第八話 「鈴と小鈴」
真理先生がやってきたのは、夏の真っ盛りだった。
今回の優子お姉ちゃんの実習期間は一ヶ月間。もうすぐお姉ちゃんは一人暮らしのマンションに帰ってしまう。
最近は毎晩遅くまで病院にいて、家に帰っても夕食もそこそこに実習レポートのまとめに必死になっている。
「ニャー」
「鈴? 優子お姉ちゃんの部屋に入りたいの?」
「ニャー、ニャー」
「お姉ちゃんすごく忙しそうだけどね、聞いてみる?」
「ニャ!」
「優子お姉ちゃん、鈴入れていい?」
「よかったら、小鈴も連れてきて~。なんか煮詰まっちゃって、鈴たちと遊ぼうと思ってたところだったの」
優子お姉ちゃんは部屋から出てきて、鈴を抱きかかえて小鈴を探しに出かけた。
「やっぱり、覚えてるものなんだね」
釣竿の先にねずみのついたおもちゃで二匹と遊んでいるお姉ちゃんを見ていると、拾ってきて一番世話をしてきた優子のことを鈴と小鈴はよく覚えているんだな、と思うのだった。
「今日は五年間で一番古い年度の過去問を解いてみようか」
真理先生の提案に異論はない。一科目五十分。だいたい四時間半ぐらいかかることになる。
「どの科目から始まるかはわからないから、とりあえず並んでいる順番で解いていきましょう」
科目は、国語、数学、英語、理科、社会と並んでいたため、その順で解くこととした。
「一科目五十分、正確にいくからね。用意……はい!」
それから五科目、およそ十分の休憩を挟み、すべての過去問を解いた。
「お疲れ様でした。答え合わせは、ちょっと休憩したあとにしましょう」
「真理先生、ご飯いかがですか」お母さんだ。
「美咲ちゃん、ご飯食べよう」
今日の夕食は鮭のムニエルとジャーマンポテト、コンソメスープだった。
「いただきます」
今日もお母さんと私と真理先生の三人の夕食。お父さんと優子お姉ちゃんはまだ帰宅していないようだ。
「お姉ちゃん、明後日実習終わるんだって」
「え、ってことはもう帰っちゃうってこと?」
「そうね。だって大学はここからよりマンションの方が近いし」
「優子お姉ちゃんにまたしばらく会えなくなっちゃうのか……寂しいな」
「きっと、一番寂しがるのは鈴と小鈴よ。優子が帰ってきた時すごく嬉しそうだったし、いなくなったらまた寂しがるのかしら」
確かに、私や母にも鈴と小鈴は懐いているが、やはり優子とは懐き方が違う。
「そしてお父さんね。この一ヶ月間、すごく嬉しそうだったから」
「私も、家を出たら両親が寂しがるんでしょうか……」
「もちろんよ。真理先生みたいな可愛い子が家を出たらご両親は寂しいうえに、心配で仕方ないでしょう」
真理先生ははにかんでいた。
夕食後、答え合わせを行う。
「国語、英語はかなりいい点取れてるね。手応えはあった?」
「高校入試の頃に解いていた問題を少し難しくしたような問題で、何とか解けました」
「社会は文句無し! さすが学校から推薦されるだけだわ」
「はい」
「とりあえず、数学と理科ね。特に数学。理科は化学かしら」
「うっ……」
「大丈夫。冬の試験本番までに点が取れるようにすればいいのよ。ところで、社会とか、数学、理科の手応えはどうだった?」
「社会は、歴史、地理も含んでいたので、覚えておかないといけないものはちょっと苦労しました。
数学は、高校入試で本当に苦労して、中学三年の内容もあまり理解できていないです。今回も、図形や関数はほとんど手が出ませんでした。理科は、今学習している化学の範囲がやはり難しかったです。
その他は高校入試の頃の勉強で解いていた問題を思い出して解けました」
「やっぱり、数学と今学習している範囲の化学ね。わかったわ。
これからは、過去問を解きながら、特に数学と化学の演習を中心にやって行きましょう。夏休みの宿題もあるでしょうから、夏休みは週三で、休みが明けたら週四で私は来ます。演習内容は私が探してきますから、心配しないで。
ゆっくりやって、しっかり力をつけていきましょう」
真理先生は今回の宿題として、今日間違えた問題の復習を出して帰って行った。方式は学校でやっている方法と同じだ。
三日後、ずいぶん早い時間に優子お姉ちゃんが帰ってきた。
「ただいま! やっと実習終わった! あー! 疲れた!」
「お帰り、お疲れ様」
「あとはレポート仕上げなきゃね」
「今日は何が食べたい? 好きなものを作るわよ」
「んー、じゃあ、ハンバーグ!」
「わかったわ、美咲、優子、留守番よろしくね」
「もうすぐ真理先生来るんだけど」
「じゃあ、とりあえず鍵はかけとくから、真理先生とお父さん以外は入れちゃダメよ。あ、渉くんがくるんなら別だけど」
「渉は来ないよ、大会前ですごく練習忙しいみたいだし」
「いってらっしゃーい」
お母さんが買い物に出ている間に、真理先生がやってきた。
「おじゃまいたします」
「真理ー、やっと実習終わったー!」
「お疲れさま! どんなだった?」
「それがさー」
真理先生は姉と話し込んでしまった。私はタイミングを見計らって自室に戻った。
