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桜小路茶話  作者: 望月 明依子
第四章 「華」
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番外編その二「音色」



大学生になった俺は、高校とは違った顔ぶれの中で、毎日を精一杯過ごしていた。

ただ、そばにはいつも匠がいてくれた。それは、俺が望んだことであり、きっと匠も望んだこと……なのだろう。

そして、市川さくらとも再会した。俺は思い出すことができたが、市川の方は忘れていたらしい。

とはいえ、学部生みんなで過ごす時間の長いこの学部の中で、俺と市川との関係もいい方向へと向かっていった。


高校の時に想像していた教育学部とは違い、課題やレポートで追われる日々。

それでも、書道の練習はやめなかった。梅田先生はもういないが、一番最初に俺に書道を教えてくれた仲川先生の元に基盤を戻し、練習を続け、作品を出していた。

やはり継続的に色々な作品展に出品していることが良いようで、大概の作品で入選することができていた。

いい時には第三席、第二席という上位に食い込むことができるようになっていた。


特に何かサークルには所属しなかったが、一年と二年の時は匠に誘われ、学校内で行われる第九の演奏会のコーラス練習に参加したりもした。

俺は、匠のピアノの音色が好きだった。

簡単なものから、とんでもなく難しいものまでさらりと弾きこなせてしまう。

それでいて、優しい音色。

俺は、それに憧れ、少しでもそれに近づけるように頑張った……つもりだった。


「智也は、ピアノがな……」

「他は何でもできるのにね」

「黒板の字なんて、とんでもなく綺麗だもんな。もったいないくらいだよな」

「さすが、生まれて一番に筆を持ったっていう智也らしいな」

大学に入って、大きな壁としてぶつかったのがピアノの実習だった。

小学校の教員採用試験にはピアノの実技が必ず課される。それゆえ、その授業も必修になる。

右手と左手を同時に動かすというのがいかに難しいか、嫌という程思い知った。

俺は単位を取るために、匠をはじめ市川などの同級生に頼み込み、特訓を繰り返した。

家でも練習したかったが、家にはピアノがない。学校の音楽室で練習したり、ピアノがある匠の家で練習させてもらうのが精一杯だ。

ようやく課題曲が演奏できるようになったと思ったが、いざ、一人きりで鍵盤を前にすると、手が止まってしまう。

いろいろな人に練習をつけてもらっていたときは、ちゃんと手が動いていたのに。

悔しかった。自分がこんなに「できない」ということに。


追試を経て、ようやくピアノ実技の単位が取れた。

これほど苦労した授業は、大学に入って初めてだった。

「ピアノお疲れー。智也がここまでピアノに苦戦するなんて思ってなかった」

「自分でもここまでかかると思ってなかった」

「まあ、すごいきれいな字だし、なんでも出来すぎるのもずるいよね」

話しているのは俺と匠の彼女、市川さくらだ。

もちろん、彼女と言っても形式的なものでしかない、とその時に本人から言われた。

「私は、二人を見守るために、二人の形式的な彼女ってことになる。だから、都合がいいときに私を彼女にしていいからね」

俺らの関係はこの子には筒抜けらしい。まあ、「彼女いないの?」とか聞かれる時に「いる」と答えることができるということか。

結局、この関係は市川に新しい彼氏、いわゆる今の旦那になる人ができるまで続くこととなった。


彼女は自分のやりたいことをとにかくやってみるという子だった。

クリスマスパーティーをやると言っていつの間にか仲良くなっていた中村さんを招待したと思ったら、スーツと女子高生の制服姿で揃って俺らの学生控え室に現れたときには度肝を抜かれた。もちろん、女子高生姿の方が市川だ。中村さんはアルバイト帰りでスーツ姿だったのだそうだが、そんな格好した市川と並んだら完全にコスプレだ。

