一章 巻き込まれてモフモフ始まりました(1)
対面した『理想の上司ナンバー1』の上司は、実は『鬼』だった。
それを別館の勤務二週間で知ってしまうとか、不幸としか思えない。正座させられているリズは、ガタガタしながら涙目で最悪な心境のド真ん中だった。
「チッ、まさか見られるとはな」
まさにその上司である団長様は、書斎机に座って足を組んでいた。つい先程持ってきたばかりの書類が入った茶封筒が、尻の下に敷かれている。
私こそ見たくなかったです……。
苛々したようなジェドの低い声に、リズはビクリとして涙目が増した。二週間前まで田舎暮らしだった平凡な庶民だったのに、なぜこんなことに。
チラリと隣を見やれば、同じく正座姿勢の副団長コーマックの姿があった。『理想の上司ナンバー2』の彼は、もう諦めきった捨て犬みたいだった。
さっきからずっと視線が合わない。その様子からは、自分が来たのは最悪なタイミングだったのとも分かって、余計にリズを不安にさせた。
その時、ジェドの鋭い眼差しが不意にこちらに向いた。
「おい、お前」
「ひぃ!?」
腰を上げた彼が、美麗な顔に険しい表情を浮かべて覗き込んでくる。形のいい目元に、濃い紺色の髪がさらりとかかっているのが見えた。
「このまま記憶を飛ばされるのと、絶対に喋れないようにして遠い地へ飛ばされるのと、どっちがいい?」
ひぇぇぇえッ、なんてSな解決案方法!
リズは、すぐには声も出なかった。けれど必死にならなければならない事情もあった。もう色々と衝撃的でパニックの中、思わずこう言った。
「あ、あの――ど、どどどうかクビだけは勘弁してください」
ビクビク怯えながらも、涙目であわあわと伝えた。
何せようやく見付けた就職先だ。たった二週間でクビになったと知ったら、列車を乗り継いで十日もかかる故郷で、今度こそ両親と村人達が卒倒しそうだ。
「ぜ、絶対に誰かに言ったりしませんから、お願いです」
リズは大きな赤紫色の目を、怯えながらも真っ直ぐ向けて頼み込んだ。
するとジェドが、顰め面でじっと見つめてきた。宝石みたい青い目を次第に近づけてこられて、リズは戸惑いがちに首を竦めながら返事を待った。
副団長コーマックも、少し不思議がるような目を向ける。
と、その視線を察知したかのようにジェドが背を起こした。観察を終えたのか、「ふうん」と少し傾げかと思うと口を開く。
「――お前、名はなんという」
今更!?
リズは驚いてしまった。そもそも普通、正座させる前に確認くらいしても良かったのでは……と思いつつも、怖くてそんなことは言い返せなかった。
「えっ……と、別館の第三事務課のリズ・エルマーです」
「第三事務課?」
そう口にした彼が、正座中の副官コーマック共々、察した様子で眉間の皺を解いた。
「――ああ、なるほど。採用官のところに顔を出していたトナーの相棒獣が、反応して採用が決定したとかいう変わり者か」
「え」
「あ、確かそれで急きょ第三事務課へ入れた、と別館長も口にしていましたね」
のんびりとした性格なのか、コーマックが柔らかな雰囲気で口を挟んできた。元々礼儀正しい人なのか、リズを見ても敬語口調のままだ。
それが採用された理由……?
リズはびっくりしてしまって、目を丸くして二人を交互に見た。ふわふわとした癖の入った桃色の髪が、動きに合わせて肩に柔らかくあたっている。
「……えぇと、あの、それは一体どういうことなんですか?」
「つまり人間の採用官ではなく、珍しく白獣の方がお前を選んだ」
優しそうだったからコーマックの方を見て尋ねたのに、目の前で偉そうにして立っているジェドが答えてきた。
声は若干苛々していて、こっちを見ろと言わんばかりだった。質問と回答の手間をかけさせたら怒られるかも、思っての判断だったのに失敗したらしい。
「それって珍しいことなんですか?」
ちらりと目を戻して遠慮がちに問い返したら、彼がピリピリとした雰囲気を若干落ち着け手「そうだ」とやはりかなり偉そうに頷いてくる。
「新人のお前が、本館に出入りさせられているのも恐らくそうだろう。普通は、危険を十分に分かって回避策も頭に入っているベテラン組がやる」
「えっ、そうだったんですか!?」
先輩も上司も「すまんがよろしく頼む!」と全力でお使いを押し付けてくる。でも考えてみれば、助かったみたいな顔をしていたような……?
