小話: 耳朶の錨のルーツ
まずいところを見られてしまった。この時間、家には誰もいないはずだとすっかり油断をしていたのだ。どういうわけか予定より随分早い時間に学校から帰ってきた6歳下の弟は目を真ん丸に見開いて固まっている。きっとオレの左耳からぽたりと落ちる血に怯えているんだろう。
昔から、血を見るのが苦手な弟だった。オレが転んで膝を擦りむいたときにも、自分が痛いわけでもないのに痛そうに顔を歪めて泣いていた。そんな弟を弱虫だという奴もいたけれど、オレはそういう弟が好きだった。誰かの痛みに寄り添って泣ける奴は割と格好いいと、そう思っていた。
結局その日、帰ってきた母親にピアスを見られてやたらびっくりされてしまった。弟は血が止まったかどうかをずっと気にしていて、「痛い?」としきりに聞いてきた。痛くねぇよ、と答えるとやっと安心して笑ってくれた。お前が心配してくれるなら、穴のひとつやふたつ開けたって痛くなんかない。
* * *
ひろみー、と間延びした声が聞こえる。これは雁木の声だな、多分飯だろうな、と思いながらオレはするりと無視をする。するとやがてノックもなしに部屋の扉が外側から開けられた。
「なんだ起きてるんじゃん、夕飯ー」
「おう、後でいい。なんならオレの分食ってもいい」
「は?」
いつものんびりとしている雁木にしては珍しく素早い反応だ。そして雁木はどすどすと足音を立てながらオレのところまで近付いてきた。オレが向かっている机の上を見て、少し顔をしかめて、あのなあと低い声で言う。
「まだ時間はあるから、とにかく飯食えよ」
「そういう気分じゃねぇんだよ」
オレは椅子の背にもたれてペンを置く。安物のボールペンはインクがもう残りわずかで、そのことが妙に不安を掻きたてる。
「雁木はもう書いたのか」
「いや、俺は出す相手がいないから」
「ああ、そっか……悪い、無神経だった」
「気にするなって。それに」
そこで言葉を切って、雁木は短い黒髪をがしがしと掻いた。続ける単語が見付からないとでもいうかのような表情に彼の人の好さが滲んでいる。オレはそのとき初めて、雁木と友達になれた理由に気が付いた。
「お前、オレの弟に似てる」
「は?」
オレよりひとつ年上の雁木が解せぬという顔をする。オレはそれを面白がりながら続ける。
「お人好し。やたら相手に共感する。20歳にもなってそれって貴重じゃねぇ?」
「馬鹿にしてる?」
「してねぇって。……そうだ、雁木。相手がいないならオレ宛に書いてくれよ。オレもお前宛にもう一通書くから」
は、と雁木が彼にしては珍しく呆れたように息を吐いた。少し怒らせたのかもしれない。嫌だよ、と言って彼は部屋から出ていく。
「飯、食えよ。俺宛の手紙書いてる暇があるんだったら食う時間くらい取れるだろ。それが明日のためだ」
「……ああ、行くよ」
オレが席を立つと雁木はやっと安心したように笑みを浮かべて振り返った。
* * *
思いのやり場がない。帰る家も、帰りを待つ家族も、傷んだ身体を労わってくれる相手もいない俺がどうしてこんなふうにのんびりと列車に揺られているんだろう。荷物は小さな肩掛け鞄ひとつで、その中身も財布と身分証とお茶のボトルが2本という味気のなさだ。ただ、上着の内ポケットにしまった封筒だけが熱い。
各駅停車の普通列車しか停車しない、それすらも日に数本しか停車しない駅が目的地の最寄り駅だ。ステップを降りようとしてバランスを崩す。幸いなことに近くにいた車掌が手を貸してくれた。そうでなければ未だに古い車両を現役で走らせていることに文句を言うところだった。
慣れない杖が邪魔で仕方ない。なくても歩けるが、ないと不安だ。まだ痛み止めが必要なこの右脚を恨めしく思う。どうしてそんな風に中途半端な有様でそこにくっついているんだ、お前は。
封筒の住所を頼りに閑散とした住宅地を歩く。空き家も少なくないようで、なんとなくひっそりとした空気が俺を余計に苛立たせる。怖いものが随分と増えた。人気のない道が怖い。カーテンのない窓が怖い。自動車の走っていない道路の先が怖い。
そこから敵が現れる気がして。
坂になっている道の向こうから何かの気配。咄嗟に身構えようにもやっぱり杖が邪魔で、結果として棒立ちになった俺の前で少年が漕ぐ自転車がゆるりとブレーキをかけた。少年は中学生くらいだろうか。きつめの顔立ちに細長い身体。軽そうだな、と無意識に考える。これが相手なら勝てそうだ。
「あの」
気が付くと、目の前の少年が自転車から降りて気遣わしげに俺を見ていた。
「どっか探してるんですか」
黒髪に夏の陽射しが照り付けて、少年の頭に光の環を描いている。俺は帽子の下の目を細めて少年を眺めた。確かめるまでもない。
「……お前宛だ」
上着の内ポケットから取り出した封筒を少年に押し付ける。やっと軽くなる、と思ったときにはもう立っていられなかった。世界がぐるぐると回っていて、きつく目を閉じたら熱い何かが頬を伝った。驚いて叫ぶ少年の声が遠くで聞こえた。