とにかく、市川には色々と助けてもらったがその分振り回された、そんな印象だ。



俺らが二十歳になったとき、匠が俺にくれたものがあった。

高校三年のあの時と同じ、白い箱。

やはり中には携帯電話が入っていた。

「ずいぶんあのプリケーも古くなっただろ?」

「ああ、メールがメインだしな」

「だからと思って、一番安いやつを二台、俺名義で契約した。通話もメールも無制限だ」

「あの……」

「ああ、みさみさの方法だ。自分で契約できるようになるまでずっと待ってた。これで、いつでも、いつまでも話せる」

「俺、もらっていいのか、これ?」

「俺からのプレゼントだ」

「ありがとうな。前のも嬉しかったけど、これもすっごく嬉しい」

「喜んでもらえたら何よりだよ」

これで、俺らの距離がまた少し縮まった。

とはいえ、毎日、朝から夜遅くまで学校で顔を合わせている。でも、大学生の今だからこんなに顔を合わせていられるのだ。

来年、教員採用試験を受けて、その結果がどうあれ、卒業したら、俺たちはどうなるんだろう……?



大学四年の夏。俺も匠も、教員採用試験に挑んでいた。

大学も、実習も、試験も俺らはずっと一緒だった。

大学内で開催された採用試験対策セミナーにも参加し、教育法規や教育史などの勉強も受験するみんなで続けてきた。

だが、ピアノ実技が課せれる二次試験にも届くことなく、俺らは敗れ去った。

そこには市川の姿はなかった。すでにこの時には彼女は俺らの同級生だった大木と結婚し、家に入ることを決めていたからだ。

「記念受験なんてしないよ、それなら大木の家の仕事のことを勉強したり、卒論を執筆する方が有用だもん」

合理的というか、なら何でこの学部にきたのかと色々言われそうだが、そういう雑音にも惑わされそうにないのが彼女らしい。

合格発表の後、俺はこれまでの方針を正式に変えることにした。もしかしたら少し遅かったかもしれない。

ここまでピアノが苦手だと、小学校の先生になるのは厳しい。来年も試験を受け、仮に一次試験を突破しても、次のピアノ実技でつまづくのは目に見えている。

それなら、方針を変え、梅田先生のような、書道の作品についても国語についても指導できるような国語科の教師を目指そう。少し遠回りにはなるが、大学院でも教育実習はできるはずだ。

