第二十六話「恋する、チカラ」
新年度を迎えたところで、私たちに特段の変わりはなかった。
ただひたすら、学会発表へ向けて、修士論文完成へ向けて、それぞれの研究を進めるのみだった。
そう、あの日が来るまでは。
予定通り、矢川ゼミには第二期の大学院生となる伊東力くんが入ってきたとのことだ。
とはいえ、学部でも矢川ゼミだったため、改めて入ってきたというより、そのまま研究を続けるといった感じらしい。
矢川先生から「矢川ゼミの顔合わせをしよう。ゼミ生まで入れると数が多くなり過ぎるから、私と伊東くん、中村さんと上野原さんでご飯でも食べながらどうだい?」というお誘いを受けた。
もちろん、私がお酒を飲まないのは百も承知の上だからご飯でもという表現をしたのだろう。とはいえ、私はとっくの昔に飲み会をソフトドリンクのみでやり過ごす術を持っていた。
矢川先生が顔合わせの場所として選んだのはちょっと洒落たレストラン。
もちろんお酒も飲もうと思えば飲めるし、飲む必要性は全くない。私に気を利かせてくれたようだ。
とはいえ、もともとお酒に強い葵にそれと同じくらい飲める矢川先生、人並みに飲めるのであろう伊東くんが飲み始めると、もうその場は完全に飲み会だ。
私は伊東くんに葵と矢川先生の関係がばれないかどうかヒヤヒヤしていた。私以外の関係者がいる中で二人が飲むのはたぶん初めてだろう。私は去年の学会の時と同じように、いざとなったら二人を強制的に連れて帰るつもりでいた。
矢川先生もあまり一人とばかり盛り上がらず、平等に三人それぞれに話題を振っている。家族の話や研究の話など、この場では当たり障りのないような話だ。
「俺、双子の兄貴がいるんです。十二月十四日生まれだからって、両親が誕生日にちなんだ名前をつけたがるみたいで。弟の俺は力なんですが、兄貴は蔵之介ってつけられたんです。さすがに漢字そのままはまずいと思ったんでしょうね。七月二日生まれの妹もいるんですが、半夏生生まれだからって、半分の夏って書いて半夏っていうんです。読み方はどうあれ、妹もそのままです。俺らは誕生日の時期になると、決まってからかわれたもんですよ。だから兄貴は高校から俺とは別の学校に行って、今年就職しました」
思わず聞き入ってしまった。彼ら兄妹を高校の後輩、三原うららが聞いたら喜ぶだろうな、とふと久しぶりに社会部の後輩のことを思い出した。
力くんは「死刑制度と刑事訴訟法の運用」について研究を続けたいらしい。
死刑制度の是非についてはいろいろな学者などによって議論された、でもまだ日本では残り続けているということは日本の社会が必要としているということだ、ではそれを実行する根拠の刑事訴訟法はどうなっているのだろうということを語っていた。
もちろん、修士課程の面接の時に二年の時に学会発表を行うことについても説明を受けたらしい。
「先輩たちも発表されるんですよね?」
「うん、そのつもりで今準備してる」
「俺、できるかなあ」
「大丈夫、できるようになるよ。というより、今年私か葵のどっちかの発表を手伝ってもらうつもりだし。できれば両方手伝ってもらえるとありがたいけど」
「頑張ります」
今日は矢川先生が歓迎会だからということで全額費用を持ってくれた。
みんなでご馳走様でした、と言った後、解散となった。
解散とはいえ、帰る方向はみんなほぼ一緒だ。みんな一度学校へ戻った。
「中村先輩」
「何?」
「上野原先輩って、彼氏いるんですか?」
いますよ、しかもそれがあなたの指導教官ですよ、なんてことは口が裂けても言えない。
「いるらしいけど、遠距離とか聞いた」
葵のために嘘をついた。
「上野原先輩、可愛いじゃないですか」
「へえ、葵みたいな子がタイプなんだ」
暗闇で見ても力は赤い顔をしている。飲酒後の赤い顔とは違った赤さだ。
「中村先輩の話は有名ですし」
「へ?」
突然話を振られて逆に驚いた。
