第二十九話「運命の刻」
私と渉の、それぞれの運命の刻。
それを迎える冬がやってくる。
正式に御勢学園大学法学部博士課程に出願し、私は論文執筆と博士課程の入試対策という今までにない精神的にきつい日々を過ごしていた。
博士課程の入試日程は二月の半ば、合格発表は三月頭。
その間に修士論文の口頭試問と書類審査が行われる。
修士論文が通らない限り、博士課程の合格もあったものではない。
どちらにも偏って力を入れることができない、疲れで頭が痛くなる日々だった。
「美咲、無理してない?」
久々に家に帰ってきた優子お姉ちゃんが私の様子を見て言う。
「うーん、修論の口頭試問と博士課程の入試が近いから……」
「ちゃんと寝てるの?」
「一応……」
「病院は? 定期的に検査は受けてる?」
「うん、一応……」
定期的に来いと言われている分には受診はしている。だが、ちょっと風邪っぽいかもと思っても、忙しさの方が勝ってしまう。
「体調管理がこの時期は大事なんだからね、絶対インフルエンザなんてかからないようにしなさいよ。なんだったら、うちでインフルエンザワクチンやってるから、打ちにおいで。身体壊したら、夢も目標も、何もないんだからね」
「わかった、ありがとう……」
同じころ。桜川医科大学近くのマンションで、渉も寝る間も惜しんで勉強を続けていた。
最寄りの試験会場からの距離は家とこのマンションからとでは大差がない。試験前に実家に帰ってもいいが、張りつめている気が緩んでしまいそうな気がした。
とりあえず、学校側の計らいで早めにインフルエンザのワクチンは打たせてもらった。こういう点はありがたい。
そして、引っ越しもしなくてはならない。
美咲が御勢学園大学の博士課程にこのまま進むならば、俺もこっちに戻ってきて、こっちで研修医生活をしたい。
一緒に暮らすにあたって、美咲に、あまり環境の変化を与えたくなかった。
そう思っていた頃にたまたま会ったのが、優子お姉ちゃんの結婚式の二次会で声をかけられた、優子お姉ちゃんの大学病院の教授だった。
あの時連絡先を交換していたため、いろいろな情報をくれ、優子お姉ちゃんの大学病院が研修医の募集をしていることも教えてくれた。
俺は迷った。本来、ここに行きたかった。でも、6年間という決して短くない期間、桜川医科大学というところに育ててもらった……。
俺は、大学に入って初めて、親父に相談した。親父は桜川医大のOBだ。であると同時に、一医療人でもあり、一人の親でもある。その立場から、俺はどうすればいいか相談した。
「俺は、俺。お前は、お前だ。俺の意見は、あくまで参考だ。全て俺の意見が正しいわけじゃない。俺ならその先生のところに勉強しに行くだろうな、お前くらいの若さだったら」
……勉強か。そうだな。
「ありがとう。やってみる」
もちろん、親父の意見だけで全てを決めたわけではない。最終的に決めたのは誰でもない、俺自身だ。
それに美咲の事情もついてきたと言ったら、都合がよすぎるだろうか。
そうして、優子お姉ちゃんのいる大学病院の研修医の採用試験を受け、来年の春より晴れて国立大学大学病院の研修医となることとなった。
この話は美咲にはまだしていない。どれもこれも、医師国家試験に通らなければ意味がないからだ。
美咲と一緒に暮らす。それを目標に今は必死になってやっている。
受験生にはクリスマスも正月もない、とはよく言われることだが、今年ほどそれを実感する年はなかった。
クリスマスっぽい感じだな、と思っていたらあっという間に十二月三十一日だ。渉もクリスマスやお正月どころではないのだろう。
お父さんやお母さんも気を使ってかあまりお正月気分を出さないようにしてくれている。
申し訳ない気もするが、今はとにかく全力で二月に向かうのみだ。
松の内が開けると、一気に修士論文のまとめモードに入る。
それまでも勉強の合間に学会発表を受けて修正版を作成してきたが、提出するための形式にしていかなくてはならない。
紙に印刷したのものを論文審査の先生方のために三部、控えのためのUSBを一本。
口頭試問の担当の先生は選べるらしいとか、こちらから挨拶に行った方がいいとか、様々な論が飛び交っているが、私たちの直接の先輩に当たる方が矢川ゼミには現在いらっしゃらないのでその真偽は不明だ。
