解禁日-その前の季節-
桜が咲きました。そんな綺麗な言葉で始めたメールをどうやって締めたらいいものか分からなくなって、私は少しの間途方に暮れる。明日は外に出られる体調になっていればいい、と思いながら目を閉じると小さくドアを叩く音。ん?
「なーにー?」
「みずの、いる?」
「いーるよー」
そっとドアを開けて入ってくるのは小学校2年生になったばっかりの私の弟くんです。うむ、今日も可愛いぞ。
「わーい、いらっしゃーい」
「だいじょうぶ?」
「ん、何が? 頭? 頭はちょっとやばいよ!」
「いやそうじゃなくて」
お、いつもよりツッコミのキレがいい。腕を上げたな弟よ……近頃の小学生は侮れないぞ。
「みずの」
そうやって私を呼んで、弟は黙ってしまう。うーん、ごめんねぇ。
彼がもっと小さい頃はお互いに遠慮なんてなかった。私は10歳も年の離れた弟をまあひたすらに猫可愛がりして、つまりほとんど愛玩動物のように扱って、弟はそれでもきゃっきゃと笑って喜んでいた。玩具じゃないのよ、って母さんに叱られたっけ。
分かっている。この子は玩具なんかじゃなくて、でも人間として色々なことを理解して考えていくにはまだ幼くて、それを学んでいる途中。だから今、私に対してどう接したらいいか戸惑っているんだ。
玄関のチャイムが鳴って、誰か来たことを伝えてくる。おっと、弟よ出番だぜ。
ぱたぱたと足音を響かせて駆けていく小さな背中を見送って、私は今度こそ目を閉じた。
想像をしよう。
今はまだ私のそれより遥かに低い場所にあるその目がいつか私を見下ろす位置にまで高く上がって、そうしてその綺麗で優しい目で微笑んでくれることを。今はまだ私のそれよりずっとずっと小さくてぷにぷにとして力の弱い手がいつかもっとしっかり骨張って、そうしてそのしなやかで強い手が私の頭を撫でてくれることを。
……ん? 弟に頭を撫でてもらうって何か変かなー?
「瑞乃、にやけてる」
笑い混じりの声に目を開けてびっくりです。あっれ、なんで部屋にあなたがいるのかな? 疑問は多分放置していいものではなかったんだけど、結局私の口は全然違う言葉を紡ぐ。
「桜が咲きましたよ、先輩」
「うん、綺麗だねー」
「弟が生まれたときに、母方の祖父が植えてくれた桜なんです」
「記念樹か、いいね。そういえばさっき久しぶりに弟くんに会ったよ」
「あれ、あやつはどこへ?」
「“ぼくがいるとみずのがあねぶるから”って言って自分の部屋に行っちゃった。一緒にいていいよ、って言ったんだけどねー」
「おお……最近本当に口が立つようになりましたわー、あやつめ」
「頭の良さそうな子だね」
「不肖の姉とは出来が違いますぜ?」
ぽんぽんと行き交う言葉のやり取りに頬を緩める私を、あなたは穏やかで鋭い眼差しで見つめている。
「先輩、わざわざ来てもらったのにすみません。結局何にも用意できなかったんです」
こんなことならもう、2か月前から用意しておくんだった。あのですね、一応めぼしい物はリストアップしてあったんです。でもそのうちのどれにしようか迷って悩んで、ぎりぎりまで先延ばしにしていたのが悪いんです。リストアップしたメモ、どこかに置き忘れちゃった。
気にしないでよ、とあなたは笑って私の頭を撫でてくれる。せめてメールで先に伝えられたらプレゼントの代わりになったかもしれないのに、それも間に合わなかった。知ってる、あなたはすごく勘がいいから。
間に合わなくってしょげている私がいるって分かって来てくれたに違いないのだ。優しい先輩、優しすぎて損をしていそうな先輩。私みたいなのに捕まっちゃって、本当に損をしている先輩。
「もっといろいろなことができる女の子だったらよかったのに」
ああ、そんな弱音を口にしたらいけないのに。優しいあなたが少しだけ困って、「瑞乃は瑞乃のままがいいんだよー」って笑ってくれるのは知っているのに。そういうことを言いたいんじゃないのに。
あのね先輩。私は私のままで、もっと自由に、思いつく限りのことをあなたにしてあげたいの。私ばっかり優しくしてもらうなんて不公平でしょ? お返しはちゃんとしたいの。仕返ししたいの!