俺はギリギリ間に合った御勢の大学院の教育学研究科への出願をし、さらなる猛勉強を始めた。

匠は公立の学校の講師として小学校の先生を目指すのだそうだ。

俺と匠の、道が少し別れはじめた。


大学院の合格発表前日。

「智也は教採の後も勉強し続けてたもんな、絶対大丈夫だって」

「でも、本当にギリギリから始めたから、自信ない……」

「本当なら一緒についていって合格発表を見届けてあげたいんだけど、先約があってさ。後から絶対合流するから、発表時間ごろに掲示板のところにいてくれ」

「もし、落ちてたら……?」

「それはない。俺が、保障する。俺の顔を見るまで、掲示板の前を動くなよ」

「先約って何?」

「桜小路会で召集がかけられちゃって。みさみさの合格発表をみんなで見届けようって」

そうか、中村さんも大学院進学組か。

「その話があるまでは智也と一緒に合格発表見に行くつもりだったけどな……」

「俺を、優先してくれなかったのか?」

「済まない……本当に済まない……」

「いや、こっちこそごめん……俺、明日匠の顔見るまで、待ってるから」

「ありがとうな。俺は、絶対大丈夫だって信じてる」

俺と匠があまりにも一緒にいるからか、確かに俺らが2人だけで一緒にいると変な目で見られることも出てきた。

それについて一番困っているのは匠だった。

「親とか、昔の友達にだけはこの嗜好はばれたくない」が匠の口癖だ。

「でも、中村さんは知ってるんだろ?」

「みさみさは別だ。市川とみさみさだけにはばれても平気なんだけどな……」

高校生の時に匠にああいう話をされてから、俺はずっと匠を見つめていた。しかし、それ以前は女の子を好きだったのだ。

俺もこの嗜好は他人にあまり知られたいものではない。でも……なんだか、整理のつかない感情だ。


翌日。

緊張しながら合格発表の掲示板の前に立つ。

そこに自分の番号があることは確認済みだ。

本当に、本当に約束通りに匠が現れてくれるのか……そちらの方が心配だった。

その時。

大騒ぎしながら人の群れが現れた、と思ったらそこにいたのは中村さんたちだった。

匠は? と思った瞬間。

「智也、あっただろ、自分の番号」

すぐ横に匠が立っていた。

「遅くなってごめんな。でも、約束通りここに来た」

「すごく、不安でしょうがなかった……」

「ごめんな、ごめん……。今日の晩飯、合格祝いってことで、一緒に食べようぜ」

「今からは……?」

「桜小路会で押さえられてる。済まない。終わったら、連絡するから」

「分かった」

今日ほど桜小路会というものの存在に嫉妬した日はなかった。


その日の夕方。

俺らは居酒屋で合格の祝杯をあげていた。

「合格おめでとう、智也」

「ありがとうな、匠」

「来年からは、別々の道になっちまうな」

「でも、俺はこのままだといつまでも前に進めないと思ったんだ。本当は、小学校で書道を教えてみたかったんだけどな」

「書道を教えるんだったら、なおさら中学とか高校の方が向いてるんじゃないか? 専門性が上がるし、智也の積み重ねてきたことが活かせるのはそっちの方な気がするけどな、俺は」

「専門的なことだったら、芸術系の大学出の方が強いんじゃないのか? そう思って俺はこっちの道にきたんだけどな」

「智也くらい長いこと書道続けてて、さらにこれからも続けるんだろ? もう他の芸術大卒に引けを取らないと思うけどな」

「匠だって、ピアノ弾けるじゃないか」

「もう中学卒業の段階で辞めたから、ずいぶん腕も落ちているはずだ」

「俺はピアノが弾けなかった、それでこの道を断念した」

「でも、智也にはきれいな字がある。そっちを活かしていくんだろう?」

「まあ、そうだが……」

「俺たちがもう二度と会えなくなるわけじゃないんだ。ただ少し、やることが違うだけで。俺も社会人になるんだし、もうしばらくしたら一人暮らししようと思ってる。その時には、ルームシェアしようぜ」

「要は、一緒に住む……」

「……まあ、そういうことだな」

「分かった、俺もそれを目指して頑張るよ。まあ、俺は進学の条件として実家から通えって親に言われたんだけどな」

「だったら、立派な先生になって、大手を振って一人暮らしすればいい」

こうして、俺の目標が、一つ増えた。



こんな俺でも、大学を卒業すれば小学校の先生の免許状が与えられる。

とはいえ、それと実際に先生になるのとは今の時代全く別物だ。

匠は公立小学校の講師になり、俺は教育学研究科に進学、そして市川は結婚して遠くへ行ってしまった。


そんな市川から結婚式の招待状が届いた。市川の旦那で俺らの友人でもある大木の実家はここからかなり遠い。

「二人とも、進路が別々なんでしょ? 卒業旅行ついでに、是非お越しください」と添え書きがついていた。

俺らはその言葉に甘えて、卒業旅行を兼ねて市川たちの結婚式に参加することにした。

もちろん俺と匠だけでなく、俺らの同級生も招待されている。この前、即席ではあったが中村さんたち、二人とも中村さんだったからややこしいのだが、二人のための第九アンサンブルを手伝ってくれた高月さんも招待されているようだ。

ただ時期が時期、新社会人になる人間たちはその準備で色々と忙しいはずだ。もしかしたら、市川たちの結婚式、招待しても俺たち同級生は参加できる人間は少ないのかもしれない。


