三章 獣騎士団でのモフモフライフ(1)
ブラッシングの成功から数日、リズは引き続き教育係りとして奮闘した。
団長ジェドの予定相棒獣であるカルロは、なかなか素直に教育を受けてくれなかった。どうにか一日のルーティンは覚えさせることは出来たが、課題をこなさせるのは難しかった。
たとえば水浴びを拒否。食事の途中で獣舎を飛び出す。近くの相棒獣に飛び蹴りを入れにいく――……決められたルートを従い歩くのも嫌った。
与えられている集中教育期間は、一週間である。
出来る限りやろうと決めていたリズは、離れの一頭用の小屋に戻るたび、視線の高さを合わせるためにカルロに伏せの姿勢をさせて反省会を開いた。
「散歩コースを外れて、なんであっちに行こうとしたの」
『飛んでた鳥、バクッとしてやろうかと』
カルロは、しれっとした表情でガリガリと地面に字を刻む。
「ご飯食べた後だったのにバクリとしようとしたの!?」
『本能。仕方ない』
「鳥さんが可哀そうでしょう!」
リズは連日の奮闘で疲れて、怖さだとかも吹き飛んでいた。小屋内に敷かれている柔らかいチップの上で座り込んだまま、バシバシと手で叩いて主張する。
そもそも肉食獣である。
カルロは、ものすごく何か言いたそうな顔をした。
「一週間では、少しでも首輪をしなくてもいいようになるのが目標なのよねぇ……離れでは落ち着いてくれているからって、首輪と散歩紐が外れたみたいに」
リズは視線に気付かないまま、ふぅと息を吐いた。
それを紫色の目でじっと見つめていたカルロが、また一本の爪を出してガリガリとする。
『別に、あってもなくても一緒』
地面に刻む音が聞こえたリズは、それを目に留めて「うっ」と言葉を詰まらせた。
「確かにそうだけど……」
圧倒的な力の差は否めない。
相変わらず引きずられている自分……そう思い返して項垂れたリズは、ハタと我に返った。いや、そもそもカルロが引っ張るのが問題なのだ。
するとガリガリとまたしても音が聞こえた。
『何故、首輪にこだわる?』
目を向けてみると、書き終わったカルロがじっとこちらを見ていた。
その瞳は、小屋に降り注ぐ日差しで、まるで大自然が生み出した神秘みたいな紫色を映えさせていた。とても美しい目だ。
ふと、リズは最近、落ち着いた目をよく見ていることに気付いた。だから自分も怯えずに接せているというか、カルロだったら大丈夫、と信頼して教育にあたれているというか……?
元から賢い獣で、理由もなく睨み付けてくるなんてない。初めて意思の疎通が出来た時から、自分がそう感じているともリズは気付かないまま首を捻る。
「だって、あなた達はいつだって自由でしょう?」
考えてもよく分からなくて、首輪の件へと意識を戻した。
「真っ白な身体で優雅に歩いていて、首輪なんて全然イメージになくて……自然の中で生きているもの、とても窮屈そうで首輪がない方が自由かな、って」
言いながら、リズは視線を落としていた。気持ちを自分なりに伝えてみたものの、言葉にするのは難しい。
カルロはしばらく黙っていた。
不意にガリガリと音が聞こえて、リズはそちらへ目を向けた。
『考えたことない』
本当にそうなのかしら?
リズは、返ってきた答えを疑問に思った。人の暮らしを知らずに生きてきたとはいえ、それを見せた時、首輪を知らない風ではなかった。
あの時も、その後も、思えばカルロは首輪を拒まなかった。獣騎士団で教育係りまで選んだ『彼』は、それだけの理由があるのではないだろうか……?
