四章 リズ・エルマーの頑張り(4)
いつの間にか、突風か嵐のような不思議な風はやんでいた。
カルロが吠えたのだと、少し遅れて気付いた。カルロが吠えるなんて、初めて聞いた。
けれど、驚いている暇はなかった。
リズは目に飛び込んできた明るい風景に、ハッと赤紫色の目を見開いた。そこはキラキラと光る鉱石が混じった、白やブルーの大地が広がっている。
そんな大地を這う大樹の根。揺れる葉は、何色もの不思議な色合いを反射させていて、とても眩しく感じる空は見たこともないほど透明な青に澄んでいる。
太古からの大自然のような場。
そこには、圧倒的な存在感でもって、一本の巨木が腰を下ろしていた。しな垂れて伸びた枝先や根、それに守られるようにして巨大な純白の獣が一頭――。
長い睫毛を震わせて、ゆっくりと獣の目が開いた。
リズは、ブルーや金が混じったような、深く明るく澄んだ紫色の目に射抜かれて息を呑んだ。
なんて美しい色だろう。見惚れ、そして圧倒された。その目は何者も敵わないような慈愛を宿し、森の奇跡や神秘を全て集めたみたいだった。
あの『彼女』が、恐らくは女王様だろう。
そばにカルロが付く中、リズは一目で理解した。
それは、とても巨大な白獣だった。どっしりと腰を降ろしている姿は壮観で、半ば大樹や大地と同化しているかのような印象があった。
「ああ。人間の客人とは、珍しいこと」
巨大な白獣がその頭を上げ、不意にそう言葉を発してきた。
「こうして『人の子』を迎えるのは、数百年ぶりくらいかしらねぇ」
頭の中に直接、声が響くみたいだった。それは貴婦人のような女性の声で、巨大な白獣――女王様は口を動かしている様子はない。
リズは驚いた。けれど優しげに見据えられているのに気付くと、少し遅れて慌てて挨拶の礼を取った。
「は、はじめまして女王様。リズ・エルマーと申します。私は――」
「知っていますよ。この町へ来て、今は獣騎士団の幼獣達の世話係りにして、相棒獣予定の教育係りでもある」
女王様が、こちらの言葉を遮ってそう言ってきた。
不思議に思って、リズはつまんでいたスカートから手を離し、おずおずと顔を上げて見つめ返す。
「私のことを、ご存知で……?」
「あなたの存在は、子孫達の声を通して知っていましたから」
子孫、というと、獣騎士団にいる白獣や幼獣達のことだろうか?
不思議な力が使えるという女王様を前に、リズは言葉に詰まってしまった。なんと答えて良いか分からないでいると、大きく美しい獣がふわりと微笑んできた。
「もっとこちらへお寄りなさい。離れていては、あなたが話しづらいでしょうから」
「えっ、あ、はい。ご配慮に感謝致します」
リズはぎこちない敬語口調で答えて、ちらりと目を合わせたカルロと共に、女王様のもとへ近付いた。
目の前にして見ると、女王様はビックリするくらいに大きかった。その顔は馬車よりもあるし、ゆったりと組まれている前足もリズの身体より太い。
「あなたには、悩みもあるようですね、リズ」
「え?」
足元をじっくり見つめてしまっていたリズは、唐突な言葉に目を戻した。
見上げてみると、女王様のとても優しげな目があった。微笑んでこちらを見つめている様子は、まるで我が子を見るみたいに温かい。
「あなたは不運ではないのよ」
そう声を掛けられて、リズは「あっ」と思い出す。どうして不運なんだろう、こんなに不幸なことってあるだろうか――そう何度も思ってきた。
それを女王様に知られていることに恥じらいを覚える。
「あ、その、私は……少しだけツイていないだけで……。ここへ就職したのも、うっかりミスをしたからで」
言い訳のようになってしまって、言葉は続かなくなった。
すると女王様に「顔を上げて」と優しく促された。
「決して不運などではない。これは、とても珍しいことです。リズ、あなたはそばにいるだけで、その者達に良き縁と幸運をもたらす体質なのですよ」
「良き、縁……?」
「あなたは必要があって導かれ、ここへ来た。そうして今の位置にいるのです」
何もかも見透かすような、深い慈愛に満ちた目だった。こうして不思議と聞き入ってしまっているのは、魔力を使えることが関わっているのだろうか?
