ソイソース・マイソロジー
「大豆」「季節」「フラグ」がテーマの三題噺です。ほとんど悪ふざけのような小説なので、ゆるーく読み流してください。
「空から女の子が降って来た」
突拍子もない一節であるが、フィクションの世界ではもはやテンプレートとなりつつあるのかもしれない。とあるライトノベルも、化物の物語も、天空の城の冒険譚も、事件のきっかけはこの一節だった。
だから俺もあのときは――――まあ、一瞬くらいはそんなことを考えたかもしれない。
剣と魔法の世界に転生したり、時をかけたり、宇宙戦争に巻き込まれたり――――日常と非日常の境界を、そこに幻視したかもしれない。
だがどうあっても、所詮虚構は虚構である。現実に虚構の入り込む余地なんて存在しないし、またその逆も然り。次の瞬間、俺は現実の薄情さとアイザック=ニュートンの理論の正しさを身をもって思い知ることとなった。
長々と続けても仕方がない。結論だけ言おう。
全治六週間。
深夜の買い物から自転車で帰る途中、突如降ってきた見知らぬ少女とジャストミートで正面衝突した俺に対し、医師が下した診断がそれだった。
「いやあ、ドジだよね~キミ。自転車乗ってて何もないところで大ゴケして、両脚をポッキリだなんて」
「…………」
「しかもあんな夜中に。キミ携帯持ってなかったんでしょ? たまたまあの娘が通りかからなかったらどうなってたことやら。ちゃんとお礼言っとかないと」
「…………そうですね」
「それと、一応預かってるけどあの自転車はどうする? スポークがほとんど外側向いちゃって、なんかこう……とげとげしさが止まるところを知らない、って感じ」
「ああ……捨てといてください」
「りょーかい。まあ、脚のことはそんなに心配しなくていいよ。両方ともキレイな折れ方してるし、特に右はすぐつながると思うから。2週間もすれば松葉杖つきで歩けるくらいにはなるんじゃないかな」
「そうですか」
「そうそう。だからそれまでの辛抱だよ。入院するのは初めてなんだっけ? 大丈夫、意外と楽しいから。テレビは見放題だし、ずーっと寝てても誰にも怒られないし。ああそれと、来週くらいに念のための再検査するからよろしく。んじゃ、アディオス!」
「…………」
やたらハイテンションな、顎ヒゲの目立つ初老の医師が病室から出ていくのを見送りながら、ベットの上の俺はかつてないほどの憂鬱に浸っていた。
「骨折だけでも絶望コースど真ん中なのにさ……何なのあのジジイ」
担当医によるストレスで胃潰瘍か何かを併発しそうだった。
……しかも、もっと厄介そうな問題がひとつ。
「あの…………」
ヒゲの医師と入れ替わるように、おずおずと病室に入って来たのは、
「ほ、本当に申し訳ありませんでしたっ!」
緊張やら何やらで、今にも泣きだしそうな金髪の少女だった。
「…………」
高校生くらいに見える年下の女の子が、肩まで届く金髪が乱れるのも構わず頭を垂れて謝っている。……これがなかなか趣深い光景で、できればいつまででも眺めていたいほどだったが、それを誰かに見られたときに俺の人格が疑われるのはまず間違いないので、早めにストップをかける。
あらぬ誤解は避けるべきだよな、うん。
「えっと……とりあえず顔上げて」
「…………」
恐る恐ると言った感じで正面を向いた少女と、初めて目が合う。
「……おぉ」
驚いた。少女は目までが髪と同じ色だったのだ。
小麦畑のような、鮮やかな金色。
染髪やカラコンのようには見えない。外国人だろうか。日本語は流暢だが。
……いや、そんなことより。
「いろいろ訊きたい事はあるけど……とりあえず2つ。まず、君の名前から」
「なっ、名前…………ですか」
何だその反応は。名前を尋ねただけなんだが……。少女はなぜか困ったような表情を浮かべ、俯いてしまった。
やがて、小さく口を開き、
「…………す」
「何?」
あんまり小さいので聞き取れなかった。
「…………レイ…………です」
「れい?」
れい。レイ。横文字チックな響きはあるが、日本人にも少なくはない名前だろう。……まあ、この娘の出身については後回しだ。
「俺は素井……素井美陰。21だ」
お袋が中学生のときに思いついたという、あまり好きではない自分の名前を名乗ってから、俺は本題に入る。
「じゃあ、2つ目の質問だけど」
一息ついて、まっすぐ目を見て、
「レイは昨晩…………どうして『降ってきた』んだ?」
彼女はまたしても、困ったように俯いてしまった。
レイの突然のボディプレスの理由について俺は非常に興味があったのだが、彼女の性格のことを考えれば、あまり強く問い詰めたところで状況が良くなることはないだろう。
ときになだめ、ときに話題を変え、一時間に及ぶコミュニケーション(うち他愛のない雑談が七割)を通して得られた情報をまとめると、次のようになる。
・彼女は大切な「あるもの」を探していた。
・高所から「あるもの」を探しているときにうっかり足を滑らせ、そしてたまたまその真下を俺が通った。
・「あるもの」が何かは言えない。
・「あるもの」は何者かによって盗まれた可能性がある。
「うーん……。なるほど」
わからん。まったく話が見えてこない。「あるもの」とか「何者か」とかブラックボックスが多すぎるだろ。レイの素性も知れないし。何次方程式だよ。
「その『何者か』について、分かってることはないの? 外見とか……声は聞いた? 性別くらいは――――」
「えっと、名前……は、分かります、けど」
「わかるの? え、知り合い?」
「あ、いえ、知り合いと言うか……あったことは何回かあるんですけど、顔がわからなくて」
何だそれ。ネットで知り合ったとか、そういうことだろうか。いや、でも「会ったことはある」と言う。
「うーん…………。まあ、この話はまたの機会にしようか」
情報が少なすぎるし、何よりレイ自身があまり多くを語るのを避けているように思える。質問を重ねたところであまり意味はないだろう。
ベッドの近くの窓を開け、空気を入れ替える。
「うおっ、冷たっ。もう3月だってのに、何なんだこの寒さは」
そう言えばニュースでもやっていた気がする。今年は例年に比べて気温がなかなか上がらない、とか何とか。
「5時半か……。まだ暗くなるのが早いから、帰りは気をつけて。また何かあったら――――」
「あ、えっと、あの…………」
慌てたようにレイが口を開いた。
「どうかしたのか?」
「その……今回は、私のせいでそんな大ケガを……」
「ああ、いやいや。それはもういいよ。不慮の事故だったんでしょ? さっきも謝ってもらったし」
俺がそう言うと、彼女は続けた。
「それで、その……脚が使えないと、いろいろ不自由じゃないですか?」
「……それは、まあ」
確かにその通りだろう。歩くことさえままならないこの状況では、出来ることは大幅に制限される。
「なので、えっと……脚が治るまで、色々お手伝いをさせて下さい。言ってもらったら、なんでもしますので」
「…………」
…………。
……おいおい。
おいおいおい。
おいおいおいおい。
マジかよ。
いいんですか?