「ずっと山奥にいたんだろうって、トナーさん達が言っていたの」
幼獣達の世話日記を渡された時、今日もお疲れ様と話しながら聞いたことを思い返し、リズはそう切り出した。
「白獣は人の気配に敏感で、獣騎士であったとしても姿を隠すのが大半とか。それでいて見付けた場所が麓に近かったから驚いた、とも話していたわ」
自らの意思で出てきて、近付く獣騎士達に気付いても留まった。
「どうして降りてきたの?」
リズが尋ねると、カルロが思い返すような目を落とした。考えるような間を置くと、のっそりと大きな前足を持ち上げて地面に字を刻む。
『予感がした』
「予感?」
『オレは、会わなければならない、と』
ガリガリと書いたカルロが、いつものように地面をならして字を消す。たびたびそう感じていた、でもよく分からない――と、彼は続いて書いていた。
その後も、リズの頑張りは続いた。
つきっきりで教えられる時間は残り少ない。どうにか獣騎士団内での一日の流れを覚えてもらい、相棒獣達がしていることが出来るように努力した。
起床、ご飯、散歩、ブラッシング……タイミングや時間については覚えてもらえたらしい。流れは、なんとなくスムーズになってきた。
とはいえ、なんとなく、だ。
本来であれば、そこに訓練的なスケジュールが入ったりする――ようなのだ。相棒獣になるために、人を乗せることに慣れる騎乗訓練なども必要なのだとか。
けれどカルロは、そこまでにはまだまだ遠そうだった。
じょじょに獣騎士団の場所に慣れつつあったものの、ここで暮らすための基本的なことをこなさせるので一苦労で、あっという間にタイムアップがくる。
気に入ってくれたのか、唯一ブラッシングだけは、他の相棒獣達がいようと慣れた様子で完璧にさせてくれた。
相変わらずドタバタと過ごす日々だった。
気付けば集中教育期間も最終日を迎え、あっという間に終わってしまった。
「案内で何事もなく歩かせるのに成功したのって、結局三回くらいだけだった気がする……」
元々、大きな戦闘獣の躾けなんて未知の経験だ。カルロは気分屋みたいで必ず言うことを聞くには至らず、自分の不甲斐なさには涙が出そうだった。
でもギリギリまで頑張った甲斐あってか、カルロも場所は覚えてくれて生活面は最低限こなせるようになっている。
おかげで首輪については、運動がてらの散歩など、相棒獣達と多く遭遇する時以外はしなくてもいいことになった。そこは正直いうと嬉しい成果だ。
「今日からは、世話係りも頑張らないといけないわね」
独り言のように呟く声は、知らず弾む。
教育係り八日目、リズは一週間ぶりに幼獣舎へと向かっていた。
先日まで獣騎士達に幼獣の世話を全て任せていたのだが、今日から復帰である。ようやく、あの可愛いもふもふな幼獣達に会えるのだと嬉しくもあった。
とはいえ教育係りと半分ずつだ。これまでと同じく、リズは引き続き団長ジェドの予定相棒獣であるカルロの教育にあたる。世話に向かえない時間については、引き続き獣騎士達が協力して幼獣の世話に入ることになっていた。
「実質的に、私が付きっきりなのはカルロの方なのよねぇ……」
チラリと後ろを見れば、白い優雅な尻尾を揺らして歩く大型級の白獣、カルロの姿があった。
教育係りは、人間や暮らしを教えるためにも、ほとんど付きっきりでそばにいるものであるらしい。でもカルロは異例の暴れ白獣であるし、大人しく淡々とそばを歩いてきて自分の番が来るのを待つ――というイメージもなかった。
カルロのことだから待つのは嫌いだろう。だから今朝、今日からのことを説明した後で「時間は取ってあるから、待っていて」とも丁寧に伝えた。
そうしたら、カルロはガリガリと地面にこう書いた。
『オレの予定がくるまでそばで待つ。だから連れてけ』
小屋待機を断固拒否されてしまった。幼獣達の世話の準備をしている間も、後ろか付いてきて、物分かりのいい獣みたいに大人しくしていた。
普段から、そうしてくれると助かるんだけど……。