思った通り、市川と大木の結婚式にいた俺らの同級生は、数える程しかいなかった。

大木の親族と市川の親族の中に俺らが数人ポツンといるくらいで、ちょっと居心地が悪い気がした。

会場を見ていたが、高月さんの姿を見つけることはできなかった。彼女はうちの附属幼稚園に行くと言っていた。きっと年度末の今、新生活の準備で精一杯なのだろう。

それでも、白無垢姿とドレス姿の市川は綺麗だった。形だけではあるが元カノだ。別にもう彼女に何の感情もないが。

市川と大木に幸せあれ、そう心から願った。

市川と大木、俺と匠の四人で写真を撮ることができたのが一番のいい思い出だ。市川本人もデジカメを覗き込みながらその画像が気に入ったようで、「なんかすごい! これ、できたらちょうだいね!」と声を上げて喜んでいた。



二人の結婚式が終わった後、俺らは卒業旅行だということで、その辺りを観光して帰ることにした。

俺は大学に残るが、匠は社会人になる。こうして二人で毎日顔を合わせる時間ももうない。

大学時代の思い出、実習の話……ぶらぶらと会場周辺を歩きながら、二人での話は尽きることはない。

ふとその時。俺の足が一軒の店の前で止まった。俺の目に入ったのは、小さな鍵のモチーフの時計。

「これ、なんかよくないか?」

「この鍵みたいな時計か? 見てみようぜ」

「いや、俺が行く。いつも匠に色々もらってばっかりだったし、今回は俺にプレゼントさせてくれ」

強引に俺は匠をおいて店の中に入って行った。

「いらっしゃいませ」

「あの、鍵みたいな時計って、同じのがまだありますか?」

うまい言葉を選べなくて、頭に浮かんだ言葉をとりあえず店員さんにぶつけてみる。

「ああ、これですね。ありますよ。これ、カップルの方に人気で、男性でもさりげなく持てるってことで人気なんです。よろしかったら、お手にとってご覧になられますか?」

「お願いします」

実際に手にとってみると思って見たより重みがある。鍵のモチーフが金属製なのと、時計の機構部分が入っているからだろうか。

「あの、これ二つお願いします」

「分かりました、お待ちくださいね」

店員さんはもう一つ同じものを持ってきて、「ラッピングはどうなさいますか?」と数種類の見本を見せながら尋ねてきた。

一番シンプルなラッピングを選び、支払いを済ませて品物を受け取る。

「ありがとうございました。二人の恋がうまくいくことを願っています」


店を出たら、少し開けた場所に移動し、俺はその片方を匠に渡した。

「いつも、いつもプレゼントってもらってばかりだから……今回は、俺からのプレゼント」

「あの、鍵みたいな時計か? 開けてもいいか?」

「ああ」

匠はその箱を大切そうに開く。

「思っていたより、これ、重いんだな」

「そうなんだ。でも、これ、男性でもさりげなく持てるってことで人気だって、さっきの店員さんが言ってた」

「鍵、だな」

「鍵……」

「いつか本物の同じ鍵が持てる日まで、俺たち、この鍵を一緒に持っていようぜ。約束だ」

「なんだか、恥ずかしいな」

「でも、智也が大学院を出て、社会人になるまであっという間だぞ。俺も、それまでに一人暮らしできるように頑張る」

「匠……」

「何だ?」

「匠が、他の女の人と結婚するとかっていうことは、ないのか?」

「……難しい話だな。中学から高校の頃の市川の件もあったし、やっぱり家族にはこの嗜好はばれたくないから、いつかはそうなるのかもしれない。でも、ちゃんと社会人になったら、智也と一緒に暮らす。それはここで、宣言する。そういう智也はどうなんだよ」