現役女子高生(目測)の金髪美少女が「なんでもします」って。
「なんでも」だよ? 「なんでも」ですよ?
国際共通規格《NANDEMO》ですよ!?
いいのか? よろしいのか?
えー、やはり、まあ、そうですね。自分、両の脚が折れているわけでありまして。ひとりでは歩けもしないわけでありまして。そんなときに、もし、少し肩を貸して頂けたりするのであれば、非常に助かりますね。まあ、そのときに少しばかりカラダが密着してしまうのも、当然の摂理と言うか、物事の道理というか、宇宙の真理というか、まあ、仕方のないことでありまして。やむなし、というわけでございます。ああそれに、ひとりでは入浴もできませんね。手すりなどに掴まっていても、うっかり足が滑ると危ないですし、色々とお手伝いをしてもらわねば。ああそれから――――――――。
「――――ゴッッホン!」
「ひっ!?」
レイが驚いて飛び上がるくらいの大きな咳払いをして、高ぶった感情と荒ぶった思考を落ち着ける。落ち着け、早まるな……。俺はなるだけ紳士的な言葉遣いを心がけて、
「あー。えっと、レイ君」
「はっ、はい」
「私と君がぶつかった場所を覚えているかね?」
「えっと……はい」
「その近くに、小さな醤油の醸造所がある。赤い屋根の建物だ」
「ああ……はい。ありました。」
「ならば話が早い。その裏の戸口から入ったら私の家だ。明日の朝にでも、少しばかり荷物を持ってきてほしい」
そうだ。最初から飛ばすのはよくない。何事も慎重に、少しずつだ。地道に信頼関係を――――。
「え? お醤油作ってるんですか?」
「左様。…………って、あれ? 言ってなかったっけ?」
「聞いてません。てっきり大学にでも行かれているのかと」
「そうか……いやまあ、別に大したことじゃないけど」
ジェントルな口調もそろそろ恥ずかしくなってきたのでやめる。
「えっと……うちが代々醤油の醸造――原料加工までだけど――をやってて、俺も小さい頃から手伝わされてた。で、高二のときに親がふたりとも事故って死んじまったから、それからは俺ひとりでやってる、ってわけ」
「……そうなんですか」
「そうそう。大豆潰したり混ぜたりしてるだけでお金が入ってくるから、働かなくても全然生活に困らないんだ」
「…………それ、働いてるじゃないですか」
「ハッハッハッ。何を馬鹿なことを――――はっ!?」
働いてた。
「……嘘だろ……なんで……どこで間違えたんだ……? いや、でも……くそっ、どうしてこんな……」
高校でクラスメイトにこの話をしたとき、返ってきたあれは羨望ではなく憐憫のまなざしだったのか。
「畜生……働かずして自活するという人類初の試みが――ッ!」
「あの……大丈夫ですか?」
レイが小さな声で言った。やめろ、やめてくれ……そんな目で俺を見るな!
「えっと……ごめん。何の話だっけ?」
「荷物を持ってきてくれ、って」
「ああ、そうだった」
俺じゃベッドの横の机からメモ帳を一枚破り取り、必要なものを書きだす。
「とりあえず着替えと携帯と……財布はカバンにあるからいいとして……あ、あと適当な本を2、3冊お願い」
「わかりました」
メモと鍵を渡す。
「今日は遅いから帰ってもらって、明日の都合がいいときに……あ、そう言えば学校とかは?」
「あ、えっと……は、春休みなので。全然大丈夫です」
「そうか。じゃあ、よろしく」
会釈と共に去っていった彼女を手を振って見送ると、俺は大きく溜息をついた。
昨晩からの怒涛の展開も、ようやく一段落といったところか。
「いやあ…………働いてたんだな、俺。……ハァ」
……いや、落ち込むのはもういい。良いことだってあったじゃないか。レイの「なんでも」がある以上、あらゆる苦悩は俺の前に等しく無意味である!