元より賢い獣である。もしかしたら、昨日までの一週間のおかげもあるのかもしれない。リズは前向きに考え直して、幼獣達の世話にも連れて行くことにした。
それに白獣は、幼獣を守る習性があって安全。
獣騎士達からも、だから大丈夫なのだとは教えられていた。
「サイズ的には窮屈になるだろうから、中には入らないようにね」
戸をくぐるのも、カルロならギリギリになってしまいそうだ。
そう思って声を掛けたら、しれっとした表情で歩いているカルロが「ふんっ」と鼻を鳴らした。了解、なのか、気分次第だ、という回答なのか分からなかった。
やがて幼獣舎が見えてきた。
一週間ぶりに戸を開けてみると、事前に匂いや気配を察知していたのか、白いふわふわなミニマムサイズの白獣の仔らが入口に集まっていた。
「みゃん!」
「みょみょッ」
幼獣達が、大きな紫色の目をキラキラとさせて見上げてくる。
大歓迎されている感じが大変嬉しい。教育係りになって八日目、ようやくの再会である。リズは思わず、パッと口許を押さえて感激に瞳を潤ませた。
「あなた達、私を覚えてくれていたのね……っ」
「みゅー!」
あたりまえ、と答えるかのように一斉に足元に寄ってきた。短いふわふわな尻尾と丸みの耳はぷるぷるしていて、頭や身体をぐりぐりしてくる様子は、会いたかったと言わんばかりの反応だった。
ふわふわ、小さい、可愛い、温かい。すごくふわっふわしてる。
「私もすごく会いたかったわ」
リズは嬉しくなって膝をついた。腕を広げてすぐに一頭、二頭と幼獣達が飛び込んできてくれて、しっかりと抱き留めてぎゅっとした。
途端に顔をぺろぺろと舐められた。
ザラザラとした温かい舌触りが、くすぐったい。
「ふふっ、みんな元気にしてた?」
世話に入るたび獣騎士達が、一人ずつ丁寧に日記を付けてくれているので様子は知っている。よく食べ、よく眠り、走りまわっているという。
「あら。少しだけ体重も増えたかしらね」
「みゅっ、みゃう!」
「ふふふ、くすぐったいわ」
ぺたりと座り込んだら、肩やら首の間やらにも幼獣達がぐりぐりと頭をこすりつけてきて、もうもみくちゃでくすぐったくてかなわない。
開いた戸から頭を覗かせて待っていたカルロが、顰め面で入ってきた。幼獣達が初めて見る大きさの白獣を前に、テンションマックスで足元でぴょんぴょんはね出すのに気付くと、少しだけ困ったように一歩ずつ慎重に足を進める。
「順番にみんな抱っこしてあげるから、少し落ち着いて、うきゃっ」
自分はおんぶー、と言わんばかりに二頭の幼獣がリズの背にダイブする。
リズはびっくりしてしまったものの、頬にすり寄る幼獣も、愛情深く撫でた。完全に下に見られているんだろうなぁ、とは感じたが可愛いので仕方ない。
温かいし、ふわふわで幸せだ。
他に人の目もないリズは、警戒心皆無でふにゃりと微笑んだ。
その途端、近くで腰を下ろしたカルロが、むっと鼻の上に小さく皺を寄せた。存在を主張するように、どの白獣よりも優雅な尻尾でリズの背に合図する。
「ひぇっ、くすぐったい……!」
唐突のソフトタッチに驚いて、リズは振り返った。撫でられたと受け取った幼獣達が、きゃっきゃと楽しげに騒いで背中からころんっと落ちている。
「何々、どうしたのカルロ」
「ふんっ」
また尻尾を寄越されて、今度は振り向いた顔にもふわっと当たった。
さすが丹念にブラッシングしているだけある。かなり毛触りは良くて、幼獣にはない優雅なほどに長い毛並みに、一瞬「ああ、いい」と思考が持って行かれかけた。
と、続いてカルロが、ぐいぐい鼻先を押し付けてきた。
「えっ、ちょ、カルロは力強いんだからそんなに押さないで」
すると幼獣達が、自分達も! と言わんばかりに喜び爆発で飛び込んできた。
力いっぱい全体重でこられてしまい、リズは身体を支えていられなくなった。
「うぎゃっ」
声を上げて倒れ込んだ途端、幼獣達が「みゅー」「みゃー!」と一斉に構ってを主張してきた。
身体には乗るし頭でぐりぐりしてくるし、とくに幼獣達は顔中をべろべろと舐めてくるのに夢中だった。朝に食べた、ジャムとパンの香りが残っていたのかしら?