「……俺にとっても難しい話だ。他から見合いとかの話を持ち込まれたりしたら、俺は断れない気がする。でも、俺も、社会人になったら、匠と一緒に住みたい」

「お互い、終わりが来るかもしれない話なんだな……」

箱の中の鍵が、急にずしりと重くなった気がした。

「この国の法律は、俺らが生きてるうちには変わりそうにないしな」

「でも、それでも、俺は一日でも長く、匠と一緒にいたい」

「俺もだ。俺も、1日でも長く、智也と一緒にいたいよ」

そこにある風景と、二つの鍵の時計だけが、二人をずっと見つめ続けていた。



四月。

俺は予定通り御勢学園大学大学院の教育学研究科に入学した。

目標はこれまで通り自分の書を極めていくことと、高校の国語科の教員免許を取ること。

今まで四年間でやってきたことを二年間でやらなければならないし、修士論文や修了制作も行わなくてはならない。

大学時代よりも毎日が忙しくなった。

匠も予定通り公立の小学校の講師となり、やはり忙しくなったようだ。

会うこともできず、電話をする時間も取れないときはあの鍵の時計を見つめる。

きっと、匠もあの鍵の時計を持っていてくれるはずだから。



そして、再び教育実習の時期がやってきた。今度は、自分の母校、附属高等学校での実習だ。

事前の打ち合わせにより、梅田先生が俺の実習担当教官になっていただけるということだった。その点は安心した。

そうだ。俺は梅田先生みたいな先生を目指そうと思ったんだ。もちろん、梅田先生のように今すぐなれるなんて思ってはいない。小学校や中学校の実習で嫌という程思い知った。

俺は、俺のペースで、俺の教えられることを精一杯指導できる教師を目指す。

二週間、それを心に留めて俺は実習をさせてもらった。


もちろん、普通の時でも、実習中でも、どんなに忙しくても毎日の書の練習は欠かさなかった。

これを欠かすと、自分が自分じゃなくなる気がした。どんなに遅く帰ってきても、寝る間を惜しんで筆をとった。


いろいろなものを犠牲にしながら頑張っている時、仲川先生が俺にくれたものがあった。

「安藤くんももうずいぶんといろいろな作品を作っている。本当ならもっと早くにあげてもよかったのだが……」と言い、奥から取り出してきたのは落款だった。

「私なりに考えたものだからちょっと恥ずかしいのだけどね。藤川匠哉ふじかわしょうやという雅号なんてどうだろうか。この落款も、私が作ったものなのだけどね」

「ありがとうございます!」

仲川先生がつける雅号には「川」の字と「哉」の字が代々入ることは知っていた。それに、俺の苗字と匠の名前が入っているとは……毎日の疲れが吹き飛んだ気分だった。

落款にも「匠哉」の二文字が入っている。もう、この落款そのものがいろいろな意味で宝物だ。

それから、俺は作品展などでは仲川先生からもらった雅号と落款を使うことにしている。それだけで、匠が「よくできてるよ」と褒めてくれている気がする。



大学院二年になり、進路を考える時期になった。

実習期間が過ぎると練習時間以外に少しずつ余裕ができ、匠と電話で話す時間も長くなってきた。

やはり当初の目標通り、高校の国語科の教員になりたい。梅田先生のように、現代文や古典の指導だけでなく、俺のような書道に打ち込んでいる子にもアドバイスできたらと思う。 そう考えると、やはり母校の御勢の附属高校みたいなところが向いているのだろうか……?

これ以上大学に残る気はない。匠との約束だ。ちゃんと社会人になって、大手を振って一人暮らしを始めるのだ。

俺はやはり御勢の附属高校の国語科の教員になると心に決め、履歴書を送った。


そして相変わらず練習と試験対策に励んでいたある日。

懐かしい声から電話があった。梅田先生だ。

「安藤くん、うちの国語科に応募してくれたんでしょ?」

「はい、そうですけど」

「安藤くんなら大歓迎よ! もちろん、試験は受けてもらうけどね。来年、書道を専門にする中三の子がうちを志願するって噂でね、それならうちもその子を迎える用意をしないといけないと思ったの。安藤くんなら、きっと今までの経験と知識で、うちの一員となってくれると思うわ。試験の日、待ってるからね」

