第三十話「約束」
二月末、御勢学園大学。博士課程合格発表の日。
例によって、掲示板に合格者の番号が貼り出される。
大学とは時期が違うが、冬季の修士課程の入学試験の合格発表とも一緒であるらしい。
附属高校の合格発表の時は渉と陽子が、大学と修士課程の合格発表の時は桜小路会のみんながそばにいてくれた。
今度こそ、一人でこの目で合否を確かめる。
幸い、寒くはあるものの天気は悪くはない。
自転車に乗って、緊張が高まるのを感じながら大学へと向かう。
もう、ドキドキしながら掲示板の前に立っていても、背中を押してくれる友達はいない。一人なのだ。
受験票の番号をじっくり見ながら、「法学研究科博士課程」に自分の番号があるかどうか目を凝らす。
ある……あるか?あった! あったよ! やった!
その場に膝から崩れ落ちそうな気分であった。嬉しさというよりも、ホッとした気持ちからだろうか。
取り急ぎ、お母さんに「無事に合格してたよ」と電話を入れ、渉と葵にメールを送る。
二人とも返信は早かった。
「おめでとう! これで私も安心して矢川先生の奥さんになれるわ(笑)って、まだ修了確定してないじゃんね」
「おめでとう。よかったな、後は俺が合格してれば、二人で新生活だな」
そして、喜んでいるその側に、見慣れた二つの顔を見つけた。
「優……川口先輩……」
ああ、今はもう川口じゃないな、二人とも戸塚だ。でも、どう声をかけようか。
ええい、とりあえず川口先輩でいいや。
「優! ……川口……先輩」
「よう、美咲。やっぱりここにいたな」
「久しぶり、中村さん」
「お久しぶりです。ご結婚、おめでとうございます」
「ありがとう」
「美咲はここに残るのか?」
「うん、無事に合格できた。優も?」
「ああ、ドクターはこっちに戻ってこようと思ってたからな」
「先輩もですか?」
「私はこっちで仕事が見つかったの。旦那は学生で、私が働いてるっていうのもアレだけどね」
「でも、俺らには目標があるからな」
「どんな夢か、聞いていい?」
「俺らで、小さくてもいいから会計事務所を開きたいと思ってな。俺はまず専門的なところを深めて、愛はまず実務面を深めて行くことにした。で、時間が経てばお互いの立場を入れ替えてもいいじゃないかと思ってさ」
「かっこいい! 素敵な夢ですね!」
「ありがとう。中村さんはここで研究を極めていく感じなの?」
「そうですね、そうできるように願ってますし、努力を続けるつもりです」
「お互い、ここからがまたスタートだな」
「そうだね、また同級生だね」
「主人をよろしくお願い申し上げます」
あとは、学生課から連絡がないことを祈るのみだ。
大学時代はかなり頻繁になんでもないことで電話がかかって来ていたが、修士課程に上がってからはほとんど電話を受けた覚えがない。
このまま、修士論文が無事に審査を通ってくれていますように……。
これは願うしかなかった。
特段の変わった電話もないまま、穏やかに日々は過ぎて行った。
大学の卒業の時と同じように、もう滅多にプライベートで会いにくくなるだろう葵と二人きりの食事会を計画したり、力が幹事で計画してくれた大学院の卒業祝いの名前だけの飲み会、卒業式には今回は袴ではなくドレスを来て行こうと考えていたのでドレス選びなどの予定がどんどんと入っていく。
そして、その中に決して頭から離れなかった、渉の合格発表も予定されていた。
もちろん、合格祝いの予定だ。渉が、あの渉が合格しないわけがない。
それは優子お姉ちゃんも、渉のことを知る誰もがそう言っていた。
だが、だが、万が一、万万が一ということが考えられる。
優子お姉ちゃんの時もそう考えたが、今回は自分の人生もかかっていると思うと、渉に番号を聞き出すことができなかった。
私は、合格発表の前日に渉に「結果が分かったら、電話ででもメールででもいいから教えてね」とメールを打つのが精一杯だった。
渉はすぐに「結果が分かったら、誰よりも先に美咲に伝えるよ」と返事をくれた。
それゆえに、私は合格発表の前の日はなかなか寝付けなかった。
次の日、合格発表当日。
私はただただ、緊張しながら渉からの電話を待ち続けていた。
着信メロディが鳴る。渉からだ。
「はい」
「美咲か?」
「うん」
「ありがとうな、今までずっと応援し続けてくれて。俺、俺……」
心臓がドキリとする。
「受かったよ……! ようやく、美咲を迎えにいける。あの時の約束、ようやく果たせる日が来た……」
感無量と言った感じで一言一言噛みしめるように渉は言う。