「ふふふ、待ってくすぐったいの、落ち着いて。ちゃんとミルクごはんも用意するから」
もみくちゃにされたリズは、くすぐったいし目も開けられない。あまりにも笑いすぎて、人の目もないからスカートが乱れるのも気に出来なかった。
そうしたら今度は、カルロの方も大きな舌でべろんっと舐めてきた。
幼獣と違って獣的なザラザラ感が二割増しで、くすぐったさも倍増だった。そのそばから、楽しげに負けじと幼獣達もぺろぺろしてくる。
「あっはははなんでこんな時に舐めてくるのよ」
まずは幼獣達を顔から引き離そうと、足をバタバタさせて頑張っていた。
その時、どこからかノックする音が聞こえた。
「……お前は、一体何をしているんだ?」
声が聞こえて、白獣達がぴたりと止まって顔を向けた。リズも後頭部を柔らかなチップの地面に付けたまま、来訪者に気付いて上目を向ける。
そこにいたのはジェドだった。かなり呆れた顔をしている。
幼獣にもカルロにも下に見られて、もみくちゃにされているせいだろう。押し倒されてぺろぺろ舐められ放題だったリズは、察して「あ」と彼を見つめ返した。
ふと、遅れて自分のスカートが乱れてしまっているのを意識した。
それをジェドに見られてしまっている。
途端に恥ずかしさを覚えて、リズは慌てて背中を起こした。幼獣達がぴょんっと素直に離れてくれる中、手早くスカートを引っ張り下ろして足を隠す。
「ふうん」
ジェドが含むような声をもらし、幼獣舎に入ってきた。
「獣相手なら恥ずかしくないのに、俺が来たら隠すのか」
それはそうだろう。だってジェドは人間で、大人の男性なのだ。
リズだって年頃の女の子なのである。小さい時から、足や肌を隠しなさいと言われて育ったので、とくに異性の視線は気になるのは当たり前だった。
「か、隠すのはあたり前じゃないですか。私だって、十七歳ですしそれくらいのマナーは知ってます」
貴族界だと、女性が足を晒すのはダメだとされているとも聞く。それを知っていて言うなんて、ほんと意地悪な人だなとリズは俯き恥じらった。
するとジェドが、どうしてか隣にしゃがみ込んできた。
彼が横顔を覗き込んでくるのを感じて、リズはドキドキしてしまった。
「お前が勝手に名前を付けたカルロだって、オスだぞ。そっちにいるちっこいやつの大半も、恐らくはオスだ」
「でも白獣ですよ」
リズは、きょとんとしてジェドを見つめ返した。
こちらを見据えている青い目は、屋内であったとしても宝石みたいに鮮やかな色合いだった。だからなんだ、と言いたげに彼は落ち着いている。
「だって白獣は、下心もないですし」
不思議に思ってそう答えた。一旦落ち着いた幼獣達は、二人の周りにちょこんと座って見守っている。
するとジェドが、フッと口許に意地悪な笑みを浮かべるのが見えた。
「ほぉ。俺には下心がある、と言いたいわけか」
「えっ――あ、違います。そういうことじゃないんです」
どうやら答え方が悪かったらしい。この鬼上司が絶対零度の空気をまとってしまったらアウトだと、リズはあわあわと慌てて弁明した。
「一般論ですよ。別に団長様だけに対して警戒しているわけじゃなくって」
「一般論、ね」
しゃがみ込んで視線の高さを合わせているジェドが、全く信用していない風で口を挟んでくる。
「お前が警戒しているつもりがあるとも思えないがな。よく部下の前でもこけているし、運動音痴なのに走ってもいるし」
「うっ……でも私のスカート、重くて広がりにくいし……」
走ってもそこまで広がらないので、足だってそんなに見えないはず――あ、そもそも女性が走ること自体、貴族界では歓迎されない行動なんだっけ?