「そうだ……ふっ……ふふっ……ふははははははははは――――」
「失礼―。どしたの素井くん。脳検査いっとく?」
突然入って来たのは、あのヒゲ面の医師だった。
「いきなり何ですか、陽気外科医」
「うーん、60点。読みはスタイリッシュだけど、字面がちょっと微妙だなあ」
「いや……二つ名のセンスの採点なんて誰も頼んでませんけど」
何なんだよその対応力は。下手な若手芸人なんかよりよっぽど優秀なんじゃないのか。
「で……何の用ですか?」
「いや、そんな迷惑そうな顔されても……別にここ君の家じゃないからね?」
そう言う医師はプラスチックの洗面器を手に持っていた。
「…………え? 何ですか?」
嫌な予感。
「え? いやいや、普段やってることも脚が折れてちゃうまく出来ないじゃない?」
やめろ……。
「例えば――――」
やめてくれ……。
「――――お風呂とか」
いやああああああああああ!
「ちょっと待って待って待ってウェイウェイウェイ! いや、別に一日二日風呂入らないくらいで人間死にやしませんよ! 第一、俺は枕が変わると風呂に入れない質で――――」
「わけがわからないよ。はい、さっさと車イスに乗って」
「そ、それにほら、今着替えがないんですよ!? こればっかりはどうしようも――――」
「ここは病院だよ? 下着の替えくらいいくらでも置いてあるって」
「駄目だ! じっ、実は俺水道水アレルギーなんですよ! 風呂も蒸留水じゃないと……ぐっ、考えただけで右手が……くそっ、鎮まれえええええええ!」
「アレルギーで邪気眼は発症しないって。それに心の病は専門外だよ」
そう言って俺の両腕を掴むと、無理矢理車イスに座らせようとする。……くっ、なんて力だ、まるで抵抗できない。
かくして3分後。俺はヒゲ医師の押す車イスに揺られて廊下を進んでいた。
「いやあ、脚が使えないとなるといろいろ不便だよね」
「…………」
今の俺は不便というより不憫だと思う。
「まあ、こうしてあったのも何かの縁だし」
「…………」
医者と患者の関係は「何かの縁」ではないと思う。
「困ったことがあったら、なんでも言ってよね」
「…………」
フェードアウト。
人は、辛い思い出や都合の悪い記憶を、曖昧にしか思い出せないようになっているという。人間の脳に備わった自衛機能の一つなのだが、とにかくそんな訳で。
目が覚めると、俺は病室のベッドの上に転がっていた。
「…………知らない天井だ」
昨日からほとんどベッドの上で過ごしているが、落ち着いて横になるのはこれが初めてだったりする。……いや、今この状態でいるということは、昨晩こうして眠りについたはずなのだが…………なぜだろう、思い出せない。
「…………レイは、来てたんだな」
机の上に荷物が置いてあった。朝のうちにここを訪れたが、眠っている俺に気を遣ってくれたのだろう。
「……ああ、そういえば、本を持ってきてもらったんだった」
読書でもしてリラックスしよう。
「さて、レイのチョイスは……『AKIRA』『フェルマーの最終定理』『虐殺機関』の3冊か。うん、これを読みながらゆったりリラックス――――できるわけねぇだろ!」
無人の病室で渾身のノリ突っ込みをしてしまった。
いや、33冊とも素晴らしい本なんですけどね? ちょっと気晴らしに読むものではないでしょう。
「もうちょっとさ、こう……『キルミーベイベー』とか『星新一のショートショート』とか、そういうのが欲しいの、今は。うん」
溜息とともに幸せが逃げていくような気がする。
……誰だっていい。なんだっていい。
「……俺に、癒しをください」
そしてこの日以降、レイがここを訪れることはなかった。
「うーん……。いいかな、うん、退院!」
2週間後。人間の意志と肉体の治癒力の密接な比例関係を身をもって証明して見せた俺は、ようやく病室という名の監獄から解放されることとなった。
「左もほとんど繋がりかけてるけど、無茶はしないでね。右だって完治したわけじゃないんだから。それと、しばらくは週1で通院して頂戴」
「わかりました。それじゃ失礼します。喧噪の治療師」
「55点。それだとノイズが目的語になっちゃうから。凡ミスはもったいないよ」
うむ、さすがの対応力。医者という職業の役に立つかどうかは知らないけれど。
「あばよ、クソジジイ!」と心の中で階段を下りる。
「あ~自由っていいよなあ。やっぱり自分の身体は自分の――うおっ!?」
何かにつまずいて転びそうになり、慌てて手すりに掴まる。
「あっぶなかった……何だ?」
しゃがみ込んで見ると、階段のすべり止めがめくれ上がり、浮いてしまっている部分があった。
「これは危ないな……今みたいにゆっくり歩いている時ならまだしも、走っているときに引っかかりでもしたら……。考えるだけでもゾッとするぜ」
…………? 何やらフラグの立つ音が聞こえたような気がしたが……まあ、きっと何かの勘違いだろう。ケガがなくて何よりだ、うん。
正面玄関から外に出る。
「ふぅ、2週間振りのシャバの空気を――って、寒っ!」
何だこれは。一体何事だ。もう3月も下旬だというのに、気温は上がるどころかむしろ下がっているように感じる。
タクシーを捕まえて、家に向かう。
「……運転手さん。三月にしては妙に寒くないですか?」
「いやあ、ホントだよ、まったく。テレビでも言ってたよ? 野菜やら何やらの値段も上がっちゃって、ウチのカミさんが嘆いてたさ」
言いながら、新聞紙を取って渡してくれた。日付は2日前になっている。1面に、気温が上がらないことについての記事が大きく載っている。専門的なことはよくわからないが、高気圧だか低気圧だかが、例年のような動きを見せずに、じっと留まっているらしい。
「異常気象だよな……地球温暖化の影響――いや、むしろ逆か?」
タクシーを降り、家の前までやってきても、俺の心は不安を手放さない。
もし、このままずっと気温が上がらなかったら。ここが常冬なら、地球の裏側は常夏なんだろう。異常気象に次ぐ異常気象、食糧問題、新たなる感染症…………どんな問題が出てくるのか。
「……ん?」
裏口から2週間ぶりの帰宅を果たそうとしたとき、醸造所の方に車が止めてあるのに気付いた。正面に回り込むと、そこにあったのは見覚えのあるトラックだった。さらに、すぐ近くにその持ち主の姿を見つけた。
「大津さん」
「おお、ボウズ。なんだ、元気そうじゃないか」
ハードボイルドな低音で答えたのは、大きな醬油工場に勤める大津さん。俺が加工した大豆を買い取って、工場まで持っていってくれる。でも――
「――どうしたんですか? 入院するからしばらく休むって、お電話しましたよね?」
「あ? いや、それは聞いたけどよ。気まぐれで来てみればお前、ちゃんと醤油が並んでるじゃねえかよ。しかも最終工程まで済ませたやつが。お前んとこにそんな設備あったっけか?」
「何言って……」
まるで話が見えてこない。何が起こっている?
