虹のキセキ
厭な事は重なるもんなんだろう。
仕事も家庭も、逃げ出したい。そんな気分だった。
こんな時に、虫歯が痛みだすのも、何かの嫌がらせなんだろうか。
台風が迫る雨の中、仕事を抜け出し、歯医者へ向かう決心をした。
橋を右折すれば、歯医者がすぐそこだ。
橋を渡って真っ直ぐ進めば、来月から始まる現場がある。
新しい現場の地権者への挨拶回りもしなければ、と頭をよぎる。
ここに来て、まだ歯医者へ行くのを迷っていたのだ。
40過ぎても、年齢に関係なく歯医者はためらってしまうものだ。
どっちへ進むか、きめかねずに橋まで来ていた。
すると、さっきまでの怖いくらいの豪雨が止んでいて、嫌な雰囲気を醸す暗黒の雨雲がうすれていた。
橋の向こう、こちらに向かう親子連れが立ち止まって、河の向こうを眺めていた。
ん?何か遭ったのか?
と、河向こうに眼を向けると
台風の最中、豪雨と雨雲を消し去った晴れ間に、今まで目にしたことの無い様な、大きな大きな虹が現れていた。
その絶大な虹は、観たことの無い美しさだった。
七色どころか、十二色にも三十六色にも思わせられる様な輝きに感じた。
思わず見とれていた。魅入っていた。
感銘を受ける、とかそんな単純なモノではなかった。
何かが、押し寄せてきた。
妻との軋轢や、上司とのすれ違い、友との諍い、そんな煩わしい細々したなにもかもが、ドンドン薄れていくのを感じた。
そんな自分の中のモヤモヤしたものが、消えていくその向こうから、虹の様な輝きで声が響いた。
「わたしは、ここにいるよ」
フワフワとした、優しく諭してくれるような声だった。
誰?この声って……想い出そうとした時
ブッブーーー!
後続車からのクラクションで、自分が信号も無い橋の真ん中で停車していた事に気づいた。
我に返り、慌てて右折して歯医者の駐車場に車を駐めた。
虹に見とれてた気まずさより、何か不思議な力を貰えたような、言いようのない感覚に酔ってた。
きっと、変な興奮状態だったのだろう。
歯医者の玄関で治療を終えた患者さんとすれ違うと思わず
「ものすごくキレイな虹ですよ!」
思わず声にしていた。
キッチリと和服を着こなした、まるでさっきの虹を思い浮かべさせられる様な、聡明な女性だった。
薄汚れた黄緑の作業着の人間が声をかけるには、似つかわしく無いような気がしたが。
その女性が好意的な表情をした気がしたので、思わず立て続けに
「あの橋から見ると最高ですよ。本当にキレイな虹で!イヤァキレイですよ」
そこまで話すと、なんだか妙に照れくさくなって、そそくさと受付に向かっていった。
「どうも、ありがとう」
と、背中になげかけてくれた声が、あのフンワリとした優しい声にそっくりだった。
思わず振り返ったが、彼女もまたその虹へと向かっていった。
待合室で、あの奇跡の様な、絶景の虹に映える聡明な和服女性が魅入ってる姿を思い浮かべていると…。
また、窓の外に薄暗さが戻り、窓を雨粒が叩きはじめていた。
あぁ、彼女はあの虹に間に合っただろうか?
あの奇跡が伝わっただろうか?
ちょっとした気恥ずかしさと共に、その女性の事を考えていた。
思わず話しかけた時の、驚いた表情が。
そして、嬉しそうな表情になった気がした。
でも少し淋しそうな、泣きそうな表情にも見えた。
出逢えたろうか?あの虹に。
素晴らしい物に触れる事が出来たて時、感銘を受けた事を誰かに伝えたくなる時がある。
そんな喜びの連鎖が広がって行けたら、素敵な事だ。
そんな連鎖に加わりたいものである。