彼は、団長である前に伯爵で貴族紳士だ。多分、それについて指摘しているのだろう。
目の前からじっと見てくるジェドの美しい顔を見ていたら、まとっている空気が自分とは全然違っていることを今更のように思い出した。
この人、そういえば領主様でもあるのよね……。
住んでいる世界の違いを感じていたリズは、返す言葉に詰まった。近くに腰を下ろしているカルロから、馬鹿を見る呆れた視線を向けられているのが分かった。
「あの、団長様に下心があるから、という意味じゃなかったんです」
ほんとうですよ、と困った末にリズは弱々しく伝えた。
「そもそも大人な団長様が、私みたいな子供をなんとも思ってないのは知っていますし」
「――ふうん。俺が大人、ね」
ジェドが思案顔で、よそを見やって言う。
「大人だから、獣にじゃれられて好きにされているお前を見ても、何も感じなかった、とお前は言いたいわけか」
確認するように目を戻される。
大小の白獣にナメてかかられているのを呆れたんですよね……獣騎士ではないので仕方ないのにな、とリズは困ったように見つめ返した。
「えぇとこれは一週間ぶりのスキンシップでして――」
「じゃあ、下心からだったら?」
不意に台詞を遮られた。
いきなり話が先程に戻って、リズはハタと言い訳をとめた。
「俺が『隠すのか』と訊いたのが、下心からの質問だったら?」
ジェドは、ガラス玉みたいに美しい青い目で見据えてくる。
彼が私に? そんなはずないだろう、魅力的に感じて心動かされるものである、とぼんやり認識しているだけにリズは戸惑った。
「太腿も舐められていた」
「えっ、あ、そう、だったんですね……」
考えていたら、急に近くから声がしてパッと顔を上げた。
すぐそこに、こちらを見下ろすジェドの神秘的な青い目があって驚いた。
「あの、団長様……?」
かなりジェドが近い。よく分からないくらいに胸がドキドキして意識してしまい、リズは戸惑い気味に少し後ろへと寄った。
そうしたら、距離をたもつように彼も向かってきた。
「別に、お前を子供だと思ったことはないぞ。十七歳だと聞いて、少し意外に思ったほどだ。素行の他は十分淑女だろう」
え? 私が淑女?
先程の妙な質問に続いて、彼の口から意外な言葉を聞いた気がする。けれど考える暇もなく、不意にリズはジェドに手を取られた。
「この手と同じくらい、白くて綺麗だと思ったがな」
「え?」
「隠すのが勿体ないくらい」
そのまま手が引き寄せられる。
直後、手の甲を彼がぺろりと舐めた。まるで騎士か貴族紳士が挨拶のキスをするみたいに、自然な仕草で舌を這わせてきた。
生温かさにびっくりしたリズは、かぁっと赤面して手を取り戻した。
「な、ななな何をしているんですかッ」
「幼獣達だって舐めていただろう」
真顔で言い返すジェドの手は、もう一度寄越せ、と差し出されて伝えている。
「それと同じだ、なんか面白くなかったから俺もやった」
「同じじゃないですよ何をおっしゃっているんですか!」
思わずリズは一呼吸で言いきる。
「リズ。いいから、手を寄越せ」
「ひぇっ、なんでですか嫌ですよ!?」
自然な感じで名前を呼ばれて、リズは更に警戒心が煽られた。要求されている理由は分かっているので、ますます手を庇って後ずさりした。
「なんで舐められなきゃならないのか分かりませんっ」
「俺もよく分からんが、舐めた感じは悪くない。それに真っ赤になっているお前を見ていると、またやりたくなった」
「意地悪な理由で続行したいんですか!?」
信じらんない、この上司ほんと鬼だ……!