「おめでとう、本当におめでとう!」私はただひたすらそれしか言えなかった。
「とりあえず、合格の報告を俺の両親にも、美咲のご両親にも、優子お姉ちゃんと圭太さんにもしないとな」
「戻って来れる時間ある?」
「そうだな、今日の夕方、うちに帰って合格報告を親にしようかな」
「分かった、それならうちの親とか優子お姉ちゃんたちにも声かけてみようか?」
「お願いできるか?」
「うん、任せて」
電話を切って、もう一度脱力感のような、ホッとした感じとともに、いよいよあの日の約束が果たされるのか、と改めて思う。
最初にうちのお父さんとお母さん、渉のお父さんとお母さん、優子お姉ちゃんの前で宣言した時には私はその場にいなかったが、その後何度も渉の固い意思を私にも伝えられていた。
渉は私と別の大学で、しかも医学部という環境で、もしかしたらこれまで他に女の人が言い寄って来たこともあったのかもしれない。
でも、そのようなそぶりなど全く見せず、他大学で研究に打ち込む私のことを忘れることなく、今日までやって来た。
そして、今日、とうとう、両親に合格を報告し、私と一緒に生活するという報告をするのか……。
心の準備ができているようなできていないような、ちょっと複雑な気分だった。
「お母さん」
「渉くんから、連絡あった?」
「あった。合格したって」
「そうなの! おめでとう! こっちにはいつか帰ってくるって?」
「……お姉ちゃんと一緒の病院で、研修医するんだって」
これにはお母さんも目を丸くしていた。
「あら、そうなの!」
私は一息おいて言う。
「それで、一緒に住もうって」
お母さんは一瞬固まっていたが、すぐに笑顔になり、「そうなのね、これが渉くんの約束を果たす方法だったのね」と呟いた。
「美咲、あなたはどうなの?」
「どうって?」
「心の準備はできてるの?」
「うーん……」
正直、今日まで確定していなかったことなのだから、今から始めますと言ったところだ。
「美咲の人生の大事なことよ。後悔のないように、そして、せっかくそういってくださっている渉くんにも失礼にならないように、しっかり考えなさいね」
「今日の夕方に帰って来るっていってるけど……」
「それなら、渉くんのお母さんにお手伝いできることがないか聞いてみるわ。人手は多い方がいいでしょうし」
そして、携帯を持ってさっさと渉の家に向かって行ってしまった。
じゃあ、今、これから先、後悔しないように、しっかり考えよう。
私は、渉と、ずっと一緒にいたいか?
同じ家で、一緒に暮らして行くことができるか?
渉は仕事柄必ずしもずっと私のそばにいられないだろうし、逆に私が渉のそばにいられないこともあるかもしれない。
それでも、いいのか?
……うん。昔から渉とずっと一緒だったから、渉がそばにいない生活なんて考えられないし、離れて生活したことでずっと一緒にいた時とはまた違う見方で渉を見ることができた。 でも、一緒にいる時も、離れても、私の中では渉が一番だ。
渉と、一緒に新しい人生を歩き出そう。そうしたい。改めてそう思った。
私は家に鍵をかけ、携帯を持って渉の家に向かった。私も渉の合格祝いの手伝いをしようと思ったからだ。
渉のお母さんの美香に電話をかけ、鍵を開けてもらう。
そこで母親同士が、楽しげに大量の料理を作っていた。
「あら、美咲も来たの?」
「ダメ?」
「うーん……」二人の母親たちは悩みながら、意を決したように告げた。
「渉の合格祝いもだけど、美咲ちゃんの合格祝いと、これから新生活を送る二人のはなむけにってことで、美咲ちゃんには秘密にしようとしてたけど……」美香が言う。
「じゃあ、美咲、優子と圭太さん、あとお父さんにも連絡をお願い。鈴ちゃんと小鈴ちゃんたちは家を出る時は変わりなかったけど、二匹のご飯とお水の用意もお願いできる?」お母さんに言われる。
といっても、今は三人とも仕事中のはずだ。とりあえず、メールを送ってみる。そして、鈴と小鈴のご飯と水の様子を見に家に戻ることにした。
最近の鈴と小鈴は、昔のように活発に動き回ることはほとんどなく、眠っているか起きていれば日当たりのいいところに二匹で日向ぼっこしたり丸くなっていることが多い。年一回は検診を兼ねて病院に連れて行っているが、今のところこれと言って目立った悪いところは見当たっていないようだ。ただ、食べるものには気を使っている。推定ではあるが年齢の違う鈴用、小鈴用に食べ物を分け、一回に食べる量を減らし、一日に食べる回数を増やしている。水もどれくらい飲んでいるかを注意して見ている。
ちょうどお昼ご飯の頃だ。鈴、小鈴それぞれにご飯を用意し、飲み水も取り替える。