「ま、別にいいけどよ。ほれ、今回分の代金だ」言って封筒を差し出してきた。「先週のは郵便受けに入れといたから。それと、うちの新製品の試供品」小ビンに入った醤油を渡される。「今度会うとき感想をを聞かせてくれ。じゃあな」
そうとだけ言うと、大津さんはトラックを走らせて去ってしまった。その荷台には、醤油の入ったビンがある。それ自体は見慣れた光景だが、今回、その中身は俺が作ったものではない。
「じゃあ誰が……って話になるんだよな」
玄関から上がり、靴を脱いだところで、
「……ん?」
妙な物音に気付いた。
バリバリバリ――という破砕音と、
ピチャ、ピチャ――という水音。
「何だ……?」
音の正体に全くめどを立てられないまま、音源を探す。耳と勘を頼りに、少しずつ音の中心に近づいていく。
そして、大豆をしまい込んだ倉庫の前に立った。ドアには「開けるな」と書いた紙が貼ってある。
「俺の書いたものではない……ふむ」
ドアをそっと、少しだけ開き、隙間から中を窺う。そこに見えたのは――
「…………レイ?」
なぜ? どうして? ホワイ!? 入院2日目から全然姿を見せないから「なんでも」の契約をすっぽかして逃げやがったと思ったのだが、こんなところで何をしている?
レイは大豆の入った袋を開き――
「――は? 何で? 何やってんの?」
なんと、大豆を鷲掴みにして喰い始めた。左右の手で交互に、次から次に大豆を口に放り込んでいく。バリバリ、ムシャムシャ、と。
これで破砕音の方は解決――とまではいかないまでも、正体は判明した。
「……それにしたって」
喰いすぎじゃないか?
最近の若い娘はよく食べるなあ、感心感心――――とか、そんな次元の話ではない。何というか、こう、仮にレイの形をした袋があったとする。その中に、彼女が今口に入れた分だけの大豆を全部詰め込んだとすると、間違いなくあふれてしまうのだ。
「…………」
俺は言葉を失って、ただ彼女の奇行を観察することしかできなかった。
とうとう彼女は、袋に入った大豆をすべて平らげてしまった。少しの間、座ってじっとしていたかと思うと、今度は醤油を入れる大きなビンを取り出した。そして大きく息を吸うと、次の瞬間、ビンを咥え込んで――――
「え…………ええ!?」
吐き出した
少女の小さな口から、大きなビンの中へと、赤黒い液体が注がれていく。最初はピチャ、ピチャ、ピチャ、くらいのペースだったものがだんだん速くなり、最終的には理科室の水道課と思うような勢いとなった。
そして、レイの腰ほどの高さのビンが謎の赤黒い液体で満たされると、彼女は大きく一息をつき、そして次の袋に手を伸ばした。
…………ナニコレ? どんなサイコホラー? 第一あの液体は何? 大豆喰って吐いたってあんな色にはならないだろう。それこそ血液か何かにしか……。
限界だった。
「レイ」
小さな肩がビクッ、っと震える。恐る恐るこちらを見た彼女の金色の目と、俺の視線とがまっすぐぶつかった。
「いっ、いつから、そこ、見て、い、いや、違うんです、あの、これ――」
「おおおお落ち着いて」落ち着いていない俺の口がそんな音を発した。「別に怒ってないから。な? 会話をしよう。コミュニケーションを、な?」
「いやつ、す、すいませんっ、わたし――」
慌てふためいたレイの手が、先ほどのビンに触れる。バランスを失ったビンは大きく傾き――――
「あっ」
――――音を立てて割れ、盛大に中身を撒き散らした。
「ごっ……ごめんなさい、いや、もう、わたし、待って、その、えっと――」
こぼれた液体のにおいが、空気中に充満する。
「――――っ? これは……」
まさか――。
俺はこぼれた液体に指の先をつけ、その指で舌に触れた。
「……間違いない」
確信した。
「レイ」
未だパニックに陥ったままの彼女の、正面にしゃがみ込む。
「おい、話を――」
「ごめんなさい、でも、その、いや、違うんです、わたし――」
「レイ!」
両肩を持ち、目を合わせる。俺の大声に、彼女は驚いたように黙り込んだ。
「レイ……教えてくれ。どうしてお前は――」
「――あんなやり方で醤油を作れるんだ?」
「…………」
彼女は少し落ち着いたらしく、目を閉じて一度深呼吸をすると、すぐにおれに向き直り、
「モトイさん」
逆におれに質問を投げかけてきた。
「北欧神話を知っていますか?」
「何? 神話? 北欧神話っつったら、えっと……オーディンとか、ラグナロクとか?」
ゲーム等で得た薄い知識を披露する。
「でも、それとこれとに何の関係が――」
「わたしの名前はフレイヤ」
「……は?」
「海神ニヨルズの娘で、豊穣の女神です」
…………な、何ですと?