思いもよらない電話だった。いわゆる「お祈り」の方かと思ったら全く逆だったとは。

それなら、試験対策にももっと時間割かないとな……。



試験がなんとか終わり、合格発表を待つまでの間。

俺は緊張のあまり筆を持っても全く何も出来ない日々が続いた。

慣れ親しんだはずの筆と紙なのに、手が全く動いてくれない。

俺は仲川先生のところに行くのも少しだけ休ませてくれと申し出た。

仲川先生も俺の性格をよく知っている。そして、俺がまた動くことができるのも知っている。

先生は「休むのも練習の一つだよ。ちゃんと休んで、また練習したくなったらおいで」と言ってくれた。

そして、その間に俺は匠とよく話した。

匠は、俺のなんでもないような話にも、真剣に耳を傾けてくれた。

この時期、俺の救いになったのは他でもない匠の存在だった。

練習にも手がつかず、修士論文も進められないという燃え尽きてしまったような時期は、俺の自宅に御勢の附属高校の採用通知が届くまで続いた。

俺はそれを手にして、真っ先に電話したのは匠だった。もちろん、昼間だったので電話に出ることはできない。ただ、このことを一番最初に伝えたかったのは匠にだった。

留守番電話のガイダンスの後に、メッセージを吹き込む。

「俺、智也だ。今日、御勢の附属高校から採用通知をいただきました。今まで励ましてくれて、本当にありがとうな」

まだ何か続けようとしたが、そこで録音終了のガイダンスが流れる。仕方ない、あとは夜また話そう。

ほっとしたところで、俺はまた筆を取る気が起きた。仲川先生にも連絡を入れ、今から練習に行ってもいいか聞く。

「ああ、いつきてもいいように準備はしているよ。いつでもおいで」

俺はその足で、仲川先生のところに練習に向かった。



匠に詳しいことを話すことができたのは、結局俺が練習から帰ってきてからだった。

「おめでとう、智也。これで大手を振って一人暮らしできるな」

「ああ、社会人だしな。でも、ここから御勢の附属高校だったら、実家から通えとか言われそうだな」

「智也も男だろ。一人暮らしの一つや二つ、経験しとくのも悪くないって説得してみろ」

「そうだな」

「実は、俺も来年そっちに戻ってくることになってるんだ。智也の話が決まるまで秘密にしてたんだけどさ」

「へ? どういうことだよ?」

「御勢の附属小で、ティーム・ティーチングを積極的にやっていくってことで、まずは社会科に算数科、音楽科と英語科に重点を置くことにしたらしい。そしたら俺のところにも声がかかった。俺は主に社会科をいろいろとやってきたんだけど、その上で音楽科の指導もできるってところに目をつけたんだそうだ。なんか、そんなに俺がすごいのかって気もするんだけどな」

「すごいんだな、匠……」

「まあ、俺が第九のパート練習で伴奏してたのが伝わったっていうのもあるらしい。たぶん、附属小の中に第九関係者がいるんだろうな」

「どちらにしろ、すごいよ、匠」

「本業というか、専門でやってるところでも評価して欲しいっていうのが本音なんだがな。とはいえ、俺は来年から正式採用で御勢の附属小に戻ってくる。これで、俺も晴れて社会人だ」

