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小話: 猫の先生のルーツ

 彼女は私の最後の新患だった。


 その人は部屋の中でいく通りもの泣き方をした。初めはぽつりぽつりと言葉と共に涙をこぼし、やがてそれがいかにも悲しげにさめざめと。そして半ば気のふれたように泣きじゃくったかと思ったら、最後にはもう蛇口の壊れた水道のように目からぼたぼたと水を落として。そしてそれでも彼女は喋ることをやめなかった。彼女には私に話したいことがたくさんあったのだ。



「娘がおかしくなったんです」

 母親であろうその人は開口一番、当の娘の目の前で私に向かってそう言った。綺麗な女性だ。娘というその6歳の少女もまた幼いなりに整って美しい容姿をしている。今はまだ華奢な子どもにすぎないが、あと10年もすればなかなかに見栄えのする女性になっていることだろう。しかし今はどちらもその美しさを封じ込めるような顔色で私の部屋に立っていた。

「まずはお座りください。それで、奥さん。よろしければもう少し具体的なお話を聞かせてください」

 私は彼女とその娘、それから彼女達の夫であり父親であるらしい気弱そうな男性を部屋の椅子に座らせて、2時間ばかり話を聞いた。

 彼女が泣きながら話した内容はこうだ。



 彼女の家はいわゆる中流階級で、その年齢の夫婦にしてはそこそこに安定したいい暮らしをしている。気弱そうな夫はやはり気の弱いところはあるものの仕事では手を抜かず、家庭でも波風を立てるようなこともせずに慎ましやかに振る舞っているという。

 彼女自身もそんな夫と一人娘との生活に満足していたが、娘が小学校に上がると昼間家に1人でいることが寂しくなって、1匹の黒猫を飼い始めた。

 彼女は言った。猫なんて飼わなければよかった。娘を外に出さなければよかった。それを聞いた娘はそれまで一度たりとも動かさなかった視線を小さく持ち上げて母親を見た。不思議そうな色を宿した淡い茶色の目が彼女を見て、それからまた伏せられる。娘はそれ以降一度たりとも親を見ようとしなかった。


 先月のことだった。

 小学校の夏休みも間近に迫った休日、彼女の娘は彼女の猫と共に家の近くの公園へ遊びに出掛けた。公園といっても住宅街の隙間にある小さなもので、遊具らしい遊具もない。ただうさぎとりすの姿を模した可愛らしいベンチが2つ並んであるだけだ。娘はそのうさぎに座って黒猫と共に時間を過ごすことが好きだったらしい。

 ところがその日は途中で雨が降った。娘は猫を抱えて家に向かって走り出し、道路に飛び出したところで右手から来た軽自動車に撥ねられた。軽自動車の運転手は夫婦の知り合いで、近所に住んでいる男性だった。男性はすぐに救急車を呼び、娘は少々怪我をして入院したものの命に別状もなく、翌日にはもうベッドから起き上がって外に出たがったという。


 事故そのものは大したことがなかった。娘の怪我は軽く、近所の男性も相応の罰を受けた上に夫婦に対して少なくない慰謝料を払った。ただ、黒猫だけは事故の日以来姿が見えなくなった。


 彼女は娘の無事を喜び、黒猫がいなくなったことにはあまり関心を示さなかった。夫は猫を探してみたが、見付からなかった。そしてやがて夫婦は猫どころではなくなっていった。

 娘が学校で騒ぎを起こすようになったのだ。

 まず、家を出て真っ直ぐ学校に行かなくなった。いつもどこかへ寄り道をして、泥だらけになってからふらりと児童玄関に現れて、靴を履きかえることもなく校舎に入っていって日当たりのいい場所で寝転がる。教室には行かない。初めは事故のショックもあってのことかと担任の教師も様子を見ていたそうだが、いくらなんでも毎日泥だらけで遅刻はよくないと娘から話を聞こうとした。ところが娘の話は要領を得ず、仕方なく両親である夫婦を呼んでさらに話を聞くことにした。そこで夫婦は娘の学校での異変を知らされた。

 そこでふと思い返してみると、異変は何も学校の中に限ったことではなかったことに気が付いた。夫婦の娘は家の中でも妙な行動を見せていたのだ。


 それまで箸やフォークを使って器用に食べていた食事を手づかみや、ときには皿に顔を突っ込んで舐めるようになった。朝や夜の挨拶をしなくなった。学校から帰るとすぐにどこかへ行って、夕食の時間まで帰らない。習っていたピアノ教室へ通うことも嫌がり、気に入らないことがあると床をごろごろと転がって抵抗した。