よく分からない。でも、どうしてか自分がとても高く評価されてしまっているのは感じていて、リズは大変恐縮してしまった。
「……私は、この通りとりえもない平凡な人間の娘なんです。どうして教育係りになったのかも分からないくらいで……」
幼獣達だけでなく、カルロと過ごすようになってから、もっと頑張りたいと思うようになった。
忙しくしている騎士達の姿を、そばで見掛けるようになってから、獣騎士団の一人として、自分なりに皆の力になりたいという気持ちも芽生えている。
だからこそ、自分の非力さも実感してしまっていた。
とても賢いカルロ、その教育係りを私なんかがやって良かったのだろうか? もしあの時、幼獣舎から出ていなければ、もしかしたら彼はもう立派な相棒獣に――。
その時、女王様の声が、思考や想像の全てを払いのけた。
「『カルロ』が、あなたを選んだのです」
まるで心を読んだかのようなタイミングだった。
不思議とその言葉が心に響いて、リズは驚きよりも、ハッとさせられて彼女を見つめ返していた。
「リズ。相棒獣とは、相棒となる騎士を主人とします。その主の望みを、誰よりも正確に察知し、その騎士の現在と未来をも考えて動くモノなのです」
「主の望み……? それは、団長様のことですか?」
カルロが相棒騎士にと候補に選び、ファーストコンタクトを取った獣騎士。
そう思い返していると、女王様が答えないまま微笑んだ。
「わたくし達は、人よりも少々敏感なのです。本人でさえまだ気付いていないことでさえ、その可能性を嗅ぎ取ってしまうのよ」
くすり、と、またよく分からないことを言って女王様が笑う。
私が必要だと思ったから、カルロは私を教育係りに選んだの? でも団長様は、監視したいから下に置いているだけなのだけれど――。
そう首を捻ったところで、リズは後ろからぐいぐい肩を押された。
鼻先でつついてくるカルロが、近くなった紫色の目で見つめ返してくる。ややぽかんとしてもいたリズは、来た目的を「あっ」と思い出した。
「すみません女王様、実は私達、急ぎの用があってここへ来たんです」
慌てて目を戻してそう伝えた途端、女王様が優しく微笑んできた。
とうに知っていたらしい。魔力が使えるせいなのだろうかと不思議に思いながら、リズは発言を待ってくれている彼女に話しを続けた。
「実は、獣騎士団にいた二頭の幼獣が行方知れずになってしまっているのです。もし居場所がお分かりになるのであれば、どうか教えて頂きたいのです」
リズは、祈るように手を組み合わせてお願いした。
少し考えるようにした女王様の頭で、大きな白い耳が動いた。彼女は一度カルロを見て、それからリズの果実のような赤紫色の目を見つめた。
「『カルロ』も心配しているようですね。それではまず、あなたの心配事を解消していきましょうか――あの子達なら、まだ無事ですよ」
「良かった……ッ」
「けれど急いだ方が良いでしょう。薬か何かでショックを与えられているのか、あの子達の意識を感じられません。あなたも知っている通り、幼獣は繊細です」
安全を考えれば、身体が弱ってしまう前に解毒した方がいい。
リズは言葉を失った。少し考えれば、そのまま獣舎から連れ出せるわけがないと分かるはずなのに……改めて突き付けられるとショックだった。
不安で震えそうになる手をぎゅっとする。
「リズさん、どうか落ち着いてください」
「あ、はい。すみません、私…………」
「わたくしは、多くのことに干渉出来ない身ですが、近くまでなら運ぶことは可能です。先程、あなた達をここまで【招いた】ように、道を繋げられます」
不思議な力で、ということだろうか。
リズは握り締めた手を胸元に引き寄せて、女王様を見上げる。
「あの子達の近くまで、行けるんですか? すぐに?」
「はい。恐らくまた狩りをしているのか、ちょうど今、幼獣達の移動も一時的に止まっています。けれど彼らがそこから少しでも移動して、山を超えたら私の力は届きません」
女王様の、しっとりと濡れたような美しい紫色の目がリズを見る。どうする? と、まるで判断を問い掛けているみたいだった。
一旦戻って獣騎士達に場所を教えたとしても、その間に場所を移動されない可能性はない。
女王様は、今、移動は止まっていると言っていた。
先程カルロは、密猟団は『ずる賢く』『卑怯』と毛嫌う言い方をした。もし彼らが足を止めているのが、別の狩りをしている真っ最中なのだとしたら……?
意識のない幼獣達は、どこかに置かれている状態かもしれない。
「私、行きます」
リズは、強く見つめ返してそう答えた。
「良いのですか? わたくしの手助けは、届けることのみ」
「構いません」
もし山を超えられたら、女王様の手助けであの子達に会う方法はなくなる。躊躇っている時間などない。
それで構わないかと、リズは遅れてカルロへ確認する目を向けた。
目が合ったカルロが、またしても懐かない偉そうな顔をして「ふんっ」と鼻を鳴らした。今度は小馬鹿にしているわけではなく、了承なのだとリズは分かった。
今のこのタイミングが、きっとチャンスだ。
この手に取り返せる機会を逃がしてはならない。
「だから女王様、お願いです。どうか私達を近くまで運んでください」
リズは、カルロと共に女王様へと目を戻して、そう伝えた。
女王様が、切なさを漂わせて微笑んだ。
「――ありがとう。幸運の娘リズ、そして勇敢なる『カルロ』」
子孫の心配がないわけがない。けれど、動けない理由がある……不思議なお方である女王様の目や表情から、リズはそんな思いを感じた。
直後、一人と一頭を不思議な光の風嵐が包んだ。