「鈴、小鈴、ご飯だよ」と声を掛けると、ゆっくりながら二匹がやってくる。
それぞれが食事をしている様子を見ていると、ああ、この二匹と一緒にいられる時間ももう少しなんだな、と寂しくなる。
ご飯を食べ終わり、日なたで毛づくろいをしている二匹を見ながら夕方のご飯の準備をしておく。
ああ、私もお腹減った……。
そう思った時、携帯が鳴った。優子お姉ちゃんからだ。
「メール見たわよ。よかったわね、渉。おめでとう」
「うん、お姉ちゃんたち、今日仕事は?」
「私も圭太も、少し遅くなるかもしれないけどそっちに行けるわ。お母さん達、張り切ってるんでしょ?」
「うん、二人で楽しそうに準備してる」
「二人で? 美咲は?」
「私も祝われる方みたいだから、今はうちにいる。鈴と小鈴のご飯用意してたところ」
「そっか。いつも鈴と小鈴のことありがとう。助かるわ」
「私も家を出ちゃうと、お母さん一人にお願いすることになるけどね」
「うちに連れていければいいんだけどね、あの子達を。まあ、今は仕方ないわ。私の家には昼間はほとんど誰もいないんだし。ところで、お父さんにも連絡したの?」
「うん、した」
「返事は?」
「まだ……」
「忙しいのかしらね。私もそろそろお昼食べないと。また夜にね!」
そう言って優子お姉ちゃんは電話を切った。
お父さんから連絡があったのは簡単な昼ごはんを済ませた後だった。
「渉くん、合格したんだな。とりあえず、着替えてから大谷さんの家に向かえばいいのか?」
「うん、それでいいんじゃないかな」
「わかった。できるだけ早く、帰るようにするよ。それまでに渉くんと話すことがあれば、私からもおめでとうと伝えておいてくれ」
短い電話だったが、お父さんも来てくれることがわかった。これでみんなが揃うことになる。
それからすぐ、専用携帯でない方に渉からの電話があった。
「美咲、今どこいる?」
「自宅だけど?」
「今から出てこれるか?」
「うん、なんだかんだで仲間はずれだし」
「どういうことだ?」
「お母さん達で、合格祝いの準備で盛り上がってて。私も祝われる側だから、今は鈴たちと家にいる」
「話がいまひとつ見えないんだが……」
「今日、渉帰ってくるでしょ? その時に渉と私の合格祝いを二家族合同で一緒にするって。優子お姉ちゃんも、圭太さんも来るって」
「そうか、それなら話が早い。合格したら美咲を迎えに来るって話は昔からしてたからな。今日、その場で言う」
電話口の渉も緊張しているようだった。
それから約三十分後。
私は新居となる渉の新しい部屋の前にいた。部屋と言っても、まだ前の住人がいるため、中には入れない。
「ここが病院の指定した家族寮なんだよな。寮って言っても、ある程度広さもあって、普通のマンションみたいなものらしいけど。まあ、美咲がここじゃ無理だって言うなら、今から物件探しだ」
外から見た感じでは思っていたよりも綺麗そうだ。大学からの距離もそんなにあるわけではなさそうなので、今まで通り自転車で通うこともできそうだ。まあ、まだ住んでいる人がいる分には、中は確かめられないのだが。
「他の部屋とか見られない?」
「今度の週末ぐらいには、前の住人が出るそうだ。それからじゃダメか?」
「じゃあ、今週末にまた」
そして、そのまま渉はうちで待機することになった。
各々、携帯で自分の母親と話をする。
「うちに渉、もう来てるんだけど」
「そうね、六時半ごろこっち来て。お姉ちゃんたちにも連絡よろしくね。鈴ちゃんたちのご飯もよろしく」
「俺、自分の自宅にも入れないのかよ……」
「まあ、せっかくの合格祝いだから、少しだけ我慢しなさい。美味しいもの作ってるんだから」
約束の六時半。
鈴と小鈴のご飯と水を取り替えたことを確認して、私たちは渉の家へ向かった。
家の前で渉に母親へ電話をかけてもらい、鍵を開けてもらう。
そこには、食べられそうにないくらい大量のごちそうと、渉のお父さんとお母さん、そして私のお母さんが待っていた。
「優子とお父さんからは電話があったわ。後から合流してもらえるから、始めましょう」
そして、いつの間に用意していたのか、ホールケーキも登場してきた。
「渉、美咲ちゃん、合格、本当におめでとう」
割れんばかりの拍手とともに迎えられる。
「渉にはいろいろと言っておきたいこともあるが、まあ、とりあえず」
渉にはビールが、私にはジュースが注がれる。
「二人のこれまでのたゆまぬ努力と、これからの未来に乾杯!」
乾杯の音頭を取ったのは渉のお父さんだった。