「てことは……」

「俺らの夢、叶えられるぞ」

そうか、あれからだいたい一年半……。短いといえば短いが、長いといえば長い時間。

俺らの夢が、とうとう実現する。



それからは修士論文の執筆に修了制作と、しばらく休んでいた分フルに活動した。

附属高校に挨拶に行った時、梅田先生からは「おめでとう、そしてお帰りなさい」と歓迎された。

俺らは二人の休みを調整しながら物件の下調べをし、条件に合うような場所を探していた。

匠は家で楽器が練習できることを希望していた。俺は自分の練習室用に、少し広めの部屋が欲しかった。

そういった条件を探していくと、必然的に家賃が上がる。やはり二人で家賃を出し合うルームシェアという形に落ち着いた。

二人居住可であることも確認し、保証会社を立ててお互いの家族にばれないように気をつけながら契約を進めていった。

入居日は俺の修了式の翌々日。その頃には匠の小学校の卒業式も終わっているはずである。

新生活に向けて、胸が弾む。



そして、とうとう入居日が来た。

匠の荷物で一番大きなものは電子ピアノだった。

「家で練習するのはこれでいいかなって。もちろん、学校にあるグランドピアノとは感覚が違うんだけどな。俺、このために貯金かなり使い果たしちまった」

「これから、大丈夫か……?」

「さすがにこれからの生活に困るほどは使ってないよ。もちろん、学校でも練習するし、学校外で本当のピアノで練習しなきゃいけなくなったら、実家で練習だな」

俺の荷物は大きなものはそれほど多くはないが、やはり量が多くなった。

隣の和室を見ながら俺は言う。

「この部屋、俺の練習部屋にしてもいいのか?」

「元々その予定だろ。やっぱり、いい作品には集中力が大事だって言うじゃないか」

「ありがとうな、匠。匠にも練習室、いるんじゃなかったのか?」

「俺はみんなの前でピアノを弾いて歌わないといけない仕事だ。まあ、それだけじゃないんだがな。俺のことは気にしなくていいぞ」

「俺、匠のピアノの音色、好きだ」

「そうストレートに言われると恥ずかしいな。ちなみにどんなところがいいんだ?」

「優しさがあるっていうか……うーん、難しいんだけどさ」

「そうか、でもそう言ってもらえると嬉しい。ありがとうな、智也」

「あ、鍵」

「はい、これが智也の分な」

二人で今度こそ本物の、同じ鍵を持つ。俺らがあの日夢見たことが、今こうして現実となった。

「あの鍵の時計、まだ持ってるか?」

「当たり前だろ」

匠は胸ポケットから鍵の時計を出してきた。きちんと時を刻んでいる。

「俺も」

俺もポケットに入れていた鍵の時計を取り出した。いつも匠をそばに感じて持っていた鍵の時計。

「やっと、夢が叶ったな」

「ああ、感激だ」

この日々がいつまで続くかは、俺も匠もわからない。でも、この部屋で、匠の音色を聞きながら、できるだけ穏やかな日々を過ごすことができれば。そう願うのみだ。




数ヶ月後。

ようやく、やっと高校教師としての生活にも慣れてきた頃。

「優かー、え、みさみさが? ……で、やっぱり俺に話が来るわけだ。わかった、俺からみんなに話はしておくよ。その話は聞くな」

優……確か、高校の同級生だ。匠と同じ桜小路会の一員で、一時期現在同僚かつ同級生の同じく桜小路会の福田先生と付き合っていたはずだ。で、その話ってなんだ?