どれくらい眠っていたのだろう。そよそよと優しい風が送られてくるのを感じて目を開けると、見知らぬ天井が黙って俺を見下ろしていた。そこへひょいと横からスポーツドリンクのボトルが差し出される。見ると先程の少年が白い団扇を動かしながら俺を見つめているのだった。渡されたボトルの中身をありがたくいただくと少しだけ身体に力が戻ってくる。
「そんな厚着して、どこから来たんですか」
少年は俺を咎めるようにそう言う。団扇で仰ぐ手を止めることなく、そして自らの傍らに置いた封筒に目をやることなく。
封の切られた封筒の中身はもう少年の目に触れたのだろう。その事実がまた俺を恐ろしくさせる。だが俺はこの場で少年に何を言われてもいいと思った。むしろ罵ってほしいとさえ思った。
いっそのこと、殺してほしいくらいだ。
「ふたつ、聞いていいですか」
少年の声が高く低く問い掛ける。二重になって聞こえるとは、どうやら俺の脳はまだ暑さに中てられているらしい。
「まず、あなたの名前を知りたいです。教えてください」
俺は素直に名前を告げる。少年のくれた飲み物のおかげで唇は滑らかに動いた。少年は小さく頷いて、団扇を動かす手を止める。次の質問は何なのか、俺は黙ってそれを待つ。少年は俺の名前を呼んだ。
「雁木皆助さん。にい……兄はあなたを守ったんですか」
あのとき俺はもう限界だった。頭も身体も満足に動かなくて、魔法を使うことさえできなかった。迫る巨鳥の群れに向かってくそったれと呟いて、与えられていた爆弾を握り締める。せめて1羽くらい落としてやろう。覚悟を決めて安全装置を切り捨てて。
耳が音を拾うことをやめた。目の前が白くくらんだ。頭が上にあるのか下にあるのか分からなくなった。心臓が動いていることだけがやけにはっきりと感じられた。猛烈な速度で引っ張られていることに気付いて、やがて焼け付く痛みに声を上げる。喉が嗄れていた。
俺は自分が生かされたことを理解して、そして気を失った。
「ああ」
返事は思ったよりも簡単に声になった。目覚めた病院のベッドの上で戦友の死を知らされたときから随分日にちが経っている。きっと俺の中で落ち着く場所を見付けた感情もないではないのだろう。
「尋海は物体操作の魔法で俺を安全な場所まで運んでくれた。あいつは俺を守ってくれた」
「そうですか」
少年の声から感情らしきものを感じ取ることはできなかった。どれほどの衝撃を受けているのか、俺にはそれを感じることも肩代わりすることもできない。俺が俺の衝撃に打ちのめされたように、少年も少年だけの痛みに震えている。
「……さすが、兄ちゃんだ」
ぎりぎりと音がしそうな程に奥歯を噛み締めて、それでもしっかりとした声で少年が言った。目に涙をいっぱい溜めて、身体を震わせて、握った拳からぽたりと赤い雫を零しながら。
「……おい」
俺は少年の固い拳を開かせる。そこには見覚えのある銀色の輝きが見て取れた。銀の台座にとても小さな船の錨があしらわれたそれは尋海がいつも身につけていたピアスで、だが俺が最後にあいつを見たときにはなかったものだ。
封筒に入れていたのだ。尋海は弟宛の手紙と一緒にピアスを俺に託したのだ。あいつが俺に遺した手紙にはその封筒と、それを弟に届けてくれという俺に宛てた簡単なメッセージが入っていた。それがなければきっと俺は。
「尋海は俺を守ってくれている、今も」
「今も?」
「ああ。そしてこれからはお前を守ってくれる」
少し歪んでいるそのピアスを改めて少年の手の平に乗せる。それはお前を傷付けるためのものではないはずだ。
「……じゃあ」
少年は俺の目をまっすぐに見てこう言った。
「俺は誰を守ればいい」
ああ、同じ目だ。誰だ、この少年と俺が似ているだなんて言ったのは。馬鹿な奴だ。こいつと本当によく似ているのは、尋海。お前自身だったんじゃないか。
翌朝、俺は尋海の家族に見送られてその家を後にした。手紙を届けてくれてありがとう、とその家族は泣きながら、だが驚くほどに優しい顔をして俺の手を取ってくれた。またいつでも来ていいと言われて、戸惑う俺にあの少年が言った。待ってるから、と。
きっと俺はもう二度とその家には立ち寄らないだろう。だが俺の中に確かに生まれた“帰ることのできる場所”が、気遣ってくれる誰かがいるということが、俺にとってどれだけ大事なものになるかは簡単に想像できた。
本当に、尋海はどこまでも俺を守ってくれる。
弟。お前も尋海に似て、きっと誰かを守るんだろう。だがどうか生きてほしい。誰も守れなくてもいい。それはお前にとってさぞ悔しいことだろうが、それでも。
俺は思いを言葉にできないまま、礼を言ってその町を去った。爆弾の破片に切り裂かれて使い物にならなくなった脚が痛まなくなった。
執筆日2015/12/07