 事故のショックで感情が不安定になっているのではないかと考え、夫婦は最初根気強く娘に接した。娘が安心して過ごせるようにと彼女の行動を否定せず、のんびり構えることにした。しかし娘の変化は1か月経っても直らず、むしろさらに奇妙な行動を見せるようになっていった。


 暑いからと開け放していたベランダの窓から外に出た娘は、そのままベランダの柵を乗り越えて裸足でそこらじゅうを駆け回った。幼く柔らかい足にたくさんの傷ができて血を流しても、娘はまったく気にしなかった。

 隣の家の庭でバーベキューが行われていると、娘はそっと植え込みの陰から様子を窺い、やがて家人が目を離した隙に活きのいい鶏の生肉を奪って木陰で食べた。

 2軒隣の家の窓の近くに鳥籠があった。綺麗な羽根の色をして、時折やかましく喋るインコが中にいたのだが、娘は開いた窓から家に入って鳥籠を開け、そのインコを追い回して最後には食い散らかした。

 黄色い綿のような羽根を口元にくっつけて満足そうに帰還した娘を見て母親は卒倒しそうになったそうだ。



 一度目の面談が終わって、母親には一旦待合室に戻ってもらった。彼女の夫も一緒だ。そして私は娘である少女と向き合った。

 少女は両親がいなくなると少しだけ寂しそうな目をした。それから私が何か言うより先に私に向かって尋ねてきた。

「どう、すればいいの」

「どうすれば、というと?」

「あたし、どうすればいいの。分からない、お母さん、困ってる」

 少女は両親の困惑を感じ取っていた。しかしだからといって自分が何をして、どうして2人を困らせているのかが分かっていないのだった。

「あなたはどうしたい?」

 私が尋ねると、少女は苦しそうに答えた。

「お母さん、泣かないように」

 大好きなの、と少女は顔をぎゅっとしかめて言った。私は少女の頭をそっと撫で、これからしばらく週に一度ここへ通ってくるようにと告げた。

「あなたに“あなたらしい”振る舞い方を教えてあげよう。でもそれを続けるとあなたの本能は抑え込まれて、時々苦しくなるだろう。うまくやりなさい。本能を隠して、こらえて、お母さんとお父さんへの愛情を貫き通せるかい」

 少女は少し考えてからこくりと頷いた。

「あたし頑張る。あたしが、頑張る」

 いい子だね、と私はまた少女の頭を撫でた。


   *   *   *


 診察が終わった頃、ふらりと彼が私の部屋を訪れる。やあ、と軽く右手を挙げて、白衣の彼は同じく白い顔に笑みを浮かべた。

「今日の患者さんは少し珍しい人だったみたいですね」

「……アダマス」

「ケースの報告をお願いします、とギーズからの伝言です」

「把握していたなら少しはあの家族に何かしてやろうと思わないのかい、あの人は。……あなたもだ、アダマス」

 私は思わず強い語調で白い彼をなじる。彼はオレンジ色の目を細めながら少しだけ困ったように答えた。

「ボクはそこまでお人好しにはなれません」

「……解禁の後始末は人任せか」

「文句はギーズに直接どうぞ」

「私に会えば何か言われると分かっているから、彼はあなたを寄越したんだろう。そちらがそうなら私にも考えがある」

 何をしようというのですか、と彼はデスクから立った私に向かって薄い笑みを浮かべながら問い掛けた。



 それから数年が過ぎて、病院を辞めて別の職に就いた私を出迎えたその人は私に向かって「やっぱり」という顔をしてみせた。そして私の肩を叩き、青い目を細めて告げた。

「期待しているよ、エムロード。あの黒猫も今や随分と少女らしくなったみたいじゃないか。お前さんならとてもいい“先生”になれる」

 私は私の緑色をした目で彼を見つめ、やがて溜め息をついた。知っている。彼はこういうひとで、私は敵わない。それに私もまた彼の思想に賛同した者の1人なのだから結局は彼の意向に逆らうことをしない。

「分かったよギーズ。私は私のやり方であの子達に“生きるための技能”を教えていく。これまでも、これからも」

 そうしてくれ、と笑ってその人はよれた白衣を翻しながら廊下の向こうへと消えていった。


 明日は入学式だ。

執筆日2015/08/15

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