お約束の唐揚げ、たくさんのおにぎりや買ってきたのであろうお寿司、たっぷりのサラダ……。
ケーキだけでなく、お菓子もいろいろと買い込んであるようだ。
「渉、今日はうちにいるの?」
「ああ、明日にはあっちに戻るけど」
「卒業までは、いや、卒業してからが本番だからな。色々、油断するなよ」
「分かってるよ。今日くらいは、美味しいもの食べて、ゆっくりしたい」
「そうね。今日くらいはゆっくりしていいじゃない」
毎日いろいろなことに追われていた渉にとって、久しぶりの親子の会話だろう。
「もしもし、お父さん? もうこっちに来てるのね?分かりました」
お父さんも合流する。
「遅れました。美咲、渉くん、合格おめでとう」
「ありがとう」
「ありがとうございます」
「取り急ぎで申し訳ないが、お祝いだ」
お父さんは人数分であろうデザートを買って来てくれた。
「ケーキは多分お母さんたちが用意してくれているだろうと思ってな、ささやかなもので申し訳ない」
「ありがとう、お父さん。嬉しい」
「ありがとうございます」
その時。
「あら、優子? 今から? ええ、大丈夫よ。しっかり二人分、ご飯残しておくから安心しておいで」
優子お姉ちゃんたちが今から向かって来るのであろう。
となると、ざっと一時間くらいだろうか。
まあ、お母さんたちが用意してくれたご飯は今残っている分でもたくさんある。今からお父さんが食べて、一時間ぐらい後に優子お姉ちゃんと圭太さんが来て食べても十分なくらいだ。
「すみません、うちの娘と息子も呼んでしまって」お父さんが詫びる。
「いえ、優子ちゃんはうちの娘も同然ですし、そのお相手の方も初めてお会いしますけれど、私とは同業ですし、大歓迎です。渉も、みんなの前で発表したいことがあるみたいですから」渉のお父さんが言う。
ドキリ。
渉も、表情が固くなっている。
「まあまあ、食べて食べて。せっかく作ったご馳走が残っちゃうのもさみしいわ」
およそ一時間後。
お母さんの元に優子お姉ちゃんから電話が入った。
玄関を開けると、抱えきれないくらいの大きな花束を持って二人が現れた。
「渉! 美咲! 合格おめでとう! 本当に、よくやったわね、二人とも!」
「お姉ちゃん! 圭太さん!」
「はじめまして、高橋圭太と申します。大学病院の内科勤務です。よろしくお願いします」
「あなたが優子ちゃんの旦那さんなんだね。内科か。私と同じだな。この子も来年から同じ大学病院だそうだ。どうか、よろしく頼みます」
「そうなの? 渉、うちに来るの?」
「はい、実はそうなんです」
「えー! 全然知らなかった」
ここで、渉がタイミングを見計らうように周りを見渡し、立ち上がった。
「俺、今日、晴れて念願の医師国家試験に合格しました。もちろん、人間としても、医師としてもこれからまだまだ研鑽して行く段階です。ですが、今、高校三年の時のあの約束を、果たしたいと思います。美咲さんと、一緒になります。俺の命に代えても、美咲さんを守らせてください」
渉はとうとう言った、と言う顔をした。
一番驚いているのは圭太さんだろうか。他はみんな、やっとこの日が来たか、と言う顔をしている。
「ありがとうございます。よろしくお願いします……」そう答えるので精一杯だった。
「美咲ちゃんは、それでいいのか?」渉のお父さんが聞く。
「はい。しっかり考えて、やはり私のこれからの人生、渉……さんと一緒に歩んで行きたいと思いました」
「あの日から随分経った気がするけど、まだ六年しか経ってないのね……長かったようで、やっぱり早かった。渉、あの約束を果たせる日が来たのね。おめでとう、渉、美咲!」
「あの約束……?」
「圭太には後でじっくり話してあげるから、とりあえず今は二人のお祝いよ!」
優子お姉ちゃんが大げさなまでに肯定してくれたことと、反対意見も出なかったことで、この話は進めていいんだろうな、と言う手応えを得た。
「俺の卒業式が終わった後、あっちのマンションを引き払って、こっちに戻って来ます。その時に一緒に生活を始めようと考えています」
「せめて……」お父さんが言う。
「一緒に生活するのは分かった。ただ、きちんとした区切りをつけて欲しい。もちろん、二人とも忙しいのは分かっている……」
「分かっています。式という形で、きちんと区切りはつけたいと考えています」
「私たちもなんとかして時間とれたんだから、大丈夫よ」優子お姉ちゃんが言う。
私の修了式まで約十日、渉の卒業式はその翌日。
それまでに家を出る準備をしないと。
この十日間、とんでもなく忙しくなりそうだ。