内容がこれだから、矢川先生以外ならあの先生とあの先生かな、という見当は何となくつかなくもないが、確信は口頭試問のその日その時にならないともてない。
論文のまとめと試験対策、もう少し、もう少し。きっと、今、渉も必死になって頑張ってるんだ。
そして、とうとう二月がやってきた。
渉とはお互い忙しい合間に、本当に時々だが、メールや電話のやりとりで近況報告をしていた。
渉の試験の方が先にあり、私の博士課程の入学試験、修士論文の口頭試問、博士課程の合格発表と続いた後、渉の医師国家試験の合格発表があるのだそうだ。
もちろん自分にとっても、そしてお互いにとっても全く気が抜けない1ヶ月が始まろうとしていた。
お姉ちゃんの試験の時と違い、渉は自分のマンションから試験会場に行くのだそうだ。
緊張感を切らしたくないから、とのことだった。
試験会場までの距離はマンションからと自宅からとそんなに変わらないのだったら、渉本人のやり方でいいと思う。
「約束叶えるために、俺、精一杯がんばってくるから」
試験前日にほんの少し電話で話したが、話せたのはそれくらいだった。
自分自身も緊張している。渉の試験を目の前にして、そして自分の試験が迫っていることに対して。
それから三日間は、自分も試験を受けているような緊張感だった。
とはいえ、自分も数日後には試験を控えている。対策をしてきて、ある程度辞書や六法も持ち込み可であったり、一部印刷したものが与えられるとはいえ、これまでにない緊張が襲う。面接も、矢川先生が主体とはいえ、やはり博士課程の入学試験の面接なのだ。
矢川先生と練習してきたこと以外でも答えられるようにしておかないといけない。手元の資料は暗記するほど読み込んだが、とっさのことを聞かれたら……?
それは修士論文の口頭試問でも同じだ。葵と「多分この先生だよね」と言いながらも、お互い研究している内容が違うためにもしかしたら違う先生が選ばれているのかもしれない。予想してなかった先生が、全く予想していない質問をしてきたら……?
そこまで考えて時間の無駄になりそうなのでやめた。今は、考えられることを全てやるのみだ。予想していなかった質問が出たら、その時に考えるしかない。やったじゃないか、学会の質疑応答で。
そして、自分の試験も本番を迎える。
真冬の試験は久しぶりだ。中学三年の冬、私立高校の入学試験以来だろうか。
結局県立高校の杉谷高校に合格したのでその時受けた私立高校には行かず、そして改めて二年次から御勢学園大学附属高等学校に転入したので、結局私は高校を三つ受けて三つ合格したことになるのか。
そう考えると、自分はよくやったな、と思う。
そして未だに学生で、これからも学生で居続けるために試験を受けようとしていることも、約十年前に私立高校の入学試験を受けている頃の自分では思いもよらないだろうな、と考える。
お守り類が意外とたくさん集まっていた。葵と力、優子お姉ちゃんと圭太さん、お父さんとお母さん、そして試験が終わって一息ついた渉が「試験が終わった日に、手紙書いたんだ。お守りがわりになるかと思ってさ。次の日には切手貼ってポスト入れたから、ちょっと手間だけど、郵便局、寄って取ってきてくれないか?」と連絡をくれたのだ。
ここ最近は郵便局に行って郵便を取って来るのは私の代わりにお母さんがやってくれている。そして、気がついたらお母さんが渉からの手紙を郵便局から持ち帰ってきてくれていた。
急いで封を開ける。ああ、渉の字だ。
「美咲へ
今日、無事に三日間の試験日程が終わりました。
結果が出るのは来月の中頃ですが、美咲にはその前に知らせておきたいことがあります。
俺、来年から優子お姉ちゃんと圭太さんのいる大学病院で研修医をさせてもらうことになりました。
もちろん、合格したらの話だけどな。
だから、卒業したら、そっちに帰る。というより、一緒に暮らそう。
俺の病院に、家族寮があって、そこを一応押さえている。
美咲さえよければ、そこで。
だから、美咲も精一杯これまでの努力とこれからのやる気をぶつけてきてください。
美咲ならできるって、俺、信じてるから。
大谷 渉」
これだけだったが、私には驚くことだらけだった。
渉、優子お姉ちゃんのいる大学病院で研修医するんだ!てっきりこのまま桜川医大に残るとばかり思っていた。
そして、一緒に暮らす……って、私も渉も合格しないとこの話は成立しないなら、絶対に合格しないと!
