間をこの十年何度も体験した。もはやこれは日常であるわけだが、この瞬間はいつだって言葉では言い表せないほどの達成感と幸福感を味わうものだ。
しかし、この絵だけは。この絵が完成したこの瞬間だけ、私は今までに感じたことのないほどの"多幸"と"悲しみ"を覚えた。
「結局、十年もかかってしまったな……」
目の前にいる彼女へ向かって、そうつぶやく。
黄色い花の花畑。その先で朧気に佇む風車塔。その手前に立つ、麦わら帽子の彼女の姿。赤茶の髪が風になびく彼女の表情は、麦わら帽子に隠れてうかがい知れない。ただ一つ見ることができる口元からは笑っているようにも悲しんでいるようにも受け取れる。私には彼女がどんな感情でいたのかわからない。
これは、私が忘れられないあの時の光景。
忘れてはいけない彼女との思い出。
この絵は数日の後にある画廊の展覧会にて展示される。私としては、この絵はそんなところヘ出さずにきちんと保存しておきたいところだが、そんなことをすれば私は彼女に一時間ほど小突き続けられることだろう。
私はしかたなく"展示はするが売却はナシ"という条件のもと、この絵を画廊へ展示することにした。なんて生意気な画家だろう。自分でもよく分かっている。しかし、今までの功績と貢献をふまえれば、この程度のわがままは許されるものだ。
私は痛む腰をさすりながら立ち上がり、アトリエの隅のクッションに落ちている携帯電話を拾った。画面を立ち上げ、受話器のアイコンをタッチする。電話帳の数少ない番号の中から目当ての番号を探し当て、相手は仕事中であるだろうが、お構いなしに電話を掛けた。
呼び出し音が三回なり、相手が電話に出る。今日は少し忙しかったようだ。
「もしもし……あーうん……まぁ仕事中だとは思ってたよ……まぁとりあえず描けたから……うん。じゃあ六時に……」
手短に要件を伝え、私は携帯電話の赤いボタンを押した。
そして、もとのクッションの上へと携帯電話を放り、壁にかかっている時計を見る。
午前十一時二十一分。
ちなみにこの絵を描き始めた時間は午前十時四十分あたりだ。昨日の。
「ねむ……」
連続二十五時間勤務。ブラック企業も良いところだろう。
普通の企業と違うとすれば、これは私の自由意思による残業であり、なおかつ従業員は私一人であるということ。画家という職業は難儀なものである。
私は窓際に置かれ薄茶色のソファへと倒れこみ、照明以外なんの特徴もない天井を見上げた。
お客人が来るまであと約七時間。私が寝付くまでの時間や客人を迎える準備……あとその他もろもろ。それを踏まえても六時間くらいは眠れるだろうか。
私は小さく息を吐いた後、重い瞼をゆっくりと閉じた。
真っ暗闇な瞼の裏。そこに映るあの日あの時あの瞬間。
私は基本、過去は振り返らないタイプであるが、今日ばかりはそんなことも言ってられないらしい。次々に溢れる思い出に耽りながら、私は小さく「ふっ」と微笑んだ。
〇
ここに、一枚の絵が完成する。
私は、それを心から望んでいる。
「もうすぐ……もうすぐで……」
夕暮れの美術室。校庭からはどこぞの運動部の元気な声が聞こえる。しかし反対に、校舎の中には何一つとして音がない。
この環境は、私にとって最高の環境。決してうるさくなく、かといって無音というわけでもない。この環境が絵を描くうえで最適なのだ。
私は、そんな美術室から見える景観を真っ白なキャンバスに落とし込んでいた。
夕日。街。校庭。遠くに見える不格好な鉄塔。
何気ない風景であり、この絵を完成させたところで、それをコンクール等に出すわけでもない。しかしこの絵を"完成"させることが私にとってなによりも重要なのだ。
「よし……よしっ……!」
あと少しなんだ。あと少しだったんだ。
『なんでそんな楽しそうに書けるの?』
私は傍らにあるカッターを握りしめ、キャンバスに思い切り突き立てた。無言で。しかし苦々しく歯を食いしばって。
何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。
どんな顔をしているんだろう。この時の私は。
バキッ!
キャンバスを切り裂くことにしか頭になかった私はカッターの刃が折れる音でようやく手を止めた。
我に返った私の目の前にあったのはボロボロになった街の姿。完成させるはずの絵だったものだ。
「くっ……」
私は自責の念にかられながら目の前のキャンバスに頭を突き立てうなだれた。
ガタッガタバキッ。
しまった。いや、冷静に考えればそうなるよね。
私がキャンバスに体重をかけた瞬間、キャンバススタンドが大勢を崩し、反動で私は床に倒れこんだ。よく見てみると、スタンドの脚が折れてしまっている。いくらキャンバススタンドに支えられているとはいえ、何も考えずに高校生並みの体重をかければこうなるのは阿呆でもわかるだろう。
「ふっ……ははっ……ははははは。ははっ……」
天井を見上げた私は、あまりに滑稽な自分の姿に嘲笑を隠せなかった。