ふと携帯をみると、渉からメールが届いていた。
「優子お姉ちゃん帰っちゃうんだろ? 久しぶりに、優子お姉ちゃんとも遊びたいな」
メールの返信をする。
「今、家庭教師の先生が来てるから、それからだったら人がいっぱいいて楽しいかもよ」
「ああ、美咲のお母さんから聞いてる。御勢学園大学の学生の先生なんだよな。俺も、混ざっていいのか?」
「渉のことは知ってもらっておいた方がこれから先いいと思うし、おいでよ」
「おう、夕方ごろおじゃまさせてもらうよ」
「伝えておくね」
帰宅したお母さんに、渉が来ることも伝える。
「だろうと思ったわ。大量に材料を買っておいて正解ね。あとはお父さんが早く帰ってきてくれるともっといいんだけど」
話が終わった真理先生がやってきて、今日の授業が始まる。
「先週の宿題、きちんとやったみたいね。学校の宿題もあるのに、よくやってるわ。今日は、数学の問題を持ってきたから、今日は数学の演習をしましょう」
問題は、苦手な数学の証明問題だった。
「どの科目もね、書いていない答案には点数があげられないの。つまり、何か書けば、点数になる可能性がある。その可能性が大きいのが、数学の証明とかの問題とか、国語や社会の記述問題ね。満点の丸狙いじゃなくて、三角で部分点をもらうことを狙う。その代わり、取れる問題は絶対に落とさないことが大切だけどね」
「この問題は、中学二年の問題。この問題ぐらいから復習することで、コツをつかんで、点を取れるようにするの。数学はそれで行く」
「はい」
悪戦苦闘しながら、ようやくコツを掴みかけてきた頃、「真理先生、休憩なさってはいかがですか?」とお母さんの声がした。
「美咲、渉くん来てるよ」
「はーい」
夕食はこれまでにない豪華な顔ぶれになった。
お父さん、お母さん、優子お姉ちゃん、真理先生、渉、私に鈴と小鈴。鈴と小鈴にはおいしそうなゆでささみが与えられている。
「いただきます」
「いや、もう優子は帰るのか」
「うちから大学って遠いからね」
「寂しくなるな……美咲も最近ずっと部屋にいるし」
「仕方ないでしょ、冬が勝負なんだから」
鈴と小鈴は食事が終わり、毛づくろいをしている。
「またちょくちょく、顔見せに来いよ」
「優子お姉ちゃんと会えるの、楽しみにしてます」
「うん、美咲のことはお父さんとお母さんと、渉と真理に今は任せてるから」
「……ありがとうございます」
渉は気を使って早めに帰って行った。真理先生は「いい彼氏ね」と冷やかした。
今日の宿題は数学の演習。次回は化学の問題演習をするそうだ。
翌日、「じゃあね、美咲、渉によろしく伝えておいてね」と言い残し、優子お姉ちゃんは自分のマンションに帰って行った。借りっぱなしだったタブレットはもののみごとに回収されていた。
鈴と小鈴も玄関先できちんと見送った。
それから、私は夏休みの宿題と真理先生からの宿題、それでほぼ一日が過ぎて行った。
いつの間にか、季節は我慢のできない暑さから、涼しい風が吹く秋になり、二学期が始まった。
二学期になると、真理先生が来る頻度が増え、過去問が宿題、という日も出てきた。
もちろん一日一科目だけだが、同時に父からの面接対策も始まった。
「夏休みの間は、ものすごい忙しそうだったから、二学期になるまで待っていた。さあ、面接対策もやるぞ」
「今も、結構忙しいけど…」
「面接で基本的かつ大事なのは、入ってからのお辞儀と出て行く時のお辞儀だ。これでほぼ決まると言われている。そして、きちんと話す相手の目を見ること」
「そして、お前の場合は、「世の中をどう考えているか?」の答えを自分なりに持っておけ」
「世の中をどう感じているか?」
「特に歴史とかは、覚えた年号や人物はそれは事実だが、あくまで記号だ」
「記号……?」
「今言いたいことは、例えていうならば、バブル経済を自分としてどう考えているか、ということを自分なりに考えておくことが大事だ。もちろん、それに正解はない。言ってしまえば、自分が考えていることが正解だ。だから、社会科では自分の考え方を持つことが大事なんだ。知識の上に自分の考えを持つ。それが社会科で売り込みをかけようとするお前には大切な考え方なんだ」
「そうか……」
目から鱗が落ちる感じがした。
週四回の真理先生の授業、週末の父親の面接特訓、そして普通の学校生活……
「美咲、最近疲れてない? 大丈夫?」陽子が心配そうに見つめる。
「ちょっとね……」
「あんた、無理効かない身体なんだから、ほんとに無理しちゃだめだよ」
「うん、それは気をつけてるよ、ありがとう」
確かに、私は疲れていたが、目標までもう少し、と思うと力が出てきた。
そして、衣替えも終わり、ようやく御勢学園大学教育学部附属高等学校のホームページに転入試験の詳細が掲載された。
十二月十五日(土)。合格発表は十日後の十二月二十五日(火)。ここに目標を定めて、私はラストスパートをかけ始めた。
そうして、とうとう、十二月がやってきた……。