「ゼミ内でも有名でしたよ。矢川ゼミの院生の先輩で、幼馴染とすっごいラブラブな人がいるって。他大学、しかも医学部なのに相手がすごく一途だとか」
「……うん、確かにそうだけど」
「俺は覚えています、5年前のあの事件」
ドキン。心臓が高鳴る。
「だからこそ、中村先輩の彼氏さんは、先輩を一途に思い続けているんだって思ってます」
「……さすがだね、伊東くん」
力はニコリと微笑み、「俺は、諦めません。がんばって、上野原先輩を振り向かせて見せます」と言って葵のもとへ行ってしまった。
恋する力。まさにその言葉がピッタリな感じだった。
四月も半ばを過ぎ、二度目の就職活動のピークを迎えようとしていた。
私はこの大学の博士課程への進学を目指していたため、就職活動とは一線を画していた。
そんなある日。矢川ゼミ控え室に飛び込んできた葵が発した一言が大騒動を起こす。
「美咲、聞いて! 私、内定とれたの!」
「へ?」
「ごめんね、ずっと美咲にも黙ってて。ドクター行くなら、もうこっちに帰ってこいって親に言われてて。こっちでの生活費はこの先は出せないって。
でも、今矢川先生と離れて、地元の大学のドクター行ったら、きっと何年も矢川先生と会えなくなると思った。もちろん矢川先生にも相談したよ。そしたら、私が修士課程を修了したら結婚しようって。でも、矢川先生の立場もあるから御勢の法学部のドクターには進めないし、結婚してまで学生やって矢川先生に迷惑かけるのも気が引けて。だから、今年で学生はやめることにした。やりたかったら、またやり直せばいいんだから!」
一年生は授業中のようだ。三人でこの部屋を使う時間も多くなったが、たまたまながらここに力がいなくてよかった。
「葵は、それでいいの?」
「矢川先生に会うまでは、自分も研究の道を進みたいと思ってた。まあ、会ってからもしばらくはそう思ってたけど。でも、矢川先生のそばにいて、矢川先生の力になるのも、それも素敵なんじゃないかなって思えるようになったの。矢川先生はもったいないって言ってくれたけど」
「そうなんだね……内定、おめでとう! どこの内定?」
「隣の県の大学職員。矢川先生も住んでるのは隣の県からだし」
「まさか、桜川医大じゃないよね?」
「ううん、違う。そこって美咲の彼氏さんの大学だっけ?」
「うん」
「残念ー。美咲の彼氏さん見て見たかったなあ」
「今年卒業予定だけどね」
自分の進む道を、恋するチカラで変えた葵。
そして、私はこのままここの博士課程に残っていいのだろうか……?
「お母さん」
「なあに、美咲」
突然の問いかけに、優しい声で問い返すお母さん。
「私、このまま、博士課程に進んでもいいの?」
お母さんはちょっとだけ困ったような顔をした。そして、
「あなたは、ひたすらにこの道を進むものだとばかりだと思ってた。何度も、自分の心に確かめてきたものだとも思ってた。それが、どうして今ここに来てその質問なの?」
「渉……何度も、自分が大学を卒業したら私を迎えに来てくれるって言ってくれてる。でも、私まだ学生してていいの? 渉は社会人になるのに、私は学生で、迷惑かけて……」
「美咲」
お母さんがちょっとだけ語調を強めて言う。
「美咲が御勢の附属高校に編入した時から、こういう進路を取ることは予想していたわ。そして、特にあの宣言の後からね、渉くんときっと美咲は一緒になるというのも予想してた。その上で、私たちは美咲が取りたい進路に合わせて、渉くんや大谷さんのお家に迷惑をかけないようにはしている。だから、その点については美咲は自分の進みたい道を精一杯進みなさい。でもね、結婚するっていうのは二人で力を合わせて生活をして行くってことでもあるの。だから、私たちが手助けするのは美咲の博士課程の学費までね。私たちの義務はそこまでと考えているわ。それ以外の二人の生活に関するお金とかは、二人で力を合わせてやりくりして行くのよ。まあ、一番最初が一番いろいろかかるから、何らかの手助けが必要だとは思っているけどね。だから、美咲は自分の目標を無理に歪める必要はないのよ。それを歪めることで、あなたの周りには喜ぶよりがっかりする人の方が多いと思うわ。そこのところ、よく考えなさいね」