本当はもっと笑っていたいの。泣きたくなんて、ないのに。
* * *
「たけせんぱい、これ」
瑞乃の部屋を出てドアを閉めた僕に、小さな声が掛けられた。見ればそこにはきっとずっと僕が出てくるのを待っていたのだろう小さな男の子……彼女の弟がいて、僕に向かって何か紙を差し出している。
「何かな?」
「みずのから」
小さな手から受け取った水色のメモ用紙には、彼女の字でたくさんの品物の名前と売っている店と短いコメントが書き込まれていた。メモの一番上には“先輩の誕生日を何で祝うか考えるぞうおー”という謎の気合。それがタイトルなのかい、瑞乃。
「みずのがかいに行けないから、かわりにかってこようと思ったけど、おみせがわからないから、お母さんにきいたけど、おかねがないから」
たどたどしく説明してくれる弟くんは必死で、その様子を見ていると瑞乃が普段いかに彼に対して心を配っているのかが見て取れる。きっと彼女は弟の前で涙を見せたりしないのだろう。僕の前でたまに子どものように泣く彼女を見ると、そんなに我慢していなくていいんだよと言ってあげたくなる。苦しいときには素直にそう言ってもいいんだよ、って。きっと彼女の弟は、彼女の素直な思いに寄り添ってくれる。無理に隠していたらいずれ何か齟齬が生まれてくる。
「弟くん、大丈夫だよ」
君が頼りないわけじゃない。瑞乃がまだ強がれるだけの余力があるってことだから、それもそんなに悪いことじゃない。大丈夫。僕にも君にもそう言い聞かせる。大丈夫。
「これ、もらうね。もしよかったら瑞乃に伝えてくれるかな? 僕はこの中だったらこの“数式万華鏡”がいいな、って。横のコメントが最高だよ……“先輩は数学マニアだからきっとこれで見る世界にぞっこんでしょうなあ”……って。確かに数学は好きだけどさー、数字だらけの世界ってちょっとすごいよね」
「すうしきまんげきょう……?」
「君も興味ある? あのねー、足し算とか掛け算とか、もっと難しい式とかを書いた小さなチップが鏡を貼った筒の中に入っていてね。光の方に向いてその筒を覗くと、鏡に反射した数式がたっくさん見えるんだよ」
「式がたくさん……九九も?」
「九九もあるかもね。いんいちがー?」
「いち!」
「しちは?」
「しちは……しちはさんじゅうに!」
「お、すごい! もう七の段も分かるんだ」
僕が褒めると弟くんは少しだけ胸を張った。
その夜、瑞乃からメールが届いた。
“桜が咲きました。部屋の窓から見るのがとても綺麗なので先輩も見にきませんか。……なんてメールを送ろうと思っていたら先に先輩が来たので送れませんでした。台無しですよ!”
うん、ごめんねー。
“あと、せっかくの誕生日なのに泣いちゃってごめんなさい。そう、私は面倒な女なのよ! 彼氏の誕生日に彼氏を家に呼びつけて泣き言言って泣く女よ! どうせ!”
瑞乃、お酒とか飲んでないよね?
“それはまあ冗談として。私途中で寝ちゃいましたよね。ちゃんと言えたかどうか自信がないので改めて、誕生日おめでとうございます先輩。ついに10代最後の年ですね……来年はもう20歳なんですね。なんかおっとなー”
そっか、僕も来年は20歳か。実感ないなぁ。
“私も来年は18になります。今年は受験生です。先輩と一緒のキャンパスライフを目指して邁進します。だから数学教えてくださいね! では”
頑張れー。僕にできることなら何でもしよう。
“追伸:弟がベッドの横で九九の七の段を呪文のように唱えていて怖いんですけど、先輩何かしましたか?”
……それは多分僕のせいではないと思うよ?
* * *
「しちしちしじゅうく!」
「弟よ……すごいのは分かった。分かったからお経のように九九を唱えるのはやめておくんなまし」
「しちはごじゅうろく!」
「ああこれはきっと夢の中まで九九がリフレイン……」
「しちくろくじゅうさん!!」
「では弟よ、7掛ける12は?」
「えっ」
ごめん弟よ、姉はもう寝るのだ。小学2年相手に大人げないことをした姉を許せ……。
あと、先輩にメモ渡してくれてありがとう。恥ずかしいけど、まあいいや。外に出られるようになったら例の万華鏡を買いに行こうね。勿論君の分も買ってあげよう、弟よ。
執筆日2015/04/26