そうリズが困惑で考えていると、ジェドが追って補足してきた。
「獣が選んだから恐らくは平気だろう、という思いから、本館への行き来をお前にさせているんだろう。ベテランであっても、ここへは出入りしたがらな――」
そう言い掛けたジェドが、不意に言葉を切る。
奇妙な沈黙が出来た。コーマックも気付いたかのように「あ」と声を上げ、リズがそちらを見た時、ジェドが片膝を折ってきた。
「おい、お前」
「ひゃい!?」
ずいっと唐突に美貌を近づけられて、リズは返答の声が裏返ってしまった。
「お前、ここで白獣と遭遇したことは?」
「へ? いえ、まだありませんけど……」
そう答えたら、続いて隣からコーマックが「一度も?」と確認してきた。
「たとえば君が初めてこちらへ入館した際、遠目でも見掛けなかったんですか? もしくは別館からこちらへ移動している時、様子を見に来られたりだとか」
「いいえ……、そういうのもありません」
だって課の上司達も、獣騎士達のスケジュールを分かって自分を寄越しているはずだから――そう言葉を続けようとしたリズは、ジェドに遮られた。
「あいつらは鼻だけでなく気配にも敏感だ。図体はデカいが、繊細で警戒心も強い。ましてや地元民でもない遠い地から来た人間であれば、普通であれば警戒して見に来てもおかしくはない、はずだが」
思案顔で彼は言葉を切る。
え、そんな怖いことがあるの?
リズは、目を丸くてしまう。戦闘獣の方が見に来るなんて、想像してもいなかった。ここに勤めている人のほとんどは、地元か周辺地の出身とは聞いていたけれど……。
「――考えてみれば、白獣がわざわざ採用書類をつっつくっのも珍しい」
何やら考え込んでいたジェドが、独り言のようにそう呟いた。
「珍事だのなんだの騒がれていたが、こっちはこっちで春先に生まれた幼獣と、密猟組織の件でごたごたしていたからな。とくに教育の終わった相棒持ちの白獣は賢い――そうすると、予期せぬ採用のコレも、なんらかの意味があるというわけだよな?」
これ、で指を向けられ、リズはその指先の前でビクッと目を大きくする。
真っ直ぐ大きな目にジェドが映っている。しばし、またしてもじっと見つめていた彼が、ふっと思い出したように正座中の自分の副官へ目を向けた。
「どう思う、コーマック?」
意見を求められた副団長のコーマックが、不思議がっていた顔をハッと戻して、あわあわと素早く背を伸ばした。
「どうと言われましても、これまで例がないことである、としか……彼女の話からすと、騎乗者としてのコンタクトを取られた感じもない。かといって非団員として警戒されてもいない現状を考えると、やっぱり不思議です」
団員か非団員か、極端などちらかの反応をされるのかが普通であるらしい。
「白獣は基本的に獣騎士にしか懐きません。だから数も多くはない団員達で、今だって幼獣の親代わりを時間を裂いて行っているじゃないですか」
そうコーマックが意見を述べた途端、ジェドの見目麗しい顔にスゥッと笑みが浮かんだ。思案気に指で顎に触れる様子が、どうしてか二人の警戒心を煽った。
なんか悪巧むみたいな顔、に見えるのは気のせいかしら……。
リズが寒気を感じていると、隣で彼とは長年の付き合いがあるコーマックも、同じものを感じたような顔をしていた。
「コーマック。トナーの相棒獣は、確かメスだったな?」
「え――あ、はい。まぁ、そうですね」
唐突に確認させられたコーマックが、戸惑いがちに答える。
するとジェドが、ニタリと形のいい唇の端を引き上げた。
「なるほどな。あの相棒獣は、恐らくは保護によっても数が増えたのもあって、今週メイン担当だったトナーが『大変だ』と口にしていたのを聞いていた、と」
何やら考えていた様子のジェドが、ニヤリとする。
あ、ろくなこと考えてなさそう、と察したコーマックが呟いて青くなった。なんだか嫌な予感がしたリズは、直後、ジェドに目を向けられてビクッとした。
「なら、取引と行こうじゃないか」
「取引!?」
その言い方もすんごく怖い。
怯えた目で真っ直ぐ見つめ返されたジェドが、ニヤリとする。
「お前は職を失いたくない。俺は、秘密を知ったお前を手元に置いて管理し――いや監視しておきたい」
今、この人『管理』って言ったああああ!