私はお守りの束の中に渉の鍵とこの手紙をそっと入れた。
修士課程の入学試験の時は持ち込みも何もなかったが、今回は辞書1冊までは持ち込み可となっている。ただ、それだけ過去問も難易度が高かった。六法も学校側で必要と思われる部分を印刷して用意してくれるとのことだが、コツをつかむまでは四苦八苦した。
ただ、それを乗り越えて今日の私がいる。これまでも御勢学園大学附属高校への転入試験、二回の学会発表、修士課程の入学試験、そして自分自身の命の危機をも、乗り越えてきたじゃないか。
意を決して試験会場へ向かう。一つの大きな山場を今、迎えようとしている。
緊張のまま午前中の試験が終了した。午後は面接となっている。
やるだけのことはやった……と思いたい。
受験生は三人ぐらいだ。私には002という受験番号を割り振られている。
今はとにかく、面接で何を聞かれても答えることができるようにできる限り平常心を保つことだ。
ホットココア飲みたい……。帰りに、ホットココア買って帰ろう。
自分の手持ち資料を確認しながら、昼休みは過ぎて行った。
前の受験生の面接試験が終わると、とうとう自分の番だ。
面接会場に入ると、練習していた通りのことを聞かれた。よどみなく答えることができて、ホッとする。
いろいろ場数を踏んだこともあるからだろうか。
退室して控え室に戻って、ようやく緊張の糸が解けた。一つの山を、なんとか越すことができた。次は約二週間後の、修士論文の口頭試問だ。
「ただいま……」
「美咲、大丈夫?」お母さんが心配そうに声を掛ける。
「うん、ちょっと疲れが出ちゃったから。少し寝てるね」
そう言い残して、私は着替えだけ済ませて何も食べずにそのまま眠ってしまった。
…………たくさんいろいろな夢を見たようだ。一体、どれだけ寝ていたのだろう。帰ってきてすぐ寝たのだが、寝た時間を覚えていない。
ちょっと伸びをして、ごろりと寝返りを打った時だ。
「おい、美咲」
「えっ!」
「俺だよ、俺。渉だ」
「ど、どうして渉がここに?」
「美咲のお母さんが心配だからって連絡くれてさ。優子お姉ちゃんも圭太さんも夜勤で、今夜は来れないからって」
「今夜?」
「うーんと、今は夜の十二時ぐらいか?」
「そんなに寝てたんだ……」
「美咲が起きたんならちょっと安心した。顔色もいっときよりはずいぶん良くなった感じだな。よかった……」
「ごめんね、わざわざうちに来てもらって……」
「いいんだよ、美咲がかなり無理しながら頑張ってたのは知ってたから。ちゃんと様子見ないといけないなって思ってたからさ。まだ忙しい日が続くんだろ? 俺も明日にはあっちに戻らないといけないけど、もう少しはゆっくりしてるよ。だから、休める時はしっかり休め。そして、元気になってからまた走り出せばいいんだから」
「ありがとう、渉」
「とにかく、今はしっかり寝ろ。今の美咲には休むのが一番だ。次起きたら、ご飯食べろよ」
「わかった。おやすみ、渉」
「おやすみ、美咲」
あ、あの手紙のお礼……その考えも、猛烈に襲って来る眠気にかき消され、私は再び意識を手放した。
次に目を覚ました時にはすでに渉はいなかった。
その代わり、目を覚ましたことに気がついたお母さんが「おはよう、美咲。何も食べてないからお腹空いたでしょ」と声をかけて来た。
「お母さん、渉が来てくれたの?」
「ええ、お姉ちゃんも圭太さんも夜勤だって言うから……ちょっとあなたの様子が心配だったから、申し訳なかったけど、渉くんにお願いしたの。一度あなたが目を覚ました後、しばらく様子見ててくれたけど、渉くんもうとうとしてたから、お客様用の布団用意して休んでもらったわ。で、朝になったらお家に帰った。この状態なら、そのまま寝かせていても大丈夫です、起きたら何か消化にいいものを食べさせてくださいって言ってね」
そうして、お母さんはおかゆを用意してくれた。寒い日には、その暖かさが身体中に広がる。