そうか。お母さんたちは、そういうことまで考えてくれていたのか。
「ふうん、すごいねえ、美咲のご両親、しっかり美咲のこと考えてるんだね」
「うん、そこまできちんと考えてくれてると思ってなかった」
「ちょっと羨ましいな。うちは自宅から通える出身大学だったら博士課程でもいいけど、こっちの生活費までは持てないって」
「まあ、私立とは言えど、ずっと自宅からだったし。でも、いいじゃない。矢川先生の話、葵のご両親にはしてるの?」
こういう話は、一年生の授業中に行わなくては。かつ、葵がこの部屋にいる時でないとできない。
葵は最近はこの部屋より、自分の部屋で研究や執筆を行う時間が長くなっているようだ。
就職活動や、その研修などで大学に来るより自分の部屋の方で進めた方がいいとのことだ。
その分、力と一緒にこの部屋にいることが増えた。
力も私と同じく、この大学の博士課程を目指していると言う。
力の葵に懸ける想いをこの部屋で散々聞いてきた。その度に、なんとも言えない気持ちでいっぱいだった。
「今度の連休に、矢川先生がうちに挨拶に来てくれるって。その時に、私もきちんと内定が取れた話をするつもり」
「え? まだ内定とれた話、ご両親にしてないの?」
「うーん、メールで話したくらいかな」
葵には葵の考え方があるのだろう。とにかく、葵たちの挨拶がうまく行くことを願うのみだった。
矢川ゼミ控え室。
珍しく三人が揃う。ゼミ以外でこの部屋で揃うのは久しぶりだ。
「先輩たちは、連休どうされるんですか?」
「うーん、決めてないなあ」
「私、実家に帰るつもり」葵がすかさず言う。
「へえ、葵、実家帰るんだ」何も知らなかったかのように振る舞うのは、心が痛む。
「内定取れたし、その報告も兼ねてね」
「余裕だね、葵」
「いいっすね、上野原先輩。中村先輩はどうされるんですか?」
「あー、全然決めてない。彼氏が今年は劇的に忙しいから、会える期待もしてないし。そういう伊東くんは?」
「同窓会があるんですよ、高校一年生の」
「いいねえ、高校一年ってもうずいぶん経つよね?」
「六、七年前だよ。もう結婚してたり、子どもいたりする人もいるんじゃない?」
「留学したり、浪人したり、留年したりでストレートに就職してる奴の方が少ないかもしれませんね。俺も大学院生ですし」
「私、高校は二つ行ってるから、最初の高校の同級生がどうしてるかって、もうわからないな……彼氏が最初の高校の同級生だったから、何かあったら教えてくれるかもしれないけど」
「二つ?」
私は力に杉谷高校から御勢附属高校までのいきさつをざっと話した。
「まあ、どちらにしても、六年とか七年って、ずいぶん長い年月だよね」
「そうですね」
「まあ、連休終わったらまた矢川先生のゼミもあるし」
「俺は必修科目の宿題レポートも出てます」
「また、連休明けたらいつも通りだね」
そういえば、同級生ではないものの、半年ごとの連絡によると原香奈子の様子は相変わらずで、まだ仮退院の様子もないそうだ。
確か最長二十六歳まで……だった気がする。それから先、彼女はどうなるのだろうか?
結局連休の予定がないのは自分だけだった。渉とは会いたいが、無理して会って渉の調子を崩しては元も子もない。
毎日ほんの少しメールのやりとりができる、今はそれだけで十分だった。
それも一つの恋するチカラかな、と思う。
そして、葵の挨拶がうまく行っているかどうか自分なりにやきもきしながら、ごく普段通りの休日を過ごしていた連休のある日のこと……。