「何かを探している――って言ってたよね」
近所のハンバーガーチェーン店に入り、朝食を兼ねた状況整理。
「はい」
しなびたフライドポテトを1本ずつ口に運びながら、レイ――否、フレイヤは言う。
「わたしは『季節』を探してこの国に来ました」
「うん、わからん」
どう言えば伝わるのかに頭を悩ませているのだろう、彼女は指先のポテトをくるくる回しながら考え込んでいる。まあ、常識や価値観にギャップがあるのも当然といえよう。なんせ、日本の醤油屋とヨーロッパの女神である。……いや、女神て。あまりの急展開に脳が妙な落ち着きを見せている。もっと驚けよ、疑えよ、おれ。なんで神話の女神様とハンバーガー食ってんの?
「パーシージャクソンでもこんなことしねえよ……」
「何ですか?」
俺は黙って首を横にする。そうこうしているうちに、フレイヤも考えがまとまったようだ。
「じゃあ……順番に話します。まず、わたしの仕事について。わたしは主に『豊穣』を担当しているので、天候とか一部の動物とかを通して、作物の実りを調節しています」
「調節……ってことは、減らしたりも?」
「たまにはそういうこともします。バランスが大事なので……」
「ふうん……。あと、動物ってのは微生物なんかも含むのか?」
「そうですね。というか、むしろほとんどは虫とか、それより小さい細菌とかです」
なるほど。
「ということは、さっき醤油作ってたのはやっぱり――」
「や、えっと……」
頬を赤らめて俯くフレイヤ。
「……まあ、そういうことです。体内で微生物を活性化させて、発酵の過程を早回しにして……。えっと、その、わたしのせいでお仕事ができなくなってしまって、申し訳なくて……。で、お醤油について調べてみたら、どうにかいい感じにできそうだったので……その、迷惑でしたか?」
「ああ、いやいや、まさか。むしろ助かったよ」
彼女なりの「なんでも」は俺の知らないところでなされていたのだった。
……さすがにあの光景には引いたけど。「どうにかいい感じ」ではなかったと思う。
「えっと……じゃあ、話を戻しますけど。そうやって気候――気温とか、天気とか、風向きとかを調節する時に使う道具のひとつが『季節』です」
「道具……? ってことは、お前はその『季節』そのものを持ち歩いてて、それをいじくって気温とかを操ってるのか?」
「あ、いえ。持ち歩いてるわけではないです。えっと……カレンダーみたいな感じでしょうか。わたし以外が触れられないように、聖域に保管しています――――いえ、保管していたんですけど……」
「盗まれた、と」
フレイヤは黙って頷いた。
「聖域、ってのが何なのかよくわからないけど、セキュリティはちゃんとしてたんだよな? にも関わらず『季節』を盗んだっていうのは――」
「悪神ロキ」
彼女は吐き棄てるようにその名を口にした。
「道化師なんて呼ばれてはいますけど、そんな可愛らしいものじゃありません、あいつは。…………あのクソガキ、前から気に食わなかったけど今度ばかりは――」
独り言のように毒づくフレイヤ。目が怖い。かなり怖い。
てか「クソガキ」て。
「……あー、フレイヤ?」
「はい? ……あ、すいません。つい……」
「…………ちなみにフレイヤってさ、何歳?」
「……え?」
「え?」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………えっ……と」
「……女子の年を聞くなんて失礼ですよ? モトイさん」
「ああ……そうか。そうだよな」
というか、そもそも神様を年齢というものさしで捉えることに無理があるのかもしれない。
でもまあ「女子」ではあるらしい。本人いわく。
信じますよ? いいんですね?
「で……そのロキってやつはどうして聖域に侵入出来たんだ?」
「えっと、聖域には変身系の魔法や幻術を解除する仕掛けが打ってあるんです。これのせいで、例えば誰かがわたしになりすましても聖域には入れません。……なんですけど、たぶんロキの幻術は変身じゃなく、相手の認識を直接いじるタイプのもので……」
「よくわからないけど……つまり、セキュリティがうまく働かなかった、ってこと?」
「まあ、そうですね。……というより、裏をかかれた、と言った方がいいかも知れません」
「なるほどね……。そういえば、病室で話したときに『顔がわからない』って言ってたのは?」
「それはそのままの意味です。やつの特技は『なりすまし』ですから。今も、誰か別人の姿を取っているんじゃないでしょうか」
「厄介だな……。じゃあ、このまま『季節』を取り返せないとどうなるんだ?」
「結論から言うと…………日本に春が来ません」
「…………は?」
絶句した。
「……な、なんでまたそんな…………」
「そもそも『季節』はわたしにしか扱えないんですよ。ロキがそれをてにいれても『進める』ことはできません」
季節が進まない……ってことはつまり、
「今の……この季節で止まってしまうってことか?」
「というより…………もう止まってます」
「……マジかよ」
謎の寒気の原因がようやく判明した。
「ロキはどうしたいんだよ。使えないもの持ってたってしょうがないじゃんか」
「……理由なんてないと思います。あいつはいつもそうですから。自由気ままにやりたい放題に、ただ引っ掻き回すだけ」
「そんな勝手な……」
最悪じゃんか。神話の世界にもいるんですね、そんな問題児が。
春が来なかったらどうなるか。まあ寒いだろう。海水浴場は永久封鎖され、作物も育たなくなる――――作物?