「中村さんがどうしたんだ?」

「結婚するんだってさ」

「で、最後にその話は聞くなって……何なんだ?」

「優……戸塚は既婚者だから、奥さんが結構束縛がきついんだと。で、お前はどうなんだって」

「その話は聞くなって……どういう意味だ?」

「言葉通りだが……俺は今は女には束縛されてないからな」

「俺が……」

「俺は束縛されているとは思ってないぞ。俺らは、毎日お互い助け合いながら過ごしている。束縛だなんて感じたことはないな」

「そうか。てっきり、俺が重荷になっているのかと思って……」

「そういうことはない。今、俺がはっきり言った」

俺が匠にとって重荷になっているんじゃないかと内心思っていた。

「俺は、今の関係が重荷だと思ったら、きっぱり言う。でも、今のこの関係は、全く重荷でないどころか、心地がいい。智也はどうなんだ? 重荷なのか?」

「そんなわけない、俺も重荷だと感じたら、きっと何も書けなくなってるし、仕事にも行けなくなってる」

「じゃあ、いいじゃないか。お互い納得して、助け合って生活してるんだ。これからも、お互い助け合って、一緒に生きていこう」

「ああ」

ちょっとしたことにイライラしてしまった自分に反省しながら、匠が自分との関係を重荷に思っていないことに、心地がいいと思ってくれていることが心から嬉しかった。



それから数日後。

匠は熱心に学校で弾いている以外の曲の練習を始めた。

「中村さんの結婚式で弾くのか?」

「みさみさの結婚式は家族式だっていうから、俺らは招待されていない。だから、逆に俺らがみさみさとその旦那さんをお祝いしようっていう企画になってな。みさみさの前の学校の同級生で御勢学園大で一緒だった子が幹事になってくれて、旦那さんの友達と俺たちの合同のお祝い会になったんだ。そこで対抗ピアノ演奏会ってことにされてさ。当然、こっちの代表はなんの断りもなく俺だよ」

なんだかんだ言いながら、嬉しそうに練習を続ける匠。

そういう匠の音色を休憩がてらに聴きながら、俺はあるアイデアを思いついた。


翌日。

俺は百円ショップで買ってきた真っ白の扇子を目の前にしていた。

書くのは和歌。古今和歌集にある、恋の歌。

俺が恋の歌を書くと色々と誤解を受けそうだが、これは中村さんたちの立場だということで筆をとった。

「春霞 たなびく山の さくら花 見れどもあかぬ 君にもあるかな」紀友則の歌だ。

俺からの、中村さんへの結婚祝いだ。長く遠距離恋愛していて、それでもお互いを見つめ続けていた二人にはこの歌がいいのではないかと思ったが、説明が必要だなとも思った。

予備用に、二、三個白い扇子は買ってあるが、緊張する。

一つ書き終え、落款を入れたところで匠が帰ってきた。

「ただいま」

「お帰り」

「お? 何書いてるんだ?」

「扇子に和歌を」

「風流だな、智也そういうのやったことあったか?」

「大学生の頃一度。でも、扇子の骨に貼ってあるものに書くのは初めてだな」

「またどうして?」

「俺からの、中村さんへの結婚祝いをと思って」

匠は、今書き上げたばかりの扇子を覗き込む。

「これ、どういう意味があるんだ?」

「春霞がたなびく山の桜の花のように、あなたはいつまでも見ていても飽きません」

「それって……」

「絶対誤解されそうだから、説明が必要だと思っている。二人とも、長いこと遠距離恋愛してたけどずっとお互い一筋だったんだろう? それにそれまでの付き合いも長かったみたいだしさ。それにぴったりなのがこの歌だと思ったから。決して、俺からの感情ではない。それだけは誤解しないでくれ」

「そうか、わかった。智也、お願いがある」

「なんだ?

「同じのを、俺にも一本くれないか?」

「構わないが……」

「それは、智也からの気持ちだと思って、受け取りたいんだ」

俺は柄にもなく赤くなってしまった。

「わ、わかった、ち、ちょっと待ってくれ……」

俺が冷静になって、もう一度同じ歌を書き上げて雅号と落款を入れるまで一時間もかかってしまった。

「ありがとうな。今日は俺のわがままで遅くなっちゃったから、どっか食べ行こうぜ。俺のおごりだ」



中村さんの結婚祝いの日、匠はそれを持って会場へと向かっていった。

誤解されるような歌を選んだ俺も悪かったかもしれないが、匠には説明をしてもらうように重々頼んでいる。

それが通じてくれなければ、会場は大騒ぎになりかねない。

そして、匠に渡した俺からの気持ち……。

俺は匠をあの日から今までずっと見つめていた。匠は、それより前から俺のことを見つめてくれていた。

俺らの日々は、もしかしたらまだまだしばらく続くのかもしれない。

春霞がたなびく山の桜の花は、いつまでも見ていても飽きないのだから。


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