「少し休みなさい。ちょっと無理しすぎよ。三日でも、一日でも、ゆっくりしないと、今のペースを続けると、また身体壊しちゃうわ」
確かにそうかもしれない。今なら、口頭試問までほんの少し時間がある。今日ぐらいは、休養日にしてもいいかもしれない。修士論文のまとめは、また明日からでもいいのだ。
「うん、今日は休むことにするよ」
「渉くんにも、お礼言っときなさいね」
「はあい」
渉にお礼の電話をする。
「もしもし?」
「美咲か、起きたか? 大丈夫か?」
「うん、今日は休養日。ごめんね、いきなり呼び出しちゃって」
「問題ないよ。うとうとしてたところを布団貸してもらっちゃったし、ご飯もしっかりご馳走になったしな」
「渉は、大丈夫だったの?」
「ああ、今はそんなにものすごく忙しい感じじゃないからな。それに、婚約者のピンチに駆けつけない奴はいないだろう?」
「婚約者……って、ピンチって、そんなに?」
「俺が呼ばれて来た時は、美咲、顔色が悪かったし、万が一ってことが考えられたからな。しばらく様子見てたら回復してきたから安心したけど。いざとなったら緊急搬送の手順、とか蘇生措置とかいろいろ頭の中で考えてたよ」
「ごめんね……ありがとう。そして、あの手紙……」
「いや……本当は、合格してから美咲には話そうと思ってたけど、思わず筆が滑ったって感じか。でも、本当の話だ。俺が合格して、卒業したら、一緒に暮らそう。その前には、ちゃんと美咲のお父さん、お母さん、できれば優子お姉ちゃんと圭太さんにも挨拶するよ。だから、お互い、もう一息頑張ろうな」
渉の手紙を疑っていたわけではないが、こうやって直接本人から話を聞くと実感がわく。
「うん、分かった。私ももう少し頑張る」
休養日を挟んだことと、博士課程の入学試験が終わったことで、私はようやく修士論文のまとめに専念できることになった。と言っても、もう口頭試問までの日はあまり残っていなかった。
そして、口頭試問当日。
院生はそれぞれ、時間をずらして控え室に集合するように言われていた。
内容の漏洩を防ぐためだろう。
特に学生番号最初の葵と中盤の私は情報を共有することは難しそうだ。
私が控え室に入ったときは、もちろん誰もいなかった。
とにかく、事前に提出した論文の内容をひたすら繰り返す。緊張だ。
私の名前が呼ばれた。やはり、誰も控え室には来なかった。
予想通り、矢川先生と他の二人は自分の研究に関連しそうな分野を研究している先生が試験官だった。
予想外に、博士課程の入学試験の面接より、学会の発表よりも緊張してしまった。
落ち着け、落ち着け。
そういえば、中学三年の頃に担任だった水上先生が言ってたな。
「試験問題を目の前にして、緊張したらまず名前を書いて、一問目の簡単な問題を解くの。解けたら、自信がついて、その後の問題も解けるようになるから」と。
面接ならどうかな。高校入試の時は、名前を聞かれて、その後簡単な質問だったけど。
とりあえず、名前だ。
「学生番号18002005、中村美咲です」
そして、いよいよ第二の山場が始まる。
十分だか二十分だか、感覚は全くなかった。
ほとんど質問してきたのは矢川先生で、他の二人の先生からはあまり質問された記憶がない。
あまり難しいことを聞かれているはずではないのだが、緊張の方が上回ってしまったのか、博士課程の入学試験の面接の方がうまく受け答えできたな、という感じだった。
ただ、試験や面接は全て終わった。終わったのだ。
しばらく本当にゆっくりしたい、そうだ、そろそろ定期検査の時期だな、病院にも行かないと……。
博士課程の合格発表を翌週末に控え、それを終えたらもう三月だ。
卒業の時と同じで、修了できないと学生課から連絡があるらしい。
単位の問題と、修士論文不合格とが考えられる。
単位は必要以上に取得しているはずのため、問題になるならば修士論文の方か。
ゆっくりはできても、気が抜けない時期だった。
そして、二人それぞれの合格発表を迎えようとしていた……。