「大豆!」
「……はい?」
「大豆が育たない! 入荷しない! うちに来ない!」
つまり。
「醤油が作れない!」
なんてこった。俺の生命線が今まさに断ち切られようとしている。
醤油が作れなくなったら…………どうするんだよ俺。就活とかしないといけなくなるのか?
「……嫌だ。俺は醤油醸造以上の労働は絶対にしない!」
「…………」
「ロキはどこだ? 一発ぶん殴って日本に春を取り返してやる!」
「…………わかりません」
「…………そうですか」
そうですよね。探してるって言ってたもんね。
「…………じゃあどうする?」
「向こうから来てもらうしか…………」
そう言ってフレイヤは懐から何やら紐のようなものを取り出した。いくつかの小さな石のようなものが繋げられ、ぼうっと光を発している。
「それは……?」
「朱儒の首飾りといいます。苦労して手に入れたんですけど……」
言いながらそれを俺に渡す。
「ちょっ、え、何? どうすんのこれ?」
貴重そうな首飾りを渡され、どうしていいかわからず戸惑っていると、
「ロキは……言ってみれば愉快犯です。そのレベルの宝物を一般人が持っていたら、やつは間違いなくあなたに接触してきます」
「ほう…………つまり俺はエサってわけか」
「あ、いえ。エサは首飾りの方なので、モトイさんは……釣り針ですかね」
「…………」
どっちにしろ嬉しくない。
「でも、もしロキが俺に絡んできたらどうすればいいんだ? さっきはあんなこと言ったけど、ぶっちゃけ神様相手にタイマンで勝てるわけないでしょ」
「その首飾りに通信機能を付加してあります。怪しげな人物を見かけたらそれで教えて下さい」
でも、と、フレイヤは付け加える。
「気を付けて下さい。さっきも言いましたけどロキの十八番は『なりすまし』です。接触があるとすれば、やつはあなたの身近な人を装う可能性が高いです。わずかな違和感を見逃さないように」
「とは言われたものの……」
1週間後。
「男が首飾りなんて、これこそ違和感だよな……」
好奇の視線に耐えながら、この7日間を過ごしてきたが、今のところ何の手がかりもない。
「いかした首飾りだね。キミのセンス?」
「ああ、いえ……嫁が」
無意味に見栄を張ってみた。
今日は1回目の経過観察で病院へ。担当医は例のヒゲ医師だった。
「ああ、そうなの」
医師は俺の虚栄には生返事を返し、モニターのレントゲン写真を眺める。
「えーっと、うん、問題ないね。きれいに治りそうだよ」
「そうですか……」
嬉しい知らせのはずなのだが、俺は別のことで頭が一杯だった。
「何か飲む?」
「ああ、いえ……さっき自販機で済ませたので」
……この一週間、寒気はますます強くなっている。当たり前だ。春が来ないのだから。
未だ「季節」が盗まれたままなのだから。
「…………」
ロキの接触がない以上、こちらが打てる手はない。首飾りに関心がないのか? 気付いていないだけなのか? 気付いていないのなら、もっと目立つように行動するべきか?
「…………くそっ」
「ん? どうしたの?」
「……いえ、何でもないです。黄金の御手」
今までのように、何となくあだ名をぶつける。意味なんてない。すると、
「え?」
医師はキョトンとして首を傾げた。
「…………?」
何だよ。どうしたんだよ、いつもの対応力は。俺の命名センスを百点満点で採点してくれるんじゃなかったのか?
「先生……どうしたんですか?」
「は? …………あー、いやいや。ははは……」
医師は誤魔化すように笑みを浮かべる。どうした? 何に焦っている? 何に戸惑っている?
