ゆきちゃん
ゆきちゃんが死んだ。
学校から帰ってきたらケージがからっぽだった。最初はいつものように脱走したのかと思ったのだけれど、お母さんが「ゆきちゃんは天国に行ったわよ」と言った。
*
一昨日、ゆきちゃんは急にハムスターのごはんを食べなくなった。寝てばかりいるのはいつものことだけれど、ごはんを食べないのは初めてだ。
ためしに時々しかあげないヒマワリの種をあげてみたけれど、ちらりと見ただけで起き上がらなかった。おかしい。ゆきちゃんはくいしんぼうで、超高速でヒマワリの種を食べるはずなのに。一秒くらいで殻をむいて、次々と口にいれるものだから、ほっぺがところどころとがって変な形にふくらんでいるのを見て笑ったりしたくらいだ。
手のひらに乗せてみても、白い体をまるくしたまま目を閉じてじっとしている。前の日まではわたしの手の上でちょこんとお座りをして小さな鼻をひくひく動かしながら、じっとわたしのことを見上げていたのに。
両手でゆきちゃんを囲ってみる。上にかぶせた手はゆきちゃんをつぶさないようにおうちの屋根みたいにして、洞くつっぽくしてみた。ゆきちゃんはケージの中でもよく床に敷いてある木のくずを掘ってもぐりこんでいたから、きっと落ち着くと思う。
手の中がほんわか温まってきた。ゆきちゃんのふわふわの毛が手のひらをくすぐる。すっごく気を付けて感じてみると、トク、トク、とゆきちゃんの心臓が動いているのがわかる。ああ、生きているんだ。そう思うととってもかわいくてたまらなくなる。
「ゆきちゃん」
小さく声をかけてみる。
返事はない。いつものことだ。ゆきちゃんはあまりしゃべらない。
ゆきちゃんの元気がないことをお母さんも心配して、急いで動物病院につれていった。
先生は「そうかぁ、ゆきちゃんは三歳かぁ。じゃあ、もうおばあちゃんだね」とゆきちゃんの顔をのぞきこみながら話しかけていた。三歳なのにおばあちゃんなんて変だ。わたしは八歳だけどまだ子供なのに。
先生は小さい注射を一本うつと「ゆきちゃんを待合室に連れて行ってくれるかな?」と言った。なんだかよくわからないけど涙があふれそうになった。でもぐっとがまんして「わかりました」と大きな声で答えた。だって、わたしがゆきちゃんを助けてあげなきゃ。
わたしがピンク色のプラスチックケースを持って診察室のドアを開けると、先生はお母さんに向かって難しそうな話を始めていた。
家に帰ってもゆきちゃんは眠ったままだった。鼻やおなかのあたりが動いているからちゃんと息はしているようだ。ちょっとだけ安心した。
おかあさんが「ゆきちゃんもおなかがすいたら、ごはんを食べるかもしれないから」と少しだけお皿にごはんを入れてあげてからケージの扉を閉めた。
夜、寝る前にゆきちゃんに「おやすみ」を言いにいったら、こっそりごはんを食べていた。
「お母さん、ゆきちゃん、ごはん食べたよ!」と教えてあげると、お母さんもケージをのぞいて「あらほんとう。きっと注射が効いてきたのね」と嬉しそうに笑った。
その夜、わたしはほっとしてゆっくり寝られた。ゆきちゃんがヒマワリの種にもぐりこんでパリパリ音をたてながら食べまくっている夢を見た。
朝になると、カラカラと回し車の音がしていた。見るとゆきちゃんが遊んでいた。すごい。注射したから元気になったのかな。わたしは安心して学校に行った。
帰ってきたら、もうすっかりいつものゆきちゃんだった。ケージの柵をつかんでわたしのことを見上げている。わかっている。これはヒマワリの種がほしいってことなんだ。
「だーめ。昨日は元気なかったから特別にあげたんだよ。今日はいつものごはんね」
ハムスターのごはんをお皿に入れてあげると、ゆきちゃんはちょっと残念そうな顔をしてから食べ始めた。
ヒマワリの種はごはんじゃなくて、おやつらしい。だからごはん代わりにあげちゃいけないんだって本に書いてあった。
ゆきちゃんには元気でいてほしい。だからヒマワリの種はもうしばらくがまんしてもらう。
だって、あれが最後のごはんになるなんて知らなかったから。
*
あんなに元気だったから、もう治ったんだと思ったのに。今朝だって手のひらに乗せたら、お座りして鼻をひくひくさせて見上げていたのに。人差し指でそっと背中をなでたらふわふわだったのに。ちっちゃな手でわたしの指をキュッとつかんでくれたのに。
どのくらいの重さだったか、どのくらいあたたかかったか、どのくらいふわふわだったか、はっきり覚えているのに。
もうゆきちゃんに会えないなんてこの世の終わりだと思った。
庭に作られたゆきちゃんのお墓をなでてみても、ちっともあたたかくないし、ふわふわしてもいない。
ゆきちゃんは、もうここにはいない。
こんなことなら、もっとヒマワリの種を食べさせてあげればよかった。
*
毎日ゆきちゃんのお墓の前にいるわたしのところに、お母さんが風船を持ってきた。手を離したら空に飛んで行ってしまう風船だ。ゆきちゃんの体の色と同じ白い風船。
お母さんは風船片手になんだかえらそうに立っている。それから「えへん」とわざとらしい咳をすると、風船を突き出して言った。
「これはね、天国まで届く風船よ」
「天国まで?」
「そう。手を離したら空へ飛んでいくの」
「天国にはゆきちゃんもいる?」
「もちろん。だから、ほら」
お母さんは白い風船をぷるぷると振ってみせた。風船の中につぶつぶしたものが入っていて、パラパラと音をたてた。
「なに?」
「よく見てごらん」
白い風船をじっと見つめると、うっすら中にあるものが透けて見えた。細長い白と黒のしましまの……。
「もしかして、ヒマワリの種?」
「そう! ゆきちゃん、喜んでくれるかもよ?」
「でも、ちゃんとゆきちゃんに届くかな?」
「それなら……じゃーん!」
お母さんはマジックを取り出した。風船に書けということらしい。わたしはていねいに「ゆきちゃんへ」と書いた。そしてマジックのキャップをしめようとして、やっぱりもう一言書くことにした。「ありがとう」
ヒマワリの種が入った白い風船が空へとのぼっていく。ふわふわと風にゆれながら、天国まで飛んでいく。
ゆきちゃん、ありがとう。
*
次の日の朝。ゆきちゃんのお墓に「おはよう」を言いにいくと、なにかが散らばっていた。しゃがんでよく見たらヒマワリの種だった。ううん、ちょっとちがう。ヒマワリの種の殻だった。ゆきちゃんが食べ終わったあとに散らばっていたのと同じヒマワリの種の殻。
「お母さん!」
キッチンにいるはずのお母さんを呼ぼうとしたら、いつの間にかすぐとなりにお母さんがしゃがんでいた。
「よかったね。天国まで届いたんだねぇ」
「うんっ!」
天国の方を見上げると、白くまあるいふわふわな雲がひとつ浮かんでいた。
* おしまい *