そう思っていたら、座り込んでいた腰を抱き寄せられた。手を引かれて「あっ」と声が出た時には、彼の口許に掌を押し付けられてしまっていた。
「幼獣達の気持ちが少し分かるな。どちらで触っても心地がいい」
ぺろりと彼が掌を舐める。指の間にも、指先にも、そして手の甲に口付ける。
押し付けられた身体が熱い。
一体何がどうなっているのか、リズはドキドキしすぎて頭がぐらぐらしてきた。目の前にいるのは獣騎士なのに、仕草が獣みたいに感じてしまうのは何故だろう?
「お、おふざけにしても度がすぎます」
「初心だな――獣のスキンシップと同じだろう?」
「何度も言いますがきっと違いますし、団長様もう離してくださいぃ」
後半、もういっぱいになって涙声になった。
するとジェドが、少し舌先を出したまま止まった。大きな目で不思議そうに見つめている幼獣達の視線の中、しばしじっとしていた。
「分かった。もうしない」
そう言うと、あっさり手を離してくれた。
いつの間にかスカートを踏むくらい近くにいた彼が、立ち上がって手を差し出してきた。エスコートに習慣がないリズは、潤んだ目で疑問いっぱいに見上げてしまう。
「なんですか? もうしないんじゃ……?」
「そんなに怯えるな。ただ手を取って立ち上がらせるだけだ」
「あの、一人で立てますけど――」
「地べたに座っている女を、放って一人で立たせる紳士がいるか」
ああ、そういうところは『貴族』で『騎士』様なんだなぁ……。
鬼上司なのに不思議だ、とリズはおずおずと手を伸ばす。大きな彼の掌に指を添えたら、言われた通り彼が優しく立ち上がらせてくれた。
「そうだ、それでいい」
なんだか満足げにジェドがニヤリとする。
いつもの涼しげで平気な顔だった。彼にとっては、先程のことも貴族が手に挨拶で唇を付けるようなスキンシップの延長戦、みたいな感じなのだろう。
つまりは本当に幼獣達を真似ただけ……?
あれ。でも、そもそもなんで『面白くない』と言ったのだろうか。
リズが今更のように思い出して首を捻っていると、珍しく大人しくしていたカルロが、だめだこりゃ、と言わんばかりに鼻から小さく息を吐いて立ち上がった。
カルロにぐいぐいと背中を押されて、リズは「あ」と気付いた。
下を見れば、目が合ったチビ白獣達がパァッと表情を明るくした。短目のふわふわとした尻尾を振って、期待を込めた眼差しで口許をぺろりとする。
彼らはお腹が空いているのだ。
そういえば再会を喜び合っていて、まだ本日一回目の世話はこれからだった。こちらが終わったら、次はカルロの方の予定が待っている。
「団長様、少し急ぎますのでご退出ください」
リズは使命感のもと、鬼上司であるのも忘れてビシリと戸へ指を向けた。
それを見たジェドが、少し機嫌を少し損ねた様子でチラリと眉を寄せる。
「俺が一番の上司なのに、その言いようはいい度胸だな」
「あ、すみません。つい――でも団長様だって仕事が入っているはずですし、私の方もこの後、獣舎のブラッシングルームへ行く予定があります」
「ブラッシング?」
問われたリズは、しっかり彼の目を見つめ返して「はい」と頷いた。
「今の時間は他の相棒獣達で埋まっていますが、あと少しで空くんですよ。カロルの毛並みの世話をしなければなりませんので」
ブラッシングは、獣が人に慣れるための第一段階目の大切な交流の一つだ。今やカルロも気持ちがいいものと分かってくれて、ブラッシングだけは率先してスケジュール通り動いてくれていた。
それをようやく思い出したのか、なるほどとジェドも理解したようだった。何やら言いたげな目を、すっかりやる気に満ちたリズへ目を戻す。
「お前、なんやかんや言って、結構教育係りとしてうまく日課をこなさせられるようになっているんだな」
褒められているのか、ペースが遅いのを哀れまれているのか分からない。
リズはなんだか珍しい表情をしているジェドを前に、小首を傾げてしまった。その後ろでカルロが、ブラッシングの予定には絶対に遅れるなよ、と念でも送っているかのような表情をしていた。