「先生――――陽気外科医」
俺は最初のあだ名を口にする。
「え? はいど……えっと、何だっけ?」
「…………」
俺はここでひとつの仮説に辿りつく。確かめる方法はあるが、確実ではない。しかし、同様にリスクの方もまったくない。試してみる価値はある――――。
「先生――――いえ、」
俺は、
「ロキ。『季節』をどこにやった?」
目の前の男の目をまっすぐ見て、その名を口にした。
「…………………………………………」
男は、随分長い間黙りこくったあと、
「……ククッ、ククククククッ」
口を歪めて、
「クハ、ハハハハ、ハハハハハハハハハハハ!」
壊れたように笑い始めた。
「…………」
「気付かれちゃったか。人格投影は完璧だったはずなのになあ。クハハッ。ボクもまだまだ未熟だね!」
「……いつまでその姿でいるつもりだ? いい加減に正体を見せてみろよ」
「正体? ん、いいよ! えーっと」
ロキは右手の人差し指を立て、拳銃のような形を作り、
「どれにしようかな……」
指先をこめかみに当てて、
「ルーレット、スタート!」
そういった瞬間、
「っ!」
ロキの姿が、目まぐるしい速度で切り替わっていく。
ヒゲの医師、髪の長い女、背の低い老婆、金髪の少年、赤毛の男、少女、老婆、老人、男、女、男、男、女男女男女男男女男女男女男男女女男女男女女男女男女女男男女――――――――
「ストップ!」
最後にそう叫んだのは、白髪の少年。
「いいね、この正体は嫌いじゃない。ああ、君が探してる『季節』ってのは……」
少年は……ロキはポケットから、
「これのこと?」
何かを手に握って取り出した。ダイヤル式の錠前を、一回り大きくしたもののようだ。
「……他に心当たりがねえよ」
フレイヤの言う「カレンダー」というのは形のことではなく、その使い方に限ったことであったらしい。
「ふーん…………クハハッ、じゃあね!」
ロキは突然、廊下に飛び出して階段の方に走り出した。
「あ、待てふざけんな!」
俺は後を追う。
廊下に出ると、下り階段のところで右折するロキの姿が見えた。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…………」
逃がすわけにはいかない。
俺の今後の生活と、それとついでに世界気候が懸かっている。
ここでロキを逃がせば俺は醤油を失い、行く先は会社勤めだろう。
「はぁ、はぁ、くっそ、ふざけんな! 逃げられると思うなよ、俺は高校で槍投げ部のマネージャ――――――うぉあ!?」
階段に足をかけ、一気に駆け下りようとしたとき。
「忘れてた――――」
階段のすべり止めがめくれ上がり、浮いてしまっている部分につまづいた。
「ふ…………フラグ回収、」
お疲れ様でええええす! と、誰が言う訳でもなく、
「お、うお、うぐおあばばばばばばばばばばばばばば!」
どこぞの青い音速のハリネズミのように、俺は階段をかなりの回転速度で転がり落ちた。
「ばば、ば……ぐふっ」
満身創痍で階段の踊り場に(半ば自動的に)行き着いた俺を、笑みをたたえて見下ろす幼い顔があった。
「クハハハハハハ! 面白いよねキミ! ねえ、もっかいやってよ!」
「うるせえ…………埋めるぞお前……遠くの山とかに」
全身を強く打ったせいか、うまく体が動かない。
ロキは楽しそうに笑ったまま、手にした『季節』をもてあそんでいる。
「うーん……でもこれはまだよくわからない。ねえおじさん、あの雌豚から聞いてない? これの使い方」
「俺はおじさんじゃねえ……」
シル? 聞き覚えのない単語に俺は眉をひそめる。
「それの使い方を………………もしかしてフレイヤのことか?」
「そうそう、そんな名前だった! ねえ、聞いてない?」
「聞いてねえ。てか聞いててもお前には教えねえよ。いいから寄越せ」
フレイヤは「わたし以外には扱えない」と言っていた。それは使い方を知らないということなのだろうか。
「んー、やっぱり自分で解読するしかないのかな? ああ、それとおじさん、その首飾りが欲しいんだけど」
「欲しい欲しい、って、お前は子供かよ」
「どう思う?」
子供だと思う。神様の年齢については先週少し考えたけど、別にもうどうでもいいや。
「駄目だ。この首飾りは貴重なものらしいんだから。フレイヤが言うには――――」
――――ちょっと待て。
「フレイヤは……」
何と言っていた? 首飾りを俺に渡したとき、何と言っていた?
――でも、もしロキが俺に絡んできたらどうすればいいんだ? さっきはあんなこと言ったけど、ぶっちゃけ神様相手にタイマンで勝てるわけないでしょ――
――その首飾りに通信機能を付加してあります。怪しげな人物を見かけたらそれで教えて下さい――
――――通信機能!
「忘れてた……おい、フレイヤ!」
首飾りに向かって叫ぶ。
「フレイヤ! フレイヤ! ロキだ、見つけたんだ! おい、今すぐ――――」
「無駄だよ」
遮ったのは、ロキの声。
「ボク達ふたりの被認識をずらしてある。どんな宝物を使ったって、誰にも聞こえないし、誰にも見えない」
そう言われて周りを見た。階段の踊り場で床を舐めている男に、誰も見向きもしない「そんな……」
どうするんだよ。八方塞がりってわけか?
「……第一、お前はどうしたいんだよ。目的もなく季節なんかいじくりまわして」
「目的がない? 雌豚がそんなことを言ったの? 嫌だな、目的もなくそんなことするわけじゃないじゃん」
「だったら何で……」
「ボクは暑いのが嫌いなんだよ」
「俺は寒いのが嫌いだ!」
殴りたい。大人をナメくさっているこのクソガキをぶん殴りたい。
「暑いのが嫌なら北国に行けよ……ロシアとか年中雪降ってるぞ」
たぶん。
しかし、ロキは首を縦に振らない。
「ボクは日本にいたいんだ。じゃがりこが好きなんだよ」
「俺もじゃがりこは好きだ!」
シバきたい。大人をナメくさっ(以下同)。
「えーっと、おじさん寒いのが嫌なんだっけ? じゃあ、これをあげるから『季節』を諦めて頂戴」
「何を……」
ロキは「季節」を持つ方と反対の手を握り締めた。その拳の隙間から、オレンジ色の光が漏れている。
「何が光って……まさか、炎!?」
「クハッ、察しが良いね、おじさん」
オレンジの光は少しずつ勢いを増し、最終的に一つの形を形成した。
棒状に…………否、ひと振りの剣の形に。
「スルトさんが持ってるやつの複製だけど……再限性は四割くらいだから問題なく使えると思う。『終世の焔剣』――あったかいよ」
「死ぬわ!」
問題なく使える、って。「使う」って何? これで暖を取れとでも?どう使っても死ぬわ。こんがり焼けてしまうわ。上手に焼けますわ。
「で、どうする? 『季節』を諦めてくれるならこれをあげるけど。ちなみに、諦めてくれないなら……やっぱりこれをあげる」
「どてっ腹にでしょ!? 知ってるよ、分かってるよ!」
脅迫じゃねえか。
「……クソッ」
考えろ、どうすればいい?