言い直したけど、管理も監視も同じことである。もうヤだこの俺様上司、とリズが涙目で見つめている中、ジェドは結論を言い渡すようにして続ける。
「本日付けで、リズ・エルマヘーは別館の第三事務課より異動。この時点から本館勤務とし、獣騎士団の特別団員とし『幼獣の世話係り』を任命する」
本館勤務ということは、獣騎士団の団員枠だ。非戦闘員ながらも、今日付けで軍人枠に所属してしまったようなものである。
びっくりして声も出ないリズの隣から、コーマックも驚いて「待ってください!」と正座を半ば崩してジェドに意見した。
「白獣は、たとえ幼獣であったとしても僕ら騎士以外には懐きません。もし何かあったら――」
「その白獣の成体が、初めて人間の採用に口を出した。それが相棒騎士の苦労を思っての推薦だったとしたのなら、いけるんじゃないか?」
そもそも本館入りしているのに、どの騎士の相棒獣もまるで警戒反応も排除行動にも出ていない。そうジェドは推測理由についても話す。
「勤務初日から無事であるのを確認して、こいつの上司達も確信したんだろう」
「まぁ、そうでなければ新人は寄越さないでしょうが……」
コーマックは、それでも渋る様子だった。
「俺の推測と勘に疑いを持つというのなら、まずはお前の相棒獣ででも試してみればいいだろ。――生憎、俺の相棒は長らく不在だ」
リズは入社した日、先輩達から聞いた説明の一つを思い出した。
団長には現在、相棒獣がいない。昔からグレインベルトを治めているグレイソン伯爵家の彼は、獣騎士団で一番の使い手であるとも知られていて、その能力の高さからなかなか見合う白獣が見付からないのだとか。
すると、少し悩んでいた副団長のコーマックが、折れるようにして肩を落とした。
「彼女が扉の前に立っても、外で待機している僕の相棒獣が警戒反応しなかったのがいい例でしょうね……おかげで入室されるまで気付けませんでした」
そう認めるように口にした彼が、しばし考える間を置いた。
獣騎士団の第二位の彼を正座させたというのに、ジェドは追って急かすようなことはしなかった。自分の副官は信頼しているのだろう。リズは不思議な気持ちになって二人の様子を眺めてしまっていた。
「分かりました。幼獣に会わせてみます」
「えっ」
そんな肯定の声が聞こえて、リズはびっくりしてコーマックを見た。てっきりこの優しい人であれば、自分の味方をして断ってくれると思っていた。
だって戦闘獣は、かなり大型の肉食種だ。幼くても犬や猫と違ってそんなに小さくはない――らしいとは、入社した日に危険性と一緒に聞かされたばかりである。
「ま、待ってください。あの、牙とか」
「ああ、大丈夫ですよ。まだミルクの時期で、牙の先は丸いんです」
安心させるようにコーマックが笑顔を向けてきたが、どこか心配するように控え目だった。
「でも力は強いですし、本気を出されたら噛みちぎる方法はあります」
「噛み、ちぎる……」
「はい……あの、ですが安心してください。もし少しでも危ないと分かったら、その時点で僕が止めますから。その時には、僕の相棒獣にも出てきてもらいます」
その場合には世話係りから外されて、どこか別の仕事を考えるのだろう。
副団長は本当にいい人であるらしい。その場しのぎの嘘を付けない人……なのだろう。おかげでリズは、頼り甲斐はあるけれど素直に安心も出来なくなった。
そこまでして自分を監視下に置きたいらしいジェドへ、もう最後の頼みをするかのような心境で、どうにか勇気を振り絞って声を掛ける。
「あの、団長様、すみません私、途中になってる書類作業とかもありますし――」
「コーマック、今すぐこいつと一緒に、別館の第三事務課に行って手続きをしてこい。荷物を移動したら、速やかに幼獣舎に案内して仕事内容を説明してやれ」
ああダメだこの人、はじめっから私の話し聞く気なしだ……!
獣騎士団への異動が決定してしまったリズは、不幸すぎる、と涙目になった。立ち上がったコーマックが、手続きについて何やらジェドと話し合う様を見守る。
並ぶと、対象的な気性が目立つイケメンが二人。
もう色々と頭の中もいっぱいいっぱいになっていたから、今更のように見られたその『セットの光景』を前に、くすん、と泣きの心境で少しだけ考えた。
「そういえば、あの、お二人が恋人同士というのは……」
すると、二人の目がほぼ同時にこちらを向いた。
途端に副団長コーマックが、心労で頭痛がする表情で額を押さえた。リズが「もしや……」と思っていると、団長のジェドが「ふん」と鼻を鳴らす。
「そんなわけあるか。都合がいいから噂を放っておいて、全団員にも『知らぬふり』を指示しているだけだ」
「え。それはあまりにも副団長様が可哀そうなのでは」
その噂が直されない間、恋人も出来ないのではないだろうか?
リズが目を向けると、コーマックが「まさにその通りですね……」と諦めきった声で呟いてきた。グレイソン伯爵として縁談希望も多い団長とは違う。
「…………なんか、すごく可哀そうです」
「…………それを女性に正面から言われたのは、初めてです」
余計にダメージをくらってしまったのか、彼が俯いて顔を手で押さえた。
声に出てしまっていたと気付いて、リズは慌てて口を閉じて立ち上がった。心根優しい繊細な副団長に対して、ニヤニヤしている団長が鬼だと思った。
「さて、コーマックとっとと行け。俺は忙しい」
そうしてリズは、コーマックと共に部屋から追い払われてしまったのだった。