「季節」を諦める振りをしてあの剣を受け取り、それを使って「季節」を奪い返すか……いや、あいつが他に武器を持っていない訳がない。幻術とやらも使えるらしいし、俺に勝ち目はないだろう。
図書館でロキについて少し調べたりもしたが……。
「アキレスのアキレス腱みたいに、これといった弱点もなかったし――――いや待て」
ひとつあった。気になった話が。
「弱点、って程でもないけど」
起死回生の一撃となる可能性はゼロではない。
勝算があり、かつ一介の醤油屋でしかない俺にも実行できる方法。
ハッタリかますのが得意なわけではないけど……。
やってみるか。
「……わかった。『季節』のことは諦める。今日お前に会ったこともフレイヤには言わない。これでいいのか?」
「おお、話が早いね! 助かるよ。クハハッ!」
ロキは笑いながら、剣を持って俺の方に近付いてきた。俺も傷だらけ(全部自業自得)の身体を無理やり動かし、何とか立ち上がる。
「ああ……言い忘れてたけど、その剣でボクに切りかかってきたりしたら消しちゃうからね?」
「…………わかってるよ」
ロキが一歩ずつ近づいてくる。俺は悟られないようカバンに手を入れ、準備をする。
「あと、これ使うときは火傷に気を付けてね」
「……そうだな」
あとちょっと……もう少し……もう少し…………今!
「うらぁっ!」
俺はカバンから取り出したそれを、ロキ目がけて投げつけた。
ロキは、
「……つまんない」
なんと睨みつけるだけで、それを粉々に破壊してしまった。
「苦しませるのは趣味じゃないんだけど……」
そういうロキの、幼い少年の顔に、
「お前の――――っぐ、ああああああ!」
粉々になった小ビンの中身がぶちまけられた。
「目がっ……目が、くそ……ボクに何をした!?」
「それはフレイヤから預かってた神性の強い毒薬だ! 死ぬことはないが解毒剤を使わない限りお前は永遠に苦しみ続ける!」
俺はカバンからボトルを取り出し、存在を誇示するように振ってみせる。
「『季節』を返してもらおう! 拒むのならこの解毒剤がお前の手に渡ることはない!」
「く、っそ…………」
ロキは苦痛に硬く目を閉じたまま、少しの間歯を食いしばっていたが、やがて観念したように「季節」をこちらに投げて寄越した。すかさずそれを受け取り、ボトルの液体をロキの顔にかける。
「……あ?」
次の瞬間、そこに白髪の少年の姿はなかった。忽然と姿を消したロキの後に残ったのは、床にぶち撒けられた二種類の液体――醤油とミネラルウォーターだけだった。
「どうやら……うまくいったみたいだな」
北欧神話についてまとめた本で見つけた話。ロキは殺人(殺神?)の罪で洞窟に繋がれ、長きに渡って毒による責め苦を受けたという。もちろん、俺は毒薬なんて持っていなかったが、大津さんに貰った醤油の新商品のサンプルと、自動販売機で買った飲料水が手元にあった。
醤油が目に入ればもちろん相当痛いし、視覚が使えなくなることで判断力は鈍る。毒での拷問でトラウマめいたものをあの悪神が持っているなら、そこに付け入ることがができると踏んだわけだ。
「危ない賭けだったけど……まあ、結果オーライ」
手にした「季節」を蛍光灯の光にかざす。金属質のダイヤルのようなものが、上品な光沢を放った。
このあとフレイヤに「季節」と首飾りを返し、謝罪なのか感謝なのかよくわからないものを20分近く浴びた。神様がメールや電話を使っているのかどうかは知らないけど、少なくとも俺はこの日の夜、フレイヤから連絡先を聞いたりすることもなく、手を振って彼女に別れを告げた。
フレイヤと出会ってから1か月弱続いた一連の騒動は、こうして幕を閉じることとなった。
「曲がり角で女の子にぶつかった」
こんな聞き飽きたような一節に対して言いたいことは山ほどある――わけではないが、まあないでもないので、少しばかり話をさせてもらおう。
先月までの「季節」を巡る事件のきっかけは「飛来した少女との衝突」であった。いかにも事件のきっかけといった感じのする響きではあるが、むしろあからさま過ぎるというか、俺はまさか本当にあんな事件に巻き込まれるなんて予想すらしていなかった。一方この「曲がり角での少女との衝突」はどうだろう。事件というよりは学園ラブコメとか、そういった甘酸っぱい予感を感じさせる。だが実際は、最近の作品にこんなスタートを切るものは滅多にないし、あったとしても何らかの工夫とか、皮肉とかが含まれるだろう。
だから俺もあのときは――――いや、長々続けても仕方ない。結論だけ言おう。
「あ、モトイさん。お久しぶりです。あの……」
曲がり角で俺とぶつかった少女の第一声。
そして第二声。
「『風見鳥』が1羽逃げ出しちゃいました! このままだと日本に南からの風が来ません!」
「…………」
春の陽気を胸一杯に吸い込んで、俺は大きく溜息をついた。
こんな小説のあとがきで、大して語るべきこともありませんが、最後にひとつだけ。主人公の名前を音読みにしてください。
……はい。